「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

近江(滋賀)探訪 近江・畑田城(愛荘町)

2017年10月31日 08時00分11秒 | 近江の城郭

↑畑田城があったとされる天一神社

10月26日(木)、滋賀県愛荘町の「近江・畑田城」を訪れた。
畑田城は天一神社境内から東側のグランド・竹薮などを含む畑田地区北側一帯に築かれていたらしい。しかし、土塁は既に消滅してしまったようで確認出来なかった。
畑田城は築城年代や築城者など詳細なことは定かでない。






近江(滋賀)探訪 近江・山路城(東近江市)

2017年10月30日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑山路城域の石積み

10月25日(水)、東近江市の「近江・山路城」を訪れた。
山路城は東近江市山路町の一画の城前橋の北、約100m四方が城跡とされる。周囲には小さな川が城跡一帯を取りまくように残っているが現在では城趾はよく分からなくなっている。
山路城の近くには伊庭氏の居城である伊庭城、垣見城などが位置している。







近江(滋賀)探訪 近江・志村城(新村城)(東近江市)

2017年10月29日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑低いが石積みが城域を推測

10月25日(水)、東近江市新宮町(旧能登川町新宮)の「志村城(新村城)」を訪れた。

新村城は愛知川の左岸、新宮町の浄蓮寺の東側一帯が新村城とされ、新村城主・志村氏は、元々は高橋氏がこの地に移って志村氏を名乗ったと言う。浄蓮寺は新村氏の菩提寺と言われる。

志村城は志村氏(新村氏)代々の居城で築城時期は不明。1570年、当主・志村左衛門忠資が石山本願寺に呼応して挙兵し織田氏と敵対した。1571年に織田軍の佐久間信盛らに攻められ落城した。






近江(滋賀)探訪 近江・種村城(東近江市)

2017年10月28日 05時00分00秒 | 近江の城郭

近江・種村城石碑

10月25日、東近江市種町の「近江・種村城」を訪れた。
城跡は市営神郷団地北側の大同川を渡り、この橋の東川沿いに種村城の城石碑がある。城石碑の背後に広がる一帯の水田と住宅地が城域だが、かつては大同川と土塁・空堀で囲まれた縄張りだったらしい。
種村城は1500年頃、近江の守護佐々木六角家の六角高成により築かれた。六角高成は種村姓を名乗るようになり、六角高成は後に和田山城を築き、高成の子は種村氏と和田氏に分かれる。1568年、六角軍は織田軍に敗れ、その時に廃城になったと思われる。







近江(滋賀)探訪 近江・平居城(愛荘町)

2017年10月27日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・平居城跡

10月24日(火)、滋賀県愛荘町平居地区の「近江・平居城」跡を訪れた。

平居城は、平居地区公民館から直ぐ西側の県道沿いの民家に城石碑が建てられていた。今回周辺を歩いてみたが石碑以外、遺構らしきものは見当たらなかった。
平居城は築城年代は定かではないが小倉城の小倉氏によって築かれた。しかし、その他の詳細なことは定かでない。

近江(滋賀)探訪 近江・河曲城(東近江市)

2017年10月26日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・河曲城の場所

10月24日(火)、東近江市の旧五個荘町河曲にあった「近江・河曲城」を訪れた。
河曲城は河曲神社の西約100mほどのグランドがあり、このグランドの周辺が河曲城跡と考えられているが遺構はない。
しかし、グランドの南側を流れる大同川がグランドの南西隅で北に流れを変え、この大同川を堀として利用した城であったことが推測される。


↑大同川

↑本念寺

↑河曲神社





近江(滋賀)探訪 近江・小幡城(東近江市)

2017年10月25日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑小幡城があった小幡神社御旅所跡

10月24日(火)、東近江市五個荘小幡地区にあった「近江・小幡城」界隈を探索した。

小幡地区の小幡神社、善住寺の一帯が小幡城の跡であると伝えられているがそれを示すものはなにもない。
現在では旧中山道と御代参街道の交点にある「小幡神社御旅所」が唯一その雰囲気を感じる。また、大同川川縁の石積みもそれらしさがあるが遺構の一部か分からない。


↑善住寺

↑大同川

近江(滋賀)探訪 近江・大塚城(東近江市)

2017年10月23日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・大塚城跡

10月20日(金)、東近江市の「近江・大塚城跡」を訪れた。
大塚城は、近江鉄道朝日大塚駅北側の踏切線路を挟んで両側にある雑木林から北側の水田の一帯が城域である。現在は近江鉄道の線路で分断されているが雑木林の北辺に大塚城内堀と土塁の一部が残っている。

大塚城は室町時代に大塚氏によって築かれ、詳細は定かでないが大塚八郎右衛門が天文年間に近江の守護六角定頼の湖水の船手奉行をしていたと言われている。











近江(滋賀)探訪 近江・高野城(東近江市)

2017年10月22日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑高野城趾

10月18日(水)、東近江市高野町の「近江・高野城」を訪れた。

高野城は高野地区の西端部、愛知川を見下ろす八風街道の左岸の河岸段丘上に築かれている。小倉城から近い。
高野城は、築城年代は定かでないが近江の守護佐々木六角氏の配下であった小倉氏によって築かれた。小倉氏は小倉城を居城にしていたが応仁の乱の頃より、伊勢に抜ける八風街道を押さえるこの地域に進出した。山上城を拠点としていたが戦国時代には高野城も本拠としていた。
高野城とする一帯の地名を「姫屋敷」と言うらしく、信長の側室であるお鍋の方の屋敷跡という伝承がある。また、織田信長の側室であるお鍋の方の子・織田信吉が、天正13年(1583)に羽柴秀吉から神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を得て、羽柴武蔵守と名乗って高野に館を構えたとされ、これが高野城とも考えられている。

高野城域の石垣は50cmほどの石を高さ3mに積み上げ、50m位にわたって築かれている。石垣は段丘地形に沿って2段に積まれており、この間の方形の広い空間が曲輪と考えられるが、余りにも広い。一帯は今では削られ、茶畑となっている。遺構形状などからは城郭とするよりも屋敷跡とする方が似つかわしく思う。