ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

2006-04-08 00:01:49 | 能楽
ようやく源朝長が登場する『平治物語』に話題が移ります。やっとです。。すみません。。

さて保元の乱に勝利した後白河天皇は天皇の権威を高める新制を次々に発布したが、それらは側近の少納言入道・藤原信西が立案、推進したものでした。また後白河は保元三年(1158)、実子の二条天皇に譲位して、みずからは上皇として院政を開始します。ところが院の目論見とは違って二条帝は若いながら聡明で臣下の評価が高く、上皇派と天皇派の内部分裂の様相となってきます。

また一方、後白河院は中納言右衛門督・藤原信頼という者を非常に寵愛し、信西信頼は互いにライバルとして反目しあうようになります。改元があった平治元年(1159)あるとき信頼は上皇に右近衛大将の官職を望みます。ところが上皇の相談を受けた信西はこれを一蹴。これを伝え聞いた信頼信西を憎み、宮廷に出仕せずに武芸の稽古に励み、また源義朝を語らって味方に付け、さらに二条天皇派の新大納言・藤原経宗、越後中納言・藤原成親、別当・藤原惟方を味方につけました。保元の乱の二の舞で、再び上皇と天皇、藤原家内部の抗争が起こった、という。。

信西の様子を窺っていた信頼は、自分になびかず天皇に付き従った平清盛が嫡子・重盛を連れて熊野に参詣するという情報を得ます。信頼義朝の勧めによって源頼政をはじめ源氏の一族を味方につけ、清盛が出立した直後の12月9日、ついに義朝をはじめ500余騎にて三条殿に押し寄せて二条天皇を、ついで後白河上皇を確保、三条殿は火を掛けられて上皇は宮中・一本御書所(書庫)に幽閉されました。ついで信西の宿所・姉小路西洞院にも火が掛けられ、信西の5人の子は官職を解かれ、代わって源氏一族が官位を独占する除目が勝手に行われました。信頼は二条天皇・後白河上皇を押し込め、みずからは天皇の冠を着し帝の御座所に住むという狼藉ぶり。

天変を見て不測の事態を予感し、奈良へ向かっていた信西は都で起こった事件を聞いて自害を図りますが信頼の追っ手によって首を取られ、都で獄門にさらされました。また信西の子どもたち12人は公卿詮議のうえ罪一等を減じて遠流と定められました。

さて熊野参詣の途上の清盛のもとにも都での異変の報がもたらされました。清盛は急ぎ都にとって返し、また清盛に従う兵もそれに合流して一同は12月17日に六波羅の平家の邸に到着しました。

内裏の信頼義朝らは平家が今日にも押し寄せて来るのではないか、と戦々恐々でしたが、一向にその気配がありません。じつは清盛信頼側の大納言・藤原経宗、検非違使別当・藤原惟方を籠絡して味方につけていたのです。26日の深夜、経宗・と惟方は二条天皇と後白河上皇を御所より脱出させました。帝は御歳17歳にて見目美しく、女房の御衣を召して脱出すると六波羅へ迎えられ、院は殿上人になりすまして仁和寺に入りました。

清盛は早速「帝は六波羅を御所と定められた。朝敵になりたくなければ急ぎ六波羅へはせ参ぜよ」と触れを流しますと、公卿や殿上人、それに武士の多くも六波羅に移りました。

27日の暁にようやく天皇・上皇のお姿が御所に見えない事に気づいた信頼はあわてふためいて悔しがり、義朝は御所に残る源氏の軍勢の点呼を行いました。このとき義朝についていたのは義朝の嫡男の悪源太・義平、次男中宮太夫進・朝長(やっと出てきた。。)、三男兵衛佐・頼朝、義朝の叔父・義隆、弟の義盛など、郎等には鎌田鎌田兵衛正清、佐々木源三、熱田大宮司の郎等、武蔵の斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、熊谷次郎直実など総勢2千余騎でした。

このときの源氏の出で立ちが、軍記物語らしく『平治物語』にはいかめしく、凛々しく描かれています。

武士の大将左馬頭義朝は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打つたる五枚冑の緒を締め、怒物作の太刀を帯き、黒羽の矢負ひ、節巻の弓持ちて、黒桃花毛なる馬に黒鞍置かせて、日華門にぞ引立てける。年三十七、眼ざし頬魂、自余の人には替りたり。

嫡子悪源太義平は生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて胸板に龍を八つ打て付けたる鎧を着て、高角の冑の緒を締め、石切と云ふ太刀を帯き、石打の矢負ひ、重籐の弓持ちて、鹿毛なる馬の逸切つたるに鏡鞍置かせて、父の馬と同じ頭に引立てたり。

次男中宮太夫進朝長は十六歳、朽葉の直垂に、澤潟とて澤潟威にしたる重代の鎧に、白星の冑を着、薄緑と云ふ太刀を帯き、白篦に白鳥の羽にて作ぎたる矢負ひ、二所籐の弓持ちて、葦毛なる馬に白覆輪の鞍置いて、兄の馬に引添てこそ立たりけれ。

三男右兵衛佐頼朝は十三(←若い!)、紺の直垂に、源太が産衣と云ふ鎧を着、白星の冑の緒を締め、鬚切と云ふ太刀を帯き、十二差いたる染羽の矢負ひ、重籐の弓持ちて、栗毛なる馬に柏梟摺りたる鞍置きて、是も一所に引立てたり。

→次の記事 『朝長』について(その6=源氏敗走)
→前の記事 『朝長』について(その4=保元の乱の終結)

今日のお題「桜川磯部神社の境内にあったタラヨウの木の葉」
   木の枝などで文字を書くと数分でクッキリと浮かび出てきます。
   「葉書」ってのはこのことじゃね。
   磯部神社参詣の記事と申すは→ 桜川磯部神社


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