篠島を巡る旅で最大の目的だったのが篠島城。
事前のネット情報によれば、篠島には愛知県内唯一の城があるという。
本当かと思って「愛知県中世城館跡調査報告」全4冊を調べてみると、確かに城としての分類で掲載されているのは篠島だけ!
日間賀島にも一応城と思われる史跡があるようですが、参考地扱い。
城としての登録があるのは篠島城だけでした。
これは貴重だ。
もっとも読んでみると室町時代の城としての伝承が残っており、城としてのマニアックな見所があるわけではなさそう。しかし、県内唯一の島の城と言われると向かわざるをえないのが城オタクの性(さが)。
この城のいわれですが、建武の新政の後、吉野に立て籠もった後醍醐天皇は巻き返しを図るために皇子を各地に派遣して地方から勢力を盛り返そうとします。
そこで、宗良親王と義良親王の2人を北畠氏をつけて東北に派遣しようとします。
しかし、途中で嵐に遭い難破。
義良親王は伊勢に、宗良親王は遠江に漂着します。
義良親王は伊勢にしばらく滞在したのち、後醍醐天皇に呼び戻され後村上天皇として即位し、南朝勢力の代表者となります。
実はこの義良親王が漂着したのが篠島なのです。
ん?
伊勢でしょ?
と、いう疑問があるのですが、篠島は伊勢に属していた時期が長いのです。尾張藩になったときに領地替えで尾張藩に組み込まれているため、当時は伊勢。伊勢に漂着したというのは間違いではないのです。
そして、突然の貴人の来訪に驚いた村人は篠島城を築いて滞在していただいた、ということのようです。
このとき遠江に漂流した宗良親王は、井伊谷に身を寄せ信州まで落ち延び、三遠南信地方を南朝勢力として掌握します。
おお。なんか篠島と奥三河というか三遠南信繋がってるじゃん!と、感動。
そうした航路があった、ということが推測できます。
さて、その篠島城。
現在は城山と呼ばれていたりするようです。そして金比羅様が鎮座まします。
それ以外にも色々な祠が乱立しており、なんとなく異次元空間のような、神聖な侵すべからず的な雰囲気を醸し出していました。
※城山水神天狗、って、天狗を祀っているのですかね?!
残念ながら神社等を作ったり、近隣に家屋が立つ際に削られたり、草木が生い茂っていたりで、遺構らしきものは確認できませんでした。
ただ、地元での崇敬を受けている場所であることはなんとなくわかります。伝承とも一致するのではないかとおもいます。
そして、城山を下って周囲を歩いていると「皇子が膝」という案内表示を見つける。
案内表示によれば、義良親王が滞留している間、島民はここから漁に出入港する際、膝まづいていたことからそう呼ばれるようになったとか。相当な崇敬の対象となっていたのですね。
なお、もう一つ「帝井(みかどい)」というものも、少し離れた場所にあります。
義良親王が滞留した折に飲料水として献上した水の井戸だそうです。今も水をたたえており、岩壁は往時のままだとか。
海に囲まれた島にこれだけ豊富な水量の井戸がある、ということも貴重ですね。だからこそ、10年くらい前の調査で人口密度が日本でも一位の島と言われただけの人口を養えるのかもしれません。
なんにせよ、初めて篠島行きしたが、なかなか味わい深いところです。
大人の篠島。
そんな感じがしました。
事前のネット情報によれば、篠島には愛知県内唯一の城があるという。
本当かと思って「愛知県中世城館跡調査報告」全4冊を調べてみると、確かに城としての分類で掲載されているのは篠島だけ!
日間賀島にも一応城と思われる史跡があるようですが、参考地扱い。
城としての登録があるのは篠島城だけでした。
これは貴重だ。
もっとも読んでみると室町時代の城としての伝承が残っており、城としてのマニアックな見所があるわけではなさそう。しかし、県内唯一の島の城と言われると向かわざるをえないのが城オタクの性(さが)。
この城のいわれですが、建武の新政の後、吉野に立て籠もった後醍醐天皇は巻き返しを図るために皇子を各地に派遣して地方から勢力を盛り返そうとします。
そこで、宗良親王と義良親王の2人を北畠氏をつけて東北に派遣しようとします。
しかし、途中で嵐に遭い難破。
義良親王は伊勢に、宗良親王は遠江に漂着します。
義良親王は伊勢にしばらく滞在したのち、後醍醐天皇に呼び戻され後村上天皇として即位し、南朝勢力の代表者となります。
実はこの義良親王が漂着したのが篠島なのです。
ん?
伊勢でしょ?
と、いう疑問があるのですが、篠島は伊勢に属していた時期が長いのです。尾張藩になったときに領地替えで尾張藩に組み込まれているため、当時は伊勢。伊勢に漂着したというのは間違いではないのです。
そして、突然の貴人の来訪に驚いた村人は篠島城を築いて滞在していただいた、ということのようです。
このとき遠江に漂流した宗良親王は、井伊谷に身を寄せ信州まで落ち延び、三遠南信地方を南朝勢力として掌握します。
おお。なんか篠島と奥三河というか三遠南信繋がってるじゃん!と、感動。
そうした航路があった、ということが推測できます。
さて、その篠島城。
現在は城山と呼ばれていたりするようです。そして金比羅様が鎮座まします。
それ以外にも色々な祠が乱立しており、なんとなく異次元空間のような、神聖な侵すべからず的な雰囲気を醸し出していました。
※城山水神天狗、って、天狗を祀っているのですかね?!
残念ながら神社等を作ったり、近隣に家屋が立つ際に削られたり、草木が生い茂っていたりで、遺構らしきものは確認できませんでした。
ただ、地元での崇敬を受けている場所であることはなんとなくわかります。伝承とも一致するのではないかとおもいます。
そして、城山を下って周囲を歩いていると「皇子が膝」という案内表示を見つける。
案内表示によれば、義良親王が滞留している間、島民はここから漁に出入港する際、膝まづいていたことからそう呼ばれるようになったとか。相当な崇敬の対象となっていたのですね。
なお、もう一つ「帝井(みかどい)」というものも、少し離れた場所にあります。
義良親王が滞留した折に飲料水として献上した水の井戸だそうです。今も水をたたえており、岩壁は往時のままだとか。
海に囲まれた島にこれだけ豊富な水量の井戸がある、ということも貴重ですね。だからこそ、10年くらい前の調査で人口密度が日本でも一位の島と言われただけの人口を養えるのかもしれません。
なんにせよ、初めて篠島行きしたが、なかなか味わい深いところです。
大人の篠島。
そんな感じがしました。
というのは、豊根村には後醍醐天皇の孫、尹良(ゆきよし)親王が滞在したという
お話が残っていて、昔から何故そこにやんごとなきお方が?
という疑問をずっと持ち続けておりましたが、やっとわかりました。
南北朝時代の話は難しすぎてあまり関わらないようにしておりましたので
調べる気もなく・・・。
熊谷家という由緒正しい家もありますから、滞在先に選んだのかもしれないとか
考えると、篠島にも由緒正しいお世話びとがいたのかも、(伊勢神宮との関わりの深さでもわかりますね)
なーんて妄想がまた始まってしまいます。
篠島にも興味を惹かれるような歴史がたくさん残っているんですね。
こういうお話はなかなか知る機会がありませんのでとても勉強になります。
最近、調べれば調べるほど、南北朝時代へ行き着くことが多くなってきました。戦国よりマイナーですが、実はかなり魅力ある時代に最近思えてきています。
妄想が加速しそうです。
ありがとうございます☆