長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

勝間田城 ~尾根筋を極度に嫌う城~

2013年12月29日 | 落城戦記
年末に独身として身軽な1日がある。
12月28日(土)。

が、確定したのは23日。
要は、妻子が自分より先に実家へ帰省するわけです。そうなると、自分は妻には悪いが解放Dayとなる。
そして、突然25日に城面子での飲み会が開催されたので、突然設定されたので28日に城いこまい、と、わめく。

佐渡は残念ながら家庭の予定があるため、紀伊、団にょと行くこととなる。
当初の行き先は琵琶湖の北端、菅浦。
戦国時代の村同士の争いで有名な場所。大変に風光明媚な場所らしいので前々から行きたいと思ってました。

が、帰宅して天気予報を見て驚く。
28日から冬将軍が襲来して北陸は大雪の予報。滋賀も雪だるまのでかいのが「どん」と予報欄に鎮座されてます。

冬は冬毛(スキー仕様)になるフォレスター時代ならばともかく、昨年からファミリー向けのフリードは、ハナから雪道の利用を捨てている。FFだしスタッドレスもタイヤチェーンを買う予定もない。

天気予報は、太平洋ベルトのみ快晴の予報。
伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河ならば大丈夫そう。

で、いろいろと検討した結果、遠州勝間田城をメインに据える。

この城、5連の堀切が見事、と、聞いていたので一度行ってみたかった。「静岡の山城ベスト50を歩く」の縄張図を見ていても、尋常じゃない堀切の数があって迫力ありそう。しかも、道が整備されていてさほど苦労せずいける、ともある。
目標が決定したので行軍ルートと合流時間が決定する。合意が確定したのは27日の夜10時頃。

仕事納め直後で腑抜けになっている皆に早めの出発を促し、結果的に朝8時半に名古屋発。
豊橋で団にょと10時に合流。

勝間田城へ向かい高速を降りたのが11時ちょい過ぎ。
このまま城へ向かうと昼飯を抜いた状態で向かうことになる。
昔のように気合の入った状況ならともかく、既にこの旅も始めて10年。肩の力も抜けてきているので「まず飯にしよまい。」と、飯を優先。

そんなことを話していると「静波海岸」なる看板が目に入ったので、「海、見に行こう。」と、いきなり進路変更。海岸端ならうまい魚でも食えるのではないか、と、ノープランで突撃。

看板があるものの、走っても走ってもなかなかつかない。
「遠くねぇか?」と、私が懸念を示してナビを見るために路肩に車を寄せてハザードを炊く。

紀伊が言う。
「このぐだぐだ感。目的地にたどり着けないのがこの旅の原点だったはず。ここで諦めるのか?」

① 寄り道を諦めて目的地に行く
② 目的地に行ければラッキーで本能の赴くまま寄り道を優先

この2つの価値観、通常ならば迷わず①。
『が、そんな人生で良いのか!』
と、いう重大な問いを紀伊がした。
と、思った。

城は見たい。
海も見たいし、魚も食べたい。

目的地を忙しく見るのが大事ではない。寄り道しながら道中の花を愛でることを優先するのが、本来のこの城旅のはず。実際、この寄り道で古宮城を偶然見たり、金子みすずの生誕碑に行って「こだまでしょうか。」と叫んでみたり、と、旅に彩りを添えたのは寄り道。

「このままいこう。」
と、私が決断したのは紀伊の発言から10秒後だった。

やはり、仕事から離れてのんびりするのであれば、あくせくする必要などない。

そして、地元のスーパーを発見。
我々の旅では、特に海沿いの町の場合、地元のスーパーで魚系を見ると見たこと無いものが売ってたりして面白いし、店で食べるより安いので、寿司を買って景色の良いところで食べることが多いのです。

今回は、刺身の切れ端が安いのと、自分でご飯をよそって購入できる惣菜コーナーがあったので、迷わず両方を購入。刺身をご飯に乗せて海鮮丼を作ることを想定。ついでに、地元の特産と書いてある魚のすり身のフライも購入。

