goo blog サービス終了のお知らせ 

南飛騨からこんにちは

田舎で農業しながら、日々気になること、ふるさとのこと、おもしろかったこと、趣味のことなど気軽に書きます。

飛騨漫遊 大正2年の写真

2013-03-27 | ふるさと調査

この地域の旧家に保存されていた珍しい写真です。

この写真には、裏書きがあり大正2年に、この地方の下原(現下呂市金山町下原)出身の加藤鎮之助が当時の著名な文化人を飛騨漫遊の旅に案内したおり、この写真にある下呂市瀬戸地域にある景勝地孝子ケ池で休憩し、撮影したものでした。

主な人物名は、裏書きの解読で判明しましたが、どの人物かをすべて解明するのは困難でした。

裏書きにある人物について調べました。

土方久元

天保4年(1833)10月16日~大正7年(1918)11月4日
慷慨の士で、東遊して若山勿学・藤森弘庵に学び、志士と交わった。文久元年土佐勤王党に参加し、3年藩命により上京して時勢を観察し鷹司・三条・姉小路ら公家の邸に出入りし、薩長の諸士と往来した。中岡慎太郎と共に薩長連合の実現に尽力した。維新後新政府に仕え、江戸府・東京府の判事、鎮将府弁事を経て4年太政官に出仕し、内務・宮内少輔を経て内務大輔・内閣書記官長・元老院議官・宮中顧問官・農商務大臣・宮内大臣・枢密院顧問官・帝室制度調査局総裁心得などの要職を歴任した。

藤沢 南岳

天保13年(1842)年10月12日- 1920年2月2日

儒学者。讃岐生まれ。藤沢東�雄の長男。名は恒、字は君成、通称は恒太郎。号は醒狂、香翁など。大阪の泊園書院を父から継承し、数千人の門人を擁した。高松藩に仕え、左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後、藩の保全に尽力、藩学講道館にて督学、1887年大成教会を興した。

坂 正臣 

安政2年(1855)3月21日生~昭和6年(1931)8月26日歿

愛知県の知多郡横須賀町生まれる。正臣は名、字は從叟、幼名は政之介。茅田小民・木隠弟鬼・観石・桃坪などと号し、その居を樅屋と称した。宮廷歌人として皇族たちに歌や書を教えた。下呂市萩原町中呂の禅昌寺にある「ゆかりの梅」の石碑に阪正臣氏の揮毫が刻まれている。

 

細川文学博士(細川 潤次郎)

天保 5年(1834年)3月11日) - 1923年(大正12年)7月20日)

土佐藩藩士・蘭学者・法学者・教育家・男爵。政治的要職としては司法大輔・貴族院副議長位であった。近代法導入の功績に関しては高く評価されている。

日本が近代的な法制を整えるにつれてその政治的な情熱は影を潜めて、やがて早々と政界を引退して教育界に「第二の人生」を求めた。

甲斐 虎山【かい こざん】1866年~1961年
大分県臼杵市の海添の人。幼少より画を好み、初めに菊川南峰に就き漢籍を修め、旧大分郡浄雲寺、城陽師に師事して画を修める。明治13年に同郷の加納雨蓬戸と共に戸次へ至り帆足杏雨に学ぶ。その後、三原活山・村上姑南・広瀬濠田・秋月古香にも師事した。専ら田能村竹田・帆足杏雨の画風を研さんし一家を成し、杏雨門下の名家として名も高くなり、別府亀川の瑠璃荘にて筆を取っていた。晩年揮ごうも多く、虎山独特の画風を持って多くの傑作を残した。

首藤白陽

慶応3年(1867年)~昭和2年(1927年)
名は寛、白陽は、号で、現在の大分市の生まれ。帆足杏雨に、南画を学び、福岡や京都を遊歴、大正年間には東京に住んで作画を行う。

後藤 秋ごとう しゅうがい)

 (1886~?) 名は正秀。明治19年岐阜県に生れる。田近竹邨に南画を学ぶ。京都に住した。

藤本煙律(ふじもと えんりつ)

天保9年(1838)(戸籍上では嘉永2年)に神東郡井ノ口村に生まれた。

煙津は、日本画を島琴江(1821~1899)に学び、のちに村田香谷(~1912)に師事して南宗派の画を修めた。

特に山水画を得意としたほか、漢詩・篆刻でも多くの作品を残した。戸籍の上では嘉永2年(1849)5月13日に出生したことになっているが実年と11年の差がある。同村藤本林蔵の次女ゑつと結婚し藤本家の養子となった。

加藤鎮之助

 明治2年(1869年~昭和12年(1927年)

下原生まれ。号は桂山。加藤武精(名:四郎兵衛、加藤素毛の弟)の長男。岐阜中卒。東京に出て農本の奨励に意を注ぎ、除虫液で害虫駆除に尽力し、雑誌「大農園」

を発刊。大正2年養老に孝子源丞内の公聴碑を、また大正5年に孝子門原左近の碑を建立し、忠誠孝悌の顕彰に心を注ぐ。 大正4年1月、大阪府富田林市にある楠公夫人の楠家香華寺の再建を発願し、約30年をかけて楠費妣庵観音寺を建立した。享年69歳。墓は楠費妣庵観音寺にある。  

以上がこれまでの調査結果です。なお、この飛騨漫遊で記された、書画類は、現在加藤素毛記念館に保管されています。

人物調査は、日本歴史学会編「明治維新人名辞典」、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」などを参考にさせていただきました。

 



最新の画像もっと見る

6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
七卿記念碑に名前があります (浦辺登)
2017-06-04 09:38:11
太宰府天満宮の「七卿記念碑」建立にあたり、加藤鎮之助の名前があります。
返信する
情報ありがとうございました (o.kumazaki)
2017-06-04 14:35:55
コメントありがとうございました。加藤鎮之助は農薬の開発販売で財をなした人で大宰府にも名前刻まれているのですね。この地域の孝子ケ池にも加藤鎮之助が建立した孝感泉という碑があります。一番大きなものはブログにも書きましたように大阪府富田林市にある楠公夫人の楠家香華寺を再建したことのようです。
返信する
Unknown (南坊城光興)
2018-08-04 12:00:00
こんにちは。
たまたまこのページを拝見しました。

前列、右から二人目の頭巾をかぶっている人が、藤澤南岳です。
その左の立派はあご髭のある人が藤本煙津(えんしん)です。
返信する
ありがとうございました (o.kumazaki)
2018-08-04 15:26:21
ご教授ありがとうございました。
なかなかお名前が解明できず調査は止まっていました。煙律でなく煙津の修正もありがとうございました。
返信する
Unknown (南坊城光興)
2018-08-12 08:58:19
おはようございます。
先日、下呂市で41℃の日に孝子ケ池に行ってきました。
「孝感泉」碑があり、「孝」の字を土方久元、「感」を細川潤次郎、「泉」を藤澤南岳が揮毫されています。
一字ずつ違う人が揮毫している石碑は珍しく面白いものでした。
返信する
知りませんでした (o.kumazaki)
2018-08-12 09:45:30
孝感泉の碑を加藤鎮之助が建立したことは知っていましたが揮毫の字のことはうかつでした情報ありがとうございました。この飛騨漫遊の記録・直筆の書などは、下呂市金山町下原の加藤素毛記念館に保存されています。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。