ぬえの能楽通信blog

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ふたつの影…『二人静』(その11)

2014-07-21 00:03:05 | 能楽
本日、はじめて面をかけてお互いが見えない状態でシテとともに舞の稽古をしました。シテも ぬえも、やっぱり40分間の舞の中では勘違いがあったりタイミングを間違えたり。。う~ん、いま舞台が多い時期なので、そちらに取りかかっていると、ついつい覚えたつもりの『二人静』の相舞のシンクロのタイミングがおぼろげになってしまうのですよね~。それでも今日は若先生に見て頂いたのですが、「結構合ってるよ」とのお言葉を頂きました。

さて長大なクセが終わると いよいよ序之舞が始まります。

序之舞は上村松園の美人画や、その松園をモデルにした宮尾登美子の同名の小説などで、能の舞の中では最も知られた舞ですね。能では三番目物。。鬘物とも言われる女性が主人公の能でしばしば舞われるもので、上品かつ優雅な印象を与える舞です。太鼓が演奏に加わるかどうかで大きく分けて太鼓序之舞と大小序之舞に分けられますが、太鼓入りの序之舞は『杜若』『羽衣』など主に天女や草木の精などの役に用いられ、やや浮き立つような明るさを持っています。能『二人静』には太鼓は参加せず、序之舞も大小鼓(と笛)によって演奏される大小序之舞ですが、こちらは太鼓入りの舞と比べると ぐっと閑寂な、やや物寂しげな舞、という印象に見えると思います。

今回は相舞ということで、クセと同様に序之舞もシテと一挙手一投足に至るまで綿密に打ち合わせをしました。それがトップ画像ですが、これを覚えるのか。。 ぬえも序之舞は難度となく舞っていますが、今回はタイミングを合わせるために細かく動作を取り決めたので、序之舞の動作をまた最初から覚え直すようなものでした。

さて『二人静』の序之舞は吉野で捕らえられて鎌倉に護送された静が頼朝の前に引き出され「静は舞の上手なり。とくとく」と強要されて鶴岡八幡宮で舞った、という舞の再現です。クセの中では義経と吉野の山中を逃避行する有様が語られ、それに続く序之舞は鎌倉で恥辱を与えられた出来事が語られる。。一見 時間も場所も、吉野から鎌倉に突然話が飛んだような印象でもありますが、都落ちをした義経が吉野へ分け入ったのは文治元年(1185)の十一月頃で、静が頼朝に召し出されて舞を舞ったのは翌文治二年四月八日のことでした(『吾妻鏡』)。二つの事件の間はわずか半年のことでした。

そして有名な「しづやしづ。。」の歌となるわけですが、じつはこのとき静はもうひとつ歌を歌っています。

吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき

これはあまりにあからさまで、この歌を聞いた頼朝は激怒しました。しかし北条政子はこの歌に感動し、頼朝が伊豆で流罪になっていたときに父(北条時政)に止められたにもかかわらず北条邸を出奔して頼朝のもとに駆けたこと、挙兵後に石橋山の合戦に頼朝が赴いたとき、政子は伊豆山神社にこもって心細く頼朝の無事を祈っていたことを引き合いに出して頼朝を説得しました。頼朝の憤りは解け、褒美に静に衣を取らせました。

ちなみに八幡宮で舞を舞った静は、七月には義経の子を出産し、それが男児であったために誕生直後に由比ヶ浜に棄てられました(『吾妻鏡』)。細かいことですが、このあたりの事情は『吾妻鏡』と『義経記』ではすいぶん異なっていて、『義経記』では静の出産が先で鶴岡八幡宮での舞があとになっています。しかも八幡宮での舞は頼朝に強いられたのではなく、頼朝の計略によって義経の無事と再会を祈るために参詣するよう仕向けられたということになっています。境内に参着して、さて頼朝が来ていることを知った静は舞おうとしませんでしたが、頼朝は手勢の大名の中から選び出して囃子の上手を揃え、これを見た静はついに舞を見せたのでした。能『二人静』は『義経記』から取材していると思いますけれども、この鶴岡八幡宮での静の舞の場面は『吾妻鏡』が下敷きになっているようです。

最終的には賞翫を受けたとはいえ強要されて舞を舞った静。そのうえ義経との子を奪い取られて殺された彼女にとって鎌倉はまさに恨みの場所であったでしょう。

ところが能『二人静』では、鎌倉での暗い事件の数々にはあえて触れていません。謡曲の詞章を見ると「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。返すがへすも怨めしく。昔恋しき時の和歌」とあるばかりで、八幡宮での舞は心ならぬ舞であった、とは書いてありますけれど、むしろ彼女の心はそこから再び義経への思慕に帰って行くのでした。

すなわち『二人静』の序之舞は鶴岡八幡宮での舞の再現、というよりは、それを通して いつのまにか義経への想いの中に埋没して行く静の姿でしょう。その執心こそが静が成仏できずに霊として登場している理由でしょうし、弔って欲しいと願い、懺悔のために舞を奏で始めたはずの彼女が、やはり自分の想いを押しとどめることが出来ず、執心の罪を重ねていくという業の姿なのだと思います。

こういう熱い思いは。。しばしば能ではシテの狂乱として描かれますが、『二人静』ではそのような印象はないですね。ただひたすらに思い続けながら、どこかに過去の義経との甘い思い出にもう戻れない、という静の諦念のようなものが感じられます。だからこの序之舞は悲しそうに見えなければいけないでしょう。ぬえはそう解釈して演じることにしております。


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