南飛騨からこんにちは

田舎で農業しながら、日々気になること、ふるさとのこと、おもしろかったこと、趣味のことなど気軽に書きます。

「飛騨国中案内」を入手

2017-01-28 | ふるさと調査

退職してから、ふるさと研究会の応援をしていて地元の歴史などに興味がわき飛騨の代表的な歴史本を是非入手したいと思いましたが、古本入手も難しく、田舎で図書館に行くのも結構面倒で、何とかならないかと思っていましたが、数年前、国会図書館のデジタルライブラリーを検索すると飛騨地方の歴史を知るうえで貴重な「飛州志」(長谷川 忠崇1728年編纂)がアップされていてダウンロードできました。(以前このブログで紹介、現在「飛州志」写しもアップされています)

 

その後、江戸時代後期の飛騨を記した「斐太後風土記」(富田礼彦1873年編纂)は幸いにも近くの叔父が書籍を所蔵していて借りることができました。(この書籍も新たに国会図書館デジタルライブラリーにアップされています)

残る一冊、是非必要と思っていた「飛騨国中案内」(上村木曽衛門1746年編纂)が国会図書館デジタルライブラリーにアップされていて早速ダウロードできました。

これで江戸時代に編纂された主要な書物三冊が揃いました。この分野のデジタル技術の進捗は大歓迎です。

 


お美津稲荷へ

2015-11-17 | ふるさと調査

今日は、所用で下呂市小坂町へ出かけた帰路念願の「お美津稲荷」へ寄りました。
子供のころはこの稲荷の民話は聞いたことがありませんでしたが退職して下呂へ戻ってから「JA飛騨」ニュースの民話コーナや先輩が書かれた歴史本など読んで初めて知りました。

場所は、JR上呂駅交差点から国道41号を車で2kmくらい北へ行った地区の右の山斜面にありました。

 

大きい立派な社を思い浮かべて登りましたがなんとビニール波板の半透明の引き戸のある建屋の中にあるではありませんか。

またすぐ左に民家のような家屋があり周辺が囲まれていて、何か他人さまの家に入る感じでした。

賽銭箱にお金を入れるとお経が流れる仕組みになっています。

上り坂と社の右には女性の名前を刻んだ石碑がいくつか祀ってありました。願掛けか・成就のお礼の奉納でしょうか?

【民話の概要】

その昔、飛騨街道の上呂橋場と尾崎橋場には宿屋や飯屋が軒を連ねて、そりゃ賑わっとったんやって。なかでも、宿場で働くお美津という娘はきれいと評判で、近在の衆の人気を集めとった。
 上呂橋場の北には、「さいらの」という寂しい原っぱが広がっておって、いつの頃からか、飛騨街道きっての親分ギツネが棲みついておった。

 このキツネは人間の女に化けるのが得意でな、美しいお美津に化けては、鼻の下を長くした若者たちをたぶらかした。それで、さいらのの「お美津ギツネ」と呼ばれるほど有名になったんやと。
 そのお美津ギツネには、子分の女ギツネとの間にかわいい子ギツネもおったんやが、ある日、子ギツネが遊んどる間に、猟師の勘八に捕まえられてまったから大変や。
親分の一大事に、飛騨各地から子分たちが駆けつけて、高山の浄見寺野で子ギツネをどうやって助けるか相談をした。どのキツネも口を尖らかいて議論したけど、なかなか名案も出ず、夜明けまでかかったんやと。

 ある晩おそく、勘八の家に坊さんが訪ねてきたんやと。坊さんは、生け捕りにした子ギツネが見たいっていうもんで、その通りにすると、子ギツネを抱いた坊さんはねんごろに念仏を唱え始めた。
 勘八も神妙に念仏を聞いておると、いろりの火が消え、気づいた頃には坊さんもキツネもおらなんだ。

詳細は下記を参考にしてください。

http://azusaya-hidatakayama.blog.so-net.ne.jp/2008-06-23…


焼石駅 新駅舎

2015-04-12 | ふるさと調査

JR焼石駅舎が開通時以降はじめて建て替えられました。

昭和4年に高山線が焼石駅まで開通し、ここから下呂温泉へ向かうタクシーなどが出ていました。

昭和30年代初めまでは、焼石駅も木材の集荷・出荷駅として利用されていて、駅前には日通の事務所や飲食店などがあり賑わいがありました。

旧駅舎

今は、通学の乗降客などが主で昼間は閑散としています。

新駅舎

 

新駅舎は、電気・制御設備と区分わけしてあり、待合室も、三人掛けのベンチでかわいい部屋でした。

 

この焼石地区に鉄道が開通する以前の状態を大正末に熊崎静一という方が写真に残しておられます。これと比較するため昭和50年に知人がほぼ同じ位置で撮影をしています。こんな田舎でも家屋数がずいぶん増えています。本当に貴重な写真です。

 

 

 

 


列車転落事故の慰霊碑について

2014-12-08 | ふるさと調査

2013年5月のブログにもアップしましたが、戦時中にあった高山線列車事故の慰霊碑について紹介します。

昭和20年1月10日に写真背景に写っている保井戸地区内の鉄橋で岐阜発高山行きの列車2両が飛騨川に脱線転落し45名の方が亡くなられました。

当時戦中ということもあるのか事故原因の調査結果は明らかにならないまま今日に至っているようです。この地域の犠牲者はこの慰霊碑を設置管理されている水明館の館主であった滝多賀男氏、中原村細江頼武村長他焼石地区や和佐地区の方など数名でした。
今回、事故後70年を迎えるにあたり、水明館関係者のご尽力によりこれまで祀られていた地蔵尊に加えて慰霊碑が建立されました。裏面には殉難者名が刻まれています。国道41号を通過する折に訪れてみてください。

慰霊場所

以前からあった地蔵尊

碑文

殉難者名


稲荷神社って?

2014-10-29 | ふるさと調査

この地域の白山神社にある稲荷様の鞘建屋の柱が朽ちて倒れそうになったので寄付が呼びかけられ修理されました。修理後、鞘も社も赤いベンガラが丁寧に塗られていました。

社の中に色付けされた像が入れてありました。背中に文久3年と書かれています。後5年で明治になるのでそれほど古いものではないようです。

像はキツネに乗り稲束をかついでいます。ちょっと不思議な感じがするのでネットで稲荷神社を調べると、概略次のよな神話の説明がありました。

「太初の時代、人口が増加するに従い、主食の増量が必要となり、天照大神は五穀生産の担任者として豊受明神に命じました。

その際、豊受明神は稲の頒布に狐を使いました。

稲荷の文字は稲を荷ぐという意味です。

他の説では稲荷とは言霊学上、飯成といって飯種を成らせるという意味と取れます。

こうしたことから農民は、狐の労に感謝するとともに豊作を願い稲荷大明神を祀りました。

女神が狐に乗り狐が稲を咬えている稲荷神社の御札など、それを表わしたものです。」