ぬえの能楽通信blog

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ふたつの影…『二人静』(その5)

2014-07-05 20:39:05 | 能楽

ツレ菜摘女の態度の豹変に驚いたワキ神主はその素性を問います。

ワキ「言語道断。不思議なる事の候ものかな。狂気して候は如何に。さて如何やうなる人の憑き添ひたるぞ名を名のり給へ。跡をば懇に弔ひて参らせ候べし。 この謡の中で後見はツレが置いた手籠を舞台から引く。
ツレ「何をかつゝみ参らせ候べき。判官殿に仕へ申せし者なり。 とツレはワキへ向き

ワキが素性を問うのは弔いのためにそれを知るのが必要だからで、それに対して菜摘女に取り憑いた霊は「何をかつゝみ参らせ候べき」と言った割にはなかなか名前を名乗りません。それは名乗るのが恥ずかしいためで、こういう応答や、先の「ただ外にてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。。」という表現に女性らしさが感じられると思いますが、「判官殿に仕へ申せし者」と聞いたワキには義経に従った武将のことがすぐに連想されたようです。

ワキ「判官殿の御内の人は多き中にも。殊に衣川の御最期まで御供申したりし十郎権の頭。 とツレは正へ直し
ツレ「兼房は判官殿の御死骸。心静かに取りをさめ。腹切り焔に飛んで入り。殊にあはれなりし忠の者。されどもそれには。なきものを。 とツレはワキへ向き

ワキの言葉を遮るように十郎権頭の事績を語り、それではない、と答える菜摘女。

十郎権頭兼房というのは義経の家臣のひとりで、姓は不詳。『義経記』だけに登場するので架空の人物を考えられています。能『二人静』はこのように典拠を主に『義経記』においていると思われますが、この書は『平家物語』や『源平盛衰記』からはずっと時代が下った室町時代に成立したと考えられていて、多分に創作の手が加わった「物語」であるのもまた事実ですが、その生き生きとした描写が能の作者に強く印象を与えて『二人静』のほか多くの能が作られたのでした。

『義経記』で兼房は自らの出自について「もとは久我大臣殿の侍なり」と語り、また別の箇所に「こゝに北の方の乳母親に十郎権頭」とあります。義経の北の方については「久我大臣殿の姫君」とあり、両親に先立たれてからは「傳(めのと)の十郎権頭より外に頼む方ましまさず」とあるので、兼房は主君に仕える侍ながら姫君の養育係でもあり、その後姫が義経に嫁いでからもそれに付き従って義経の家臣となった人物であるようです。もっとも『吾妻鏡』には義経の正室は河越重頼の女と記してありますが、義経の家臣は山賊あがりだったり猟師あがり、僧兵くずれとまことに多種多様な人物が多いのですが、『義経記』の記載によれば鎌田盛政らとともに珍しく正当な出自を持った人物であるようです。

さて兼房は菜摘女が語るように義経の最期まで従ってみずからも壮絶な最期を遂げました。『義経記』の記事では義経の最期は「かの刀を以て左の乳の下より刀を立て、後へ透れと掻切つて、疵の口を三方へ掻破り、腸を繰出し、刀を衣の袖にて押拭ひ」と凄まじいもので、そのうえ割腹してから衣をまとって傷を隠し、北の方に実家へ戻るよう言いつけたのでした。北の方は義経とともに自害の道を選び、その介錯をしたのが兼房で、彼は続いて五歳になる義経の若君、生まれて七日目の姫君をも手に掛けています。誕生から成人するまでずっと見守ってきた姫君をみずからの手に掛ける非常な宿命の人物として『義経記』には描かれています。

すべての後始末を終えた兼房は「今は中々に心に懸かる事なし」と独り言を言って館に火を掛け、さて鎧を脱ぎ捨てて館の外に出ると、その日の大将長崎太郎・次郎兄弟が目に入ります。彼らは頼朝に屈した藤原泰衡の家臣。それまで義経を支えていた立場の人でした。兼房は馬上にあった二人を引き落として、弟の次郎を左の脇にはさみ、「独り越ゆべき死出の山、供して越えよや」と言ってもろともに火の中に飛び込んだのでした。

『二人静』では菜摘女に取り憑いたのは義経の愛妾の白拍子・静御前であるわけですが、実際には静はこの吉野山で捨てられたので、兼房の最期を見たわけではありません。その後捕らえられた静は鎌倉に送られ、頼朝の詰問に遭っていますから、そのときにでも聞いたのかと思えば、それはまだ義経が逃避行を始めたばかりで平泉にも到着していない文治二年のことです。

その後静は翌年に都・北白川に帰りましたが、物思いに沈み持仏堂に引き籠もってしまいました。やがて十九歳で剃髪して天龍寺のふもとに草庵を結び、翌年の秋の暮れには往生した、と『義経記』は伝えています。


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