「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

近江・日野町「ブルーメの丘」13万株 チューリップが見頃

2019年04月18日 13時07分45秒 | 東近江ライフ
 近江・日野町の農業体験施設「ブルーメの丘」の約5000㎡の畑には、125種類、13万株ものチューリップが植えられ、赤や黄色、紫など色とりどりの花を咲かせ、見頃を迎えている。

この農業体験施設「ブルーメの丘」によると、チューリップは3月下旬に咲き始め、例年より2週間ほど早い今週から見頃を迎えているという。
チューリップは今週末に満開になることが見込まれていて、4月27日頃まで楽しめるようだ。
 
ブルーメの丘HP

富士見市・東近江市・黒部市「ももクロ協定」妥結

2019年04月18日 12時22分06秒 | 東近江ライフ
ももクロ春の一大事2019 in 黒部市」は4月20日(土)-4月21日(日)に迫っている。
東近江市の最新の広報誌によれば、去る2月13日に「ももクロ春の一大事」の開催地である富士見市(2017)・東近江市(2018)・黒部市(2019)の3市による「笑顔のチカラつなげるオモイ」地域連携協定の調印が行われた。
今後の「ももクロ春の一大事」の開催地もこの協定に加入できる仕組みとか。
2020年の開催地はどこだろうか。

【滋賀・近江の先人第24回】日本生命の創設者・弘世助三郎(彦根市)

2019年04月18日 06時55分44秒 | 滋賀・近江の先人
七代弘世助三郎(ひろせ すけさぶろう、天保14年(1843年) - 大正2年(1913年)は日本の実業家・滋賀県彦根の銀行家、政治家。旧姓川添。
第百三十三国立銀行(彦根)(現滋賀銀行)頭取で、近江国彦根出身。摂津国大坂の鴻池善右衛門らと共に日本生命保険を主導した人物

生命保険会社トップの日本生命の実質的な創設者が滋賀県人の弘世助三郎だったことを知る人は今では意外と少ない。
弘世助三郎は多岐にわたる実業家だった。30歳代で数々の銀行の設立に関与し、日本生命だけにとどまらず、地元滋賀県の為に多大な貢献をしている。明治の偉大な先人の一人である。
ただ、なぜだか幼少期から青年期に頭角を現すまで時間、どのように過ごしていたのかの情報が少ない。改めて足跡を調べて見たいと思う。

ヒストリー
「弘世家はもともと嵯峨源氏の後裔で由緒正しい旧家だったという。弘世家は中山道愛知川宿本陣(現滋賀県愛荘町)を受け継ぐ素封家で、各代各種用紙の売買業をしていた。

初代助三郎は享保年間弘世市左衛家より分かれて、彦根で酒造りを業とした。6代助市酒造りの傍ら仙台から九州に行商する。

6代弘世助市(ひろせ-すけいち)(?-1879年(明治12年)は、江戸後期-明治時代の商人で近江彦根の人。代々彦根藩の御用金役を務め、私財を投じて窮民を救済している。
万延元年(1860年)の桜田門外の変以降、彦根藩の御用金役を務めた家柄だったという。戊辰(ぼしん)戦争の際は彦根藩藩に軍用金を献じて苗字(みょうじ)帯刀を許された人物。

7代弘世助三郎について
7代弘世助三郎は近江国彦根(現彦根市)の素封家・川添家の次男として生まれ、叔父に当たる近江商人6代弘世助市(中山道の愛知川・現愛荘町)の養嗣子となる。

養子の7代弘世助三郎が1857年(安政3年)14歳の時、養父弘世助市と共に行商し、商才を発揮、高利を上げる。
弘世助三郎は、起業家精神旺盛で幕末・明治維新後(1868年後)家業を守るだけでなく、数々の公益事業にも関わった。
明治の初期、彦根融通会社(設立年代不詳)、また1878年(明治11年)35歳の時に第六十四国立銀行(大津)を大津市と彦根市の有力者が共同で設立している。
同じく1878年(明治11年)に第三十四銀行(元三和銀行の母体の一つ)、1879年(明治12年)に第百三十三国立銀行(現滋賀銀行)の設立に努力し、第百三十三国立銀行では創立されると取締役支配人に挙げられ、後に頭取に就任。
また、湖東鉄道(現在のJR東海道本線)、関西鉄道(JR草津線)、大阪鉄道(JR)を発起、取締役となっている。
その他に、1886年(明治19年)滋賀県会議員、近江地方の学校建設(彦根中学(現彦根東高校)、東海道線の敷設など鉄道の創業に活躍、近江新報など数多くの公益事業にも関わった。
1886年(明治19年)には滋賀県会議員に当選。
当時、滋賀県知事であった中井弘の紹介で同県警察部長片岡直温を事業の片腕とし、鴻池善右衛門や岡橋治助ら関西財界の重鎮の協力を取り付け、1889年(明治22年)46歳に有限責任日本生命会社を共に創設。
晩年は六甲山麓住吉で過ごし、大正2年(1913年)71歳で没した。

尚、今日の日本生命の創業の起源に関して、創業者の弘世助三郎は以下のような考えに基づいていたと言う。

「日本生命の社史によると、古来延命長寿の神として霊験あらたかな「多賀神社」(滋賀県多賀町)には、昔から「多賀教会」と称して数万の会員を有する讃仰会があった。明治の初め、創業者弘世助三郎はこの相互組織に着眼し、多賀教会を主体とした「多賀寿生命」の創立を計画したのがそもそものきっかけであった。
その後何らかの事情で、「多賀寿生命」そのものは実現しなかったが、程無くこの思想を基に、日本国民全体を対象とする生命保険会社の設立に漕ぎ着けた。これが今日の日本生命である」