先週25日に母をおくりました。あと2日で93歳になるところでした。
(数年前、病院の帰り地元の山間の深谷という江戸時代に開拓された地域にある開拓碑の前で撮りました)
母は、昨年夏頃から認知症がひどくなり精神科病院で入院加療した結果幻聴・幻覚・妄想などの症状がほぼ治まりました。
昨年10月、退院にあたり病院のカウンセラーのアドバイスでグループ・ホームへ入所し、その後安定状態で過ごしていましたがこの2月に誤嚥肺炎で入院し回復しつつある過程で脳梗塞になり3月22日静かに息を引き取りました。
母は、大正12年生まれで、昭和13年実科女学校を卒業後、17歳のとき同じ区内の父と結婚しました。
18才で長女を産み昭和19年末、20歳で私を出産しました。
昭和20年、父が働く四日市海軍燃料廠周辺への空爆がはじまったため、母は私を背負い姉の手を引いて田舎へ帰る途中、名古屋駅で空襲のため防空壕に逃げ、乗り換えの鵜沼駅でアメリカの戦闘機の銃撃を逃れて畑に隠れ何とか郷里へ無事帰ったと話してくれました。
終戦になり父は海軍燃料廠から郷里へ帰りましたが長女は戦後の混乱期に赤痢に感染し3歳で亡くなってしまいました。
その後、母は、3人の子を出産しましたが、父は電力会社へ入社して間もなく結核を患い長期療養のため数年間、母と祖父母で子供を育てた時期もありました。戦中戦後は大変な20代であったと思います。
その後、父も長期療養から戻り電力会社で働きながら無難に子育てをしていましたが、母40歳のとき父をガンで失ってしまいました。私は就職していましたが、母は残る子供3人を社会に出るまで一人で育てあげました。
子育て後は少しフリーになり元気にやっていましたが60歳で関節リュウマチを発症しこの90代まで病気にめげず根気よく治療に取り組んでいました。
80代までは「病気もちで私は、長生はできん」と言っていましたが、それでも92才という長寿を全うできて本当に良かったと思っています。
母は意識が無くなる直前、妹に、自分が仕立てたお気に入りの「江戸小紋の緑の着物で逝きたい」と伝えました。兄妹で希望が聞けていて良かったと喜びました。
葬儀後久しぶりにカメラを提げて外へ出ました。南にある、行者山のこぶしの花が満開です。
こぶしが咲く年は豊作と言われますが。さあどうでしょうか農作業が楽しみです。
ソメイヨシノはまだですが、川沿いのピンクの桜や観音堂の桜はほぼ満開です。
地元の古老たちは、観音堂の桜の開花を農作業を始める合図にしていたと聞きます。