「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

船橋時代の太宰治 足跡探索ウオーク パート2

2013年05月07日 06時44分09秒 | ウオーキング

↑太宰治の小説「走れメロス」のレリーフと海老川の九重橋

今回ブログは5月1日にぶらり一人ウォーキングした時の模様であり、前回4月17日のブログの続編である。前回は(1)太宰治旧居、(2)夾竹桃、(3)割烹旅館玉川を訪れているので興味のある方は参照願いたい。
今回も太宰治が船橋にいた頃、ゆかりがあると言われるところを探し歩いた。

(1) JR船橋駅
太宰治や友人が訪ねて来た時に利用した「国鉄船橋駅」である。
1日13万人強の乗降があるJR船橋駅は現在建て替え工事中である。船橋市は人口60万人以上の中核都市だがそれに相応しい駅舎への改築を期待したい。2015年には10階建てでホテル併設の駅ビルになると言う。

↑現在のJR船橋駅南口
(2) 田中薬局跡
JR船橋駅南口直ぐに「田中薬局」があったと言われるが現在の「ときわ書房」がその場所である。
今は全くその趣はなく人通りの多い雑多なところである。太宰が旧田中薬局で薬を買っていたのかも定かでないらしい。

↑旧田中薬局跡(現ときわ書房の場所)
(3) 船橋小学校(旧船橋第一小学校)
京成線をくぐって少し東に進むと「船橋小学校」があるはずだったが現在取り壊し新築建設工事中で面影は全くなし。太宰治と直接関係なさそうだが船橋駅から旧居まではこの小学校のところを通ったに違いない。

↑船橋小学校(旧船橋第一小学校) 今は只の平地。現在工事だが取り壊しの時にも太宰治に関するものはなかったと言う。

↑新校舎は平成26年9月には完成予定

↑船橋小学校の仮校舎は市場小学校敷地内にありました
(4) 船橋大神宮
船橋大神宮は「意富比神社(おおひじんじゃ)」と言う。太宰治との直接的関係は見つからないが旧居から長病院に行くには大神宮を通ったかも知れない。なぜなら長病院は大神宮の真横だから。個人的に正月にお参りするところでもあり、イヤーラウンドの谷津干潟コースでは毎回通過する場所である。

↑船橋大神宮灯明台 明治28年まで稼働していた。昔はこの付近は高台でこの灯台以南には建物がなく海が近かったのだ

↑船橋大神宮の本殿

↑境内には徳川ゆかりの相撲の土俵(毎年10月20日に奉納相撲がある)
(5) 長直登病院(ちょうなおと病院)跡
船橋大神宮の直ぐの横道にあり太宰治が通院していた病院が長病院と言われ今の場所にあった。
今は「川久保診療所」となっており歯科と川久保病院の看板があった。昔の先生がメディカル医師で現在の先生は歯科だと言う。見たところ時代性を感じる建物で病棟もあり、建物自体は昭和10年、太宰治が通院した当時のものではないだろうか。病院の名跡は変わっており長病院との関係は分からない。後述の川奈部薬局のお上さんも昔の長病院が今の川久保歯科診療所だったのかと言った具合だ。但し、その場所に長病院があったことはお上さんの記憶にあった。もう80年近い昔の話になるので分かる人も少なくなって当然だ。

↑今は名称が変わっているが旧長病院跡(木造の古い建物で病室もある)

↑川久保病院と歯科の看板が掛かっていた

↑現在は川久保歯科が本業らしい
(6) 川奈部薬局
太宰治が通っていた川奈部薬局は当時の場所にある。明治創業の老舗である。
太宰治の旧邸から5-6分位のところにある。何か太宰治の当時を感じさせるものがないか厚かましく店内に入った。奥様が出てこられ当時の話の一端を聞いた。太宰治がいた頃はこの薬局の2代目となる川奈部眞佐雄さんが対応し、太宰と似たような年齢だったと言う。太宰治は薬局のトイレをよく使ったことがあるとか。また代金の未払いもあったようだ。
お上さんが太宰治の借家の大家さんから聞いた話では当時の太宰治は精神的にも不安定だったのか借家の自宅の柱に色んなものを貼り付けていたと言う。これが小説の題材だったのかは分からない。因みに太宰治の旧居の歳老いた大家さんだった人は今は東金市に住んでいると言う。
薬局内には年代物の薬の測りや船橋町五日市「回春堂川奈部薬局」の大きな温度計が今もあった。船橋が市政を引いたのが昭和12年4月であり、太宰治が船橋にいたのが昭和10年~11年であるからこの温度計は太宰治が来店していたときもあったのだろう。

↑現在の川奈部薬局
(7) 海老乃湯跡
海老川の九重橋の近くの場所にあった。8年くらい前に風呂屋を廃業し今はアパートになっている。裏通りで尋ねた方が偶然このアパートの持ち主だった。建物の表に回れば今はコインランドリーとして「海老の湯」の名称だけが残っていた。旧居から海老川を挟んで近く、当時太宰も使ったのではなかろうか。

↑海老乃湯跡(今はアパートになっている)
(8) 御蔵稲荷神社
太宰治が散策し、残された写真に写る狐様はどの神社が論議の的になっていると言う。それは写真に写る当時の狐石像が今は無いからだ。旧居から5-6分の散歩距離の観点でも「御蔵稲荷神社」しかないと言われる。今の狐像は平成7年のものであり当時のものは見当たらない。しかし、太宰治が訪れていたのは神社ここだったのではないだろうか。

↑正面から見た御蔵稲荷神社

↑境内から見た狐様と鳥居

↑現在の狐様像(平成7年のもの)



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (こけ。)
2013-05-07 11:24:22
私は三鷹に住んでいるのですが、
船橋も太宰の町なんですね

それにしても詳しい記事ですね
参考にさせていただきます
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Unknown (懐かしい宮本)
2022-08-28 01:22:06
1959年11月、船橋生まれの62歳の女性です。18歳まで宮本7丁目に住み、船橋小学校と宮本中学校に通いました。(高校は他の市でした。)なので、ここで紹介された太宰治ゆかりの場所はすべてあまりにも馴染み深く、旧居跡の横道は小学校への通学路でした。なのに、私はじめ、家族みんな太宰治の話は一度も聞いたことがなく、学校でも教えてくれませんでした。そのことを知ったのはつい最近、YouTubeで船橋散策の動画を見てからなのです。おそらく当時の同級生たちも学校の先生たちもみんな知らなかっただろうと思います。もちろん学校での国語の教科書の中に「走れメロス」などが載っていまして、大好きな作品でした。ところが、船橋と結びついた話など誰からも聞いていません。なぜなのかとても不思議で知りたいことです。ひとつ考えられるのは、50年以上前のことなので、当時は「太宰治が内縁の妻と住んでいた」というのはタブーな話だったのかなということです。けど、本当の理由が知りたいです。
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