ぬえの能楽通信blog

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ふたつの影…『二人静』(その6)

2014-07-08 11:39:47 | 能楽
ツレ「真は我は女なりしが。この山までは御供申し。此処にて捨てられ参らせて。絶えぬ思ひの涙の袖。
地謡「つゝましながら我が名をば。静かに申さん恥かしや。
 とツレはワキへ向き

ついに霊は自分の名を明かします。だってワキが当ててくれないんだもの。
それでも恥じらいを含んだ答えは「静かに申さん」と、あくまで名をほのめかす程度。

ところで『二人静』で「この山までは御供申し。此処にて捨てられ参らせて」と描かれ、能『船弁慶』では摂津・大物の浦で静は義経と永遠別離をしたことになっています。さらに能『吉野静』では『二人静』と同じように静は吉野にいたことになっていますが、そこで佐藤忠信とともに計略して法楽の舞を見せ、義経を討とうと勇み立つ僧兵たちを制したり、義経が落ち延びる時間稼ぎをしています。この違いはどういうことでしょう?

答えは拠り所にしている本説の違いによるものなのです。『平家物語』で静が登場するのは、源平合戦が壇ノ浦で終結したあとのこと。平家の大将・宗盛父子を鎌倉に護送するも頼朝に鎌倉入りを拒まれた義経は、仕方なく都に戻って後白河法皇に頼朝追悼の院宣を出させた直後。。刺客として送り込まれた土佐坊昌俊の夜討ちを義経が防いだ、という能『正尊』でおなじみの場面です。じつは『平家』で静が登場するのはわずかにこの場面だけなのです。

能『船弁慶』が描く大物の浦での静と義経の別離は、『平家』などの物語には見えず、能の脚色であるようです。もっとも『平家』では頼朝との対立が決定的になり、都が戦場となるのを恐れて都落ちした義経が西国を目指して大物の浦から出帆した船は嵐に遭って遭難。住吉などの浦々に漂着してしまった場面が描かれ、このとき義経は仕方なく吉野へ潜伏しますが、船に同乗させていた女房たちは浜に置き去りにせざるを得ず、嘆き悲しむ彼女たちを住吉の神職や土地の者が哀れんで都に送り届けた、とされています。『船弁慶』の、少なくとも後シテの場面はこのあたりの場面が脚色されたものでしょう。

一方『吾妻鏡』や『源平盛衰記』(や『平家』の異本)では、船が難破し、女房たちが打ち捨てられてしまった中、義経は静だけは伴って吉野に同道したとされていて(白拍子二人、礒の禅師という表現の本もあり)、能『二人静』に矛盾しない内容に。

そうして『吾妻鏡』のほか物語としては『義経記』に至って、ようやく静が吉野で捨てられた記事が見えます。『義経記』によれば義経は吉野に逃れた山中で、女性を伴っての逃避行は難しいと考えた弁慶らが逃亡を計画し、これに気づいた義経が彼らを留めるために泣く泣く静を都の母のもとに帰すことになっています。義経は形見として鏡や鼓を静に与え、そのほかにも財宝を与えますが、供につけた5人の侍と雑色は吉野のふもと近くまで来たときに同心して静を裏切り、「近くに親しい者がありますので、協力を頼んできましょう」と言って静を待たせたまま、財宝を取って逐電してしまったのでした。

ワキ「さては静御前にてましますかや。静にて渡り候はゞ。隠れなき舞の上手にてありしかば。舞を舞ふて御見せ候へ。跡をば懇に弔ひ申し候べし。 とツレは正へ直し
ツレ「我が着し舞の装束をば。勝手の御前に納めしなり。 とツレはワキへ向き
ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。
ツレ「袴は精好。
ワキ「水干は。
ツレ「世を秋の野の花尽し。
ワキ「これは不思議の事なりとて。
 とツレは正へ直し宝蔵を開き見れば。げにげに疑ふ所もなく舞の衣裳の候。これを召されてとくとく御舞ひ候へ。 とワキは装束をツレに渡し、ツレは立ち上がって後見座に行き物着

能『二人静』に戻って、菜摘女に取り憑いた霊が静であることがわかると、ワキは舞を所望します。されば、との要求に応えて自分が勝手宮に納めた舞の装束をこと細かに説明して用意させます。

静は白拍子で、母の磯の禅師とともに非常に高名であったようです。『徒然草』には藤原信西が磯の禅師に教えて舞わせたのが白拍子の始まりで、「白き水干に鞘巻を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける」とあり、男装で舞う芸能でした。娘の静もこの芸を継ぎ、『義経記』には百日の旱魃があったとき高僧を集めて祈祷をしても効果がなかったが、白拍子百人を集めて神泉苑の池で舞わせたところ、最後に静が舞ったところ黒雲がにわかに湧き出、三日間の洪水が起こって国土を潤したのだそうです。

能『二人静』でも「袴」「水干」と謡われ、男装の装束が納められたことが語られ、その現物が宝蔵の中より発見されるのですが、実際に舞台に登場するのは水干ではなく能で舞を舞う女性の役に多用される長絹で、その上にはあらかじめ金色の「静折烏帽子」を糸で留めておきます。

これにてツレは後見座で「物着」(舞台上での着替え)になるのですが、本文に登場した「袴」は出さずに、その文句とは相違しますが下半身は着流しのままです。もっとも金春流では文句通り、本当に大口袴を穿くのだ、と仄聞しました。実見はしていないのですがこれは「物着」としては大変な作業で、しかもワキから大口をツレに渡すのも難儀で、この場合はワキからツレへ渡されるのは観世流と同じく長絹と烏帽子だけで、大口袴は別に後見が切戸から持ち出して後見座での「物着」の中で着付けるのだそうです。

なお、この物着の間、舞台は静寂に包まれますね。能の「物着」では、女性のシテの役が物着する場合のみ、大小鼓と笛によって「物着アシライ」が演奏されて雰囲気を保ってくださるのですが、男性の役とか、『二人静』のようにツレの物着の場合には「物着アシライ」は演奏されない決まりになっています。

「物着」の静寂の間は舞台はいったん「ポーズ」が掛かった状態なのだと思いますが、やはりお客様からは丸見えなので、後見の着替えの手際が問われるところです。

やがてツレの物着が出来上がって立ち上がるとワキが衆人に触れる体で正面に向き直り一句を謡います。この文句はワキ方のお流儀によりない場合もあり、またシテ方からのお願いがあれば勤める、という場合もあるようですね。

ワキ「静御前の舞を御舞ひあるぞ。みなみな寄りて御覧候へ。