※車の中で広げているので見苦しいですがご容赦を。

それらを景色の良いとこで喰おう、と、海岸へ。

さぶいので車の中で男三人が年末に海を見ながら、スーパーのお惣菜を食べる。

と、いう画面はなかなか強烈なものがあるよねぇ、などと、話しながら食す。
美味い。

※食後の一服をする紀伊。勿論煙草は携帯灰皿に。

なんとなく学生時代を思い出させて良いです。

※波打ち際に行く紀伊を車中から撮影。さぶいので私と団にょは車中のまま。このあたりが学生と違う。

さて、飯も食った。海も見た。

目的地へ向かう。
勝間田城下の駐車場に到着。
勝間田城ってこんな城。

※現地案内看板

さて、非常にざっくりとした概要をお話しますと・・・。
勝田(かつまた)氏という一族のお城でしたが、文明8年に駿河の今川義忠が遠州に侵攻。勝田・横地の一族は抵抗しますが落城させられてしまいます。城に関する記録上はその程度のようです。

しかし、勝田・横地の一族がすごいのはここから。
浜松まで征伐に行き念願の遠州を手に入れて意気揚々引き上げる今川義忠を、なんと、帰路の塩買坂で奇襲。
討取ってしまうのです。

その後の今川家は大混乱に陥り、そこに伊勢新九郎が介入し後北条氏となるのです。

今川義元って、先祖に似たような人がいるな、と、前から思っていたのです。
その後の勝田一族はよくわからないようですが、桶狭間に似たような話が強烈で、その舞台の一翼を担う城を見ておきたかったと言うことがあります。

しかし、この城の造作を見てみますと、非常に技巧的。
その後の城を改変した記録がないとはいうものの、明らかに義忠時代の城ではない。

この改変者が武田、という人がHPなどでは多いようですが、徳川という人(「静岡の城 研究成果が解き明かす城の県史」加藤理文 126頁)もいます。

さて、まず城を見てみます。

駐車場から見事な茶畑を見ながら歩いていくと富士山が!


茶畑と富士なんて静岡だよね、と、思いながら、ここが出曲輪。
下からの攻撃に対して、いわば馬出的な役割も持っていたのではないかと思います。
富士だ富士だと、富士山を見ながら歩いていくと、いよいよ城の本体部分へ。



三の曲輪の下をぐるりと回らされていきます。曲輪は切立っており取り付くのが難しそう。攻撃され放題、という感じです。

三の曲輪に到着。


まず、広さに驚く。
これはどう考えても大軍の駐屯を想定して削平した感があります。
自然地形を生かして三の曲輪は横矢が掛かるようにもなってます。

そして三之曲輪西側にある堀切を見に行く。

※分かりにくいですが結構な大きさの堀切。見るとすごいです。

その途中、三の曲輪から目をやると、先ほど歩いてきた谷を隔てて出曲輪が丸見え。

※草木で分かりにくいですが、明るい部分が出曲輪。

私達が「富士山だ。富士山だ。」と無邪気に喜んでいる後ろから、おもいきり攻撃されてたわけです。
無念。

二の曲輪と三の曲輪の間には結構な土塁が。

※切れている場所は虎口ではなく後世の道をつける際のものらしい。(by 山城ベスト50)

この土木量と削平地の広さは勝田氏時代には必要ないようい思われます。
二と三の曲輪には建物跡の露出展示もあります。

※寝るな。

三の曲輪の周囲をあるくと尾根筋に繋がる部分は全部堀切が作ってある。

その後、いよいよ本曲輪へ向かう。
縄張図だと非常にでかい感じの二の曲輪と本曲輪間の堀切ですが、後世につけた道から見るとこんな感じ。


掘りきった分を本曲輪側に盛り上げたのでしょう。二の曲輪からはさほど高低差が無かったです。ただ、本曲輪側は切立った形になるので極めて取り付きにくい。
この本曲輪の腰曲輪的なところは、現在の道がついている方に土塁があることから、昔からこちらが道として使われており、後世に埋めたか何かで拡幅したのだろう、と、推測されます。

その後、本曲輪へ行く場所で三叉路みたいになる。


本曲輪と反対側の尾根筋に向かうと、もう、富士山が綺麗に見える。



※富士山はなんか写真撮ってしまいますね。

で、この尾根筋が、5連の堀切がある場所という。
確かに、ずどんと落ちるように切られている。その向こうも見渡せる。


紀伊、団にょは行く気なしなので、独り5連を確認に行く。

※1つめの堀切を渡った反対側から見る。

最初の2つは高低差がすごい。



※うしろからよこからどうぞ。

徐々に高低差は小さめのものとなっていきますが、尾根筋を切ろうとする堀切上のものがあります。


さて、見所の5連堀切を堪能したあとは、いよいよ本曲輪へ攻め込む。

※この斜度!削って盛って、てしてますね。

本曲輪からみて南東にある馬出状の曲輪があるのですが、その間を削ってその分を盛っているようですね。
この間を抜け回りこむ形で本曲輪に入る形状は明らかに敵の攻撃導線を伸ばそうという意図かと。

