植樹したエイゲンジザクラ(左)の成長を祈る関係者(写真:滋賀報知新聞より)
大本山永源寺に里帰りした「エイゲンジザクラ」の植樹がこのほど、大本山永源寺の境内で行われた。
「エイゲンジザクラ」は東近江市原産で、その名称は永源寺の境内に咲いていたことに由来する。しかし、同地域では絶えて久しく、約20年前、商工会女性部が県外でエイゲンジザクラを見つけ、苗を持ち帰り、植樹して増やしてきた。
永源寺に植樹されたエイゲンジザクラは高さ4mで、幹回り65cm。東近江市永源寺支所の敷地に植えられていたのを、道路拡幅工事に伴い、エイゲンジザクラを生かしたまちづくりを呼びかける「ゆめ咲良会」の会長、野田清久さんが引き取り、育てていた。
<滋賀報知新聞より>
当日は、フットパスの4コースを自由に散策し、コース沿いの11カ所で開催されているイベント「春の奥永源寺 山歩道」に立ち寄り、展示販売や食事、体験を楽しむ。
フットパスの参加は、各コースの集合場所で販売するマップを100円で購入し、自由に散策する。
各コースと集合場所:
受付時間:10:00~15:00までで、集合場所で販売するマップをもとに自由に散策する。行程は1時間程度。
問い合わせ:東近江市エコツーリズム推進協議会(TEL0748-24-5524)
「春の奥永源寺 山歩道」の11会場は次の通り。
1.みんなの奥永源寺(君ケ畑町)(20日のみ)=東近江市の花ムラサキのコスメ販売や君ケ畑の魅力紹介。TEL080-3108-7172
2.筒井ろくろ(蛭谷町)=イワナ塩焼き体験700円。TEL080-3810-9944
3.筒井ろくろとSANA工房(蛭谷町)=木工品の展示と木地師体験1000円。TEL090-6558-7548
4.クミノ工房(箕川町集会所)(20、21日のみ)=木組みの積み木で遊ぶ、はし作りも(1000円)。TEL090-9705-1623
5.おぐら食品(箕川町)(20、21日のみ)=こんにゃくづくり体験。10:30、13:30。500円。先着10人。予約。TEL0748-29-0201
6.木工房宮の谷(政所町)=カントリー家具、雑貨の展示・販売。ゴムテッポウ作り(500円)。1日先着5人。TEL090-4274-6533
7.茶房桃源(政所町)(20、21日のみ)=手打ちそば、無農薬コーヒー。TEL0748-29-0303
8.たこやきnapper(政所町)=鈴鹿山脈のおいしい水を使った大粒のたこ焼き。TEL090-5044-4216
9.政所茶生産振興会(政所町)=政所茶と茶団子の販売。TEL0748-56-1124
10.ギャラリーアカショウビン(政所町)=花や風景などのスケッチ・油絵、木工品。TEL090-7093-7004
11.日登美山荘(政所町)=イワナを使ったワンプレートランチ(1550円~)(要予約)。TEL0748-29-0112
西暦275年、近江を行幸した応神天皇が同宮に参詣する際に南津田町の人々がよしの松明で道案内をしたのが始まりと伝えられる伝統のまつりで、約1200年以上の歴史がある。
初日の宵宮は「松明まつり」とも呼ばれ、同宮を氏神とする12郷(地区)が、びわ湖のよしと菜種がらで作った大小(高さ2.5~10m)の松明を宮前の馬場に立ち並べて奉納したあと、20:00過ぎ、打ち上げ花火を合図に順番に神火が移され、打ち鳴らされる大太鼓の鼓動とともに勇壮に燃えさかる各地区の火柱の重なりが見もの。
また、火をつけたまま振りかざす「振松明」や引きずりながら運び込む「引きずり松明」、傾けた状態で火をつけ、火の粉をかぶりながら立ち上げる勇壮なものなど、各地区に伝わる特徴ある様々な松明が登場する。
「太鼓まつり」と呼ばれる翌日は、10:00からの例祭のあと、14:30ごろから大太鼓の宿入りが行われ、16:00ごろからの渡御により宮前に参集。迫力ある大太鼓の乱打が境内に響き渡る。
武田長兵衛(たけだ ちょうべえ)は、武田薬品工業の創業家。
寛延3年(1750年)、大和国広瀬郡薬井村(奈良県北葛城郡河合町薬井)生まれ。
武田薬品工業の祖「武田長兵衛」は奈良の生まれだが、14歳の時、近江日野商人「近江屋喜助」(近江日野発祥の薬種仲買商)に奉公し、天明元年(1781年)、32歳で大阪道修町2丁目で薬種中買商として独立(近江屋喜助からのれん分け)を果たす。これが今日における武田薬品工業の創立記念日とされている。
