南飛騨からこんにちは

田舎で農業しながら、日々気になること、ふるさとのこと、おもしろかったこと、趣味のことなど気軽に書きます。

稲荷神社って?

2014-10-29 | ふるさと調査

この地域の白山神社にある稲荷様の鞘建屋の柱が朽ちて倒れそうになったので寄付が呼びかけられ修理されました。修理後、鞘も社も赤いベンガラが丁寧に塗られていました。

社の中に色付けされた像が入れてありました。背中に文久3年と書かれています。後5年で明治になるのでそれほど古いものではないようです。

像はキツネに乗り稲束をかついでいます。ちょっと不思議な感じがするのでネットで稲荷神社を調べると、概略次のよな神話の説明がありました。

「太初の時代、人口が増加するに従い、主食の増量が必要となり、天照大神は五穀生産の担任者として豊受明神に命じました。

その際、豊受明神は稲の頒布に狐を使いました。

稲荷の文字は稲を荷ぐという意味です。

他の説では稲荷とは言霊学上、飯成といって飯種を成らせるという意味と取れます。

こうしたことから農民は、狐の労に感謝するとともに豊作を願い稲荷大明神を祀りました。

女神が狐に乗り狐が稲を咬えている稲荷神社の御札など、それを表わしたものです。」


臨時特急ワイドビューへの歓迎旗ふりの最終日

2014-10-27 | 写真

10月初めからスタートした区会提案による高山線全通80周年記念臨時特急ワイドビューへの歓迎旗ふりの最終日です。最後の一枚を撮影しました。なんとか列車のラッピングと旗を振っている皆さんの表情を入れたかったのですがやはり無理でした。

シャッター優先で撮影しましたが曇り空で絞りが開いていたのか映像が甘くなりシャープネス処理しました。

撮影はニコンD40+シグマズーム17-70mmF2.8DCです。

前回アップしたこの写真は、下呂市観光課が使いたいという話がありました。


下麻生の城址

2014-10-26 | 写真

国道41号はもう何十年も何百回も走っていますが、昨日はじめて気がついたのですが、川辺町下麻生地区の臨川寺の入り口に下麻生城址の標記がありました。

下麻生地区は、江戸時代高山代官所があり、飛騨川で流下した材木を集積し筏に組んで、下流へ運んだところで、歴史的には注目していましたが、城祉があることは知りませんでした。

ネットで調べると城址は、お寺でなくその奥の断崖絶壁の山が「山城」だったそうです。

さらに川辺町のサイトで調べると「戦国時代に稲葉氏一族が岩山の頂上に築いたと言われる城で、現在も枯れることのない城井戸が残っている」と案内してありました。この山に登った人のブログもあり結構登りやすく、二つのピークがありそれぞれに小さな神社の祠が祀ってあると案内してありました。写真は車中から急いで撮りました。まだ詳細は分かりませんので次の機会には下車して調べたいと思います。

 11月1日追記
下麻生城址(川辺町指定史跡)
飛騨川を一望できる断がい上にあった山城で、遠謀は白川、八百津、兼山方面におよび、飛騨街道の要塞を占めていた。別名「遠見山」と呼ばれていたこの城は、3つの山からなり、本丸、二の丸、旗揚場などが構築されていたと推定される。山頂には枯れることのない城井戸が現存している。
城主は、稲葉一族の彦六(良通一鉄)ともいわれ、戦国時代に築城してこの地方を支配していた。
しかし、金山(兼山)城主森長可によって攻められ落城した。その後、井戸七郎兵衛が城を守って、白河方面の中継地としていたが、再び戦乱が起こり、城主は落ち延びて廃城となった。
井戸七郎兵衛は、稲葉氏の家臣とも言われ、撤退のさい森長可によって船中で謀殺されたとの伝承がある。(川辺町教育委員会資料より)
11月1日再度撮影

新しい照明方式の開発

2014-10-21 | 家電など

LEDの開発は照明技術を革新的に変えましたが、すでに次の照明技術の開発が進められています。東北大学の下位法弘准教授らはカーボンナノチューブを使用した新型の光源を開発し研究成果を発表したそうです。

基本原理はTVのブラウン管と同様で電子を蛍光面に照射し発光させる方式ですが、電子を出す陰極にカーボンナノチューブを使用し効率が良くなると期待されています。消費電力はLEDの100分の1程度に改善できる可能性があるようです。

特許を検索した結果、すでに登録されていました。実用化されるのが楽しみです。

以下は、特許の概要を引用しました。


70回忌 鳳凰開拓団を伝承する会がありました

2014-10-19 | ふるさと調査

下呂市の私が居住する中原区の主催で「鳳凰開拓団を伝承する会」火打地区の臨済宗東泉寺で行われました。

開会の鉦が鳴り、区長のあいさつについで、70回忌法要のお経があげられたあと、関係代表者の焼香で法要は終りました。

 

報告に入り、中原小学校の武田淳次先生がプロジェクターによって背景・歴史・経過・犠牲者の実態など詳細に分かりやすく話されました。

次いで残り少ない開拓団の体験者である保井戸地区の桂川慎一さんから地図を示しながら報告がありました。13才で親と入植し17才で家族・村民の集団自決を目のあたりにし、今でも自決については話したくないとのことでした。約1年をかけて中国大陸から帰国した壮絶な経験を話されました。

お寺の若和尚から「これまで位牌があることは知っていたが開拓団の話は、初めて知った。次の世代に伝えていきたい」と感想を述べられました。

これまでも下呂町の「平和の礎」やこの地域のふるさと研究会発行の「中原の名所史跡と伝承」などでも鳳凰開拓団の悲劇は記されてきましたがまだまだ区民の中に広がっていないようです。これを機会に話が伝わって行くことを期待したいと思います。

10月22日追記

 帰宅して当日配布された「敗戦・自決・引き揚げ」という資料を読みました。この中にあった泉校長先生の手記を引用します。・・・団長自らも自分の家族五人に毒薬を服用させ、また、拳銃をもって処置された。・・・・私の妻は、今まで見たこともない綺麗な、いや透き通るような、そして神々しい、何と例え様のない顔をして、仕立下ろしの晴れ着を着、二人の子も着飾っており「お父さん、早くお星様にして下さい」といった。私は家族の身に日本刀を振った。・・・・このようなすざましい内容が記されています。桂川慎一さんが話すことができないのは、最もと思います。この手記の著者泉校長先生は良く書かれたと思います。また桂川慎一さんは、鎮魂の気持ちをこめて現在も毎日写経を続けておられるそうです。