※人一人分の細さです。

本曲輪へ侵入する細い道沿いに高い土塁が構築されていました。この状況からも、我々の侵入経路が本来の道と見て良いでしょう。

※ 無事落城。

その後、自分ひとりで本曲輪北東の堀切を見学に行く。
なるほど、立派だ。


そこから先ほどの本曲輪へ回り込む道へと繋がる。


そこを歩いて戻ろうとすると上から声が。
「敵だ!」
との声とともに枝が降ってくる!
紀伊と団にょが攻撃を仕掛けてきた!こえぇぇぇ!細いし逃げ場ないし。て、いうか石も降ってくる!

※良い子は決して真似しない。小石といえども危険です。

その後、南東の尾根道を探索。

※登り出すのを見つけて、そこでストップ。

尾根道方面からの攻撃はこの馬出状の曲輪と本曲輪間の堀切で守るのでしょう。

※これでは攻撃側は死ぬしかない。

正直、この城から感じるのは
『尾根筋からの攻撃を徹底的に断ち切る』
という思想。

すさまじいまでの執念を感じます。とにかく尾根筋に繋がる部分を徹底的に、隙無く遮断しようとする意図を強く感じます。

この城を見ると直感的には武田の城っぽく感じます。
二の曲輪や三の曲輪は、私の乏しい経験からすると新府城っぽい。(どこが、と、言われるとこまりますが。)
あと、堀切の感じも三河の城にはない感じです。

が、この城の防御がどこに向かっているのかと考えると駿府方面。
本曲輪南東の馬出状の曲輪の続く尾根筋の方が本曲輪に近く高くなっていく感じです。堀切が道がついていたからかもしれませんが、5連のときのような「尾根を切ってやる。」という感じではない。こちらは、いわば高天神の方面へ向かっている。諏訪原城も防御が弱い方向側。(方角は違う) 

そう考えた場合、この城が向いている方向が武田だと変。

はてねぇ・・・?と、不思議に思って『静岡の城 研究成果が解き明かす城の研究』(加藤理文)を読んでいると、徳川家康が高天神を落城させた後、小山城が武田の拠点として活用されていた、と、ある。

なるほど。
小山城はまさに防御方向!

この本の説明が、一番しっくりきました。

そして、武田の城を接収した徳川方が武田敵築城術を身につけた、あります。
武田っぽいと感じたのは、こうした技術の転用によるものなのかもしれません。
ただ、この武田っぽい城だけど、年次や築城方向が謎、という城については、今後、徳川の視点でよく考えてみると面白いな、と、改めて確認した次第です。

さて、この後、小長谷城へ向かう!と、思っていたのですが、50km以上の移動距離・・・。
着く頃には日が翳り始めそうだったので、中止。
さて、どうしたものか、と、思っていたら、
「富士山静岡空港が見たい。」
と、紀伊が言う。

滑走路予定地上の木で揉めたりと話題の空港だけに一度見ておくのも悪くなかろう。何より
「これを逃したら、この空港来ることないだろう。」
と、いう紀伊の一言に団にょと自分も納得。

やってきました富士山静岡空港。
とてつもなく強風が吹きつけ、どっさぶい!

※さすが綺麗です。駐車場無料も嬉しい。

息子がいれば「ひっこ、ひっこ」と喜ぶだろうなぁ、と、父としての感情がでる。
お土産屋もあるので、これは便利。


そして、フライトシミュレーターがある。100円でできるのでチャレンジしてみる。

当然、急降下、急上昇、急旋回をして墜落を二度ほどして建造物をなぎ倒して、結果的に強制終了。
紀伊に「あんたやらんのか?」と聞くと、
「ワシも同じことをやるだけだから、もういい。」とのこと。

その後、食堂でフリードリンクを注文し、まったりモードへ。

※飛行機が来ない・・・。

飛行機が来ないと嘆いていたら、FDAのカラフルな飛行機が到着!
富士山と飛行機、というお好きな方にはたまらない画!!


なかなか見ごたえがありました。
その後はゆるゆると帰宅。

久々のゆるい旅。
こういう時間の無駄遣い旅が一番の贅沢と感じる今日この頃です。

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