武田は、くすりの町大坂道修(どしょう)町でタナベ、シオノギとともに「道修町の御三家」の1つであるが、武田長兵衛は近江日野商人「近江屋喜助」の流れを引き継いでおり、半分は近江商人である。
日本の薬品会社もこの何十年かで合従連衡が進み淘汰や名称変更もしているが武田は今もトップを誇っている。
ヒストリー
創業者・武田長兵衛は寛延3年(1750年)、大和国廣瀬郡薬井村(現奈良県北葛城郡河合町薬井)にて竹田徳兵衛の二男として生まれた。幼名は長三郎。
宝暦5年(1755年)6歳の時、大坂博労町の綿商で叔父・河内屋武兵衛の養子。
14歳の時、養父の河内屋武兵衛が亡くなくなると、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出た。
24歳で別居を許され通い番頭となり名を「長兵衛」と改名する。主家の一族・近江屋平兵衛が亡くなり、実子が幼少だったので28歳でその代判に選ばれた。
1779年(安永8)29歳、に主家である近江屋喜助から屋号、暖簾を使うことを許され、秋田方面の販売圏を譲られ、道修町の薬種仲買として独立することができた。
(主家の近江屋喜助も、近江屋一族の宗家太右衛門の別家格であり、武田も経営が安定してくると次々と暖簾を分けて別家を増やしていった)
天明元年(1781年)32歳の時、道修町2丁目の堺筋角で薬種中買商(武田長兵衛商店)として独立を果たす。(これが今日における武田薬品工業の創立記念日とされている)
2代目
二代目長兵衛は、薬種仲買のかたわら大名貸しをして財をなした。
3代目
三代目長兵衛は、人間道と商道との真実を追求した「仕法書」、「取締書」や「十ヵ年倹約之事」を定めた。
4代目
四代目長兵衛は、幼名を亀蔵、弘化元年(1844年)、三代の代判をつとめていた近江屋長三郎の三男として道修町に生まれた。
10歳の時、京都二条の薬種商松屋喜兵衛方へ丁稚奉公にでた。
本家では三代長兵衛が跡継ぎなく病死し、未亡人が店を取り仕切っていた。そこで17歳の時、亀蔵を後継者に選び四代目長兵衛を襲名させた。
5代目(武田の中興の祖)
五代目長兵衛は、明治3年(1870年)四代目の長男として生まれ、幼名は重太郎。13歳のころから店員と共に薬品の荷揃えや荷造りなどの仕事に携わり、かたわら漢字や英語を学んだ。
19歳の時、横浜・東京へ出張し、外国商館を歴訪。つぶさに薬種貿易についての見聞を広めた。和漢薬種商から洋薬商への発展に早くから努力し、明治28年(1895年)に、大阪市北区の内林製薬所を武田専属工場として経営し、その念願であった医薬品の国産自給への第一歩を踏み出す。
大正14年(1925年)に、武田長兵衛商店を創立し、大きな発展を続けた。
五代目はその家業を大いに発展させた人である。必要な事業研究には巨費を惜しまず、また文化的事業にも浄財を分かち、多くの事績を残した。
明治から大正にかけて、輸入洋薬の相場を支配していた、東京都中央区日本橋本町の薬種問屋の御三家
小西新兵衛商店(現・武田薬品工業株式会社グローバル本社)
鳥居徳兵衛商店(現・鳥居薬品株式会社本社)
田辺元三郎商店(現・田辺三菱製薬株式会社東京本社)
大阪の御三家
武田長兵衛商店(現・武田薬品工業株式会社大阪本社)
塩野義三郎商店(現・塩野義製薬株式会社)
田辺五兵衛商店(現・田辺三菱製薬株式会社本社)
6代目
六代目長兵衛(1905年4月29日 - 1980年9月1日)は、五代目の長男である。幼名は、武田鋭太郎。
1943年(昭和18年)に武田長兵衛商店が武田薬品工業に改称する共に社長に就任し、六代目長兵衛を襲名した。
在任中は経営の多角化・近代化を推進し、
1954年(昭和29年)発売のビタミンB1主薬製剤「アリナミン」などでの成功により武田薬品工業を業界トップに押し上げた。
1974年(昭和49年)、創業以来初めて武田家以外の者(従弟の小西新兵衛)に社長職を譲り、自身は会長に就任した。
7代目(武田國男)
六代目の長男の彰郎(当時副社長)が社長就任と共に七代目を襲名する予定であったが、就任予定の前年の1980年(昭和55年)2月に急逝した(六代目長兵衛も同年に亡くなっている)。
当時の社長の小西新兵衛は六代目の三男の國男を後継者として指名した。1993年に國男は社長に就任したが、長兵衛の名は襲名しなかった。
(Wikipedia引用)