「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

下総・根本城(金山神社)(松戸市)散策 (5/19)

2017年05月24日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑根本城だった金山神社

5月19日(金)午前に訪れた。
下総の中世城郭群の一つである根本城はJR松戸駅に近く、その線路沿いに建つ金山神社がその跡と考えられている。
歴史によると相模台城(松戸市岩瀬)の支城の一つとして機能した城と考えられ、天正年間(1573~1592)に北側の小金城を中心に栄えた高城氏の一族・高城播磨守が城主であったと日本城郭大系には記されているという。
小金城の高城氏は天正18(1590)年に「小田原征伐」で大名としては滅亡してしまったので、この根本城も運命を共にしたものだと思われる。

現在の根本城跡に建つ金山神社は高台にあり、当時の面影はないがそれでも土塁のようなものが少し残っている。石碑などもなく、神社への道は行き止まりで特に車の場合、駐車場もないので注意を要する。






↑小高い小山に建つ金山神社



↑土塁らしき風情が残る

下総・松戸城(戸定邸(旧徳川昭武松戸別邸)(松戸市)散策 (5/19)

2017年05月20日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑松戸城だった戸定邸(旧徳川昭武松戸別邸)の正門

夏のように暑くなった5月19日(金)午前、松戸市の松戸城と金山城に出掛けた。

歴史によると松戸城の確かな築城時期は不明だが1465年頃には千葉氏の配下の原氏によって築かれていたものと思われている。文明年間には太田道灌の配下に属し、永正から永禄時代には里見氏や高城氏に属した。
永禄七(1538)年の第一次国府台合戦では、国府台城付近に布陣する小弓公方軍に対し、北条氏綱・氏康父子の軍は「松渡の渡し」付近から渡河し、「松戸台といふ山」に先陣を上げた。この「松戸台」が松戸城であるとされる。
その後は高城氏の小金城の支城として高城筑前守が在城した。天正十八(1590)年の小田原の役で小金城の開城とともに松戸城も廃城になったと推測される。

明治時代に入ってから、第十五代将軍徳川慶喜の舎弟で水戸徳川家第十一代、徳川昭武の別邸が置かれ、現在は「戸定が丘歴史公園」「戸定邸(旧徳川昭武松戸別邸)」として開放されている。
これまでこの場所にはウォーキングで何回か来ていたが中には入ったことがなかった。中は城の面影はなく、別邸と庭園そのもので市により綺麗に管理されている。庭園は千葉大学農学部のキャンパスと繋がっている。


↑戸定邸説明

↑戸定邸の由来



↑広く綺麗に整備された邸内

↑一部石垣


下総・師戸城(千葉県印西市・旧印旛村)探索 (5/3)

2017年05月12日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑師戸城趾(現、県立印旛沼公園)

5月3日(水)、佐倉市の臼井城趾に続いて、印西市の「師戸(師戸)城」を訪れた。
築城年代は定かではないが、師戸(もろと)城は、鎌倉時代末期に師戸四郎の居城で、臼井城の支城であったと言われている。
師戸城は印旛沼を挟み、約1.5kmと臼井城と向かい合う位置にあり、臼井城の出城としての機能を果たしていたものと考えられる。現在は県立印旛沼公園として整備されているが概ね旧態を維持し、台地の南端を切り離すように深い空堀が巡らされ、現在は三つの曲輪が残っている。南北に大きく分かれた曲輪の南側が更に東西に分かれている。城内はかなり広い。


↑現、印旛沼公園(師戸城趾)ゲート

↑師戸城説明

↑広い城内

↑主郭付近の広場

↑城内の土塁


↑広域に深い堀

下総・臼井城(千葉県佐倉市)探索 (5/3)

2017年05月09日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑臼井城趾公園入口

4月29日(土)に本佐倉城を訪問した後、同じ佐倉市の「臼井城」も探索したがその時は見つけられなかった。そのリベンジとして5月3日(水)改めて探索した。
最終的に見つけられたが城趾公園の入口は非常に分かり辛い。特に車で行くには表示が不明確、道が狭く、結局、近くにコンビニに車を置かせて貰い自らの脚で見つけた。現地に着いてみると狭い道で小さいながらも臼井城趾公園の駐車場があった。

Wikipediaによると、永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。

臼井城は下総地方でも、本佐倉城などと並び、有数の巨城であったらしい。この城は大田道灌、上杉謙信といった有名な人物に攻められたことでもよく知られている。
臼井氏の時代、原氏の時代、徳川家臣酒井家次の時代と、さまざまな領主のそれぞれの時代に拡張されたものと想像される。最終的には南北1km、東西600mもある台地全体を城郭に取り込んでいるという点でも画期的な城郭だったようだ。確かに城内はかなり広いが、しかし、現在では当時の模様を想像しにくい。現在では残念ながら歴史の中に埋もれてしまっている。


↑中央の小高いところが臼井城趾

↑土橋の看板



↑広い臼井城趾


下総・増尾城(千葉県柏市)探索 (5/2)

2017年05月07日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑増尾城があった増尾城趾公園

5月2日(火)、流山市の花輪城、前ヶ崎城に続いて柏市の「増尾城」を訪れた。
増尾城があった増尾城趾公園付近は何度もウォーキングで歩いていたが城趾の中は見ていなかった。城趾周辺はかなり広い。
増尾城の築城目的、城主の記録は残っていないが小金城主高城氏の家臣・平川若狭守によって築かれたと伝わっている。
増尾城は台地先端を利用した直線連郭式の城館であったと言われる。それ以前は相馬氏の所領だったようだ。


↑別口からも登る

↑城趾方面へ

↑増尾城趾

↑増尾城説明板

↑広い城郭

↑土塁



下総・前ヶ崎城(千葉県流山市)探索 (5/2)

2017年05月05日 12時00分00秒 | 千葉の城郭

↑前ヶ崎城趾公園正面

前ヶ崎城は、千葉県流山市前ヶ崎地区の北端部にあり、前ヶ崎城址公園となっている。城址の周囲はかつては沼沢地で、沼沢地で北に向かって突き出した比高8mほどの台地先端部を利用した城である。この台地には南側に大きな谷津が入り込み込んだ島状の地形で城をにふさわしい要害の地であった。
専門家によるとこの城の位置づけは交通の要衝を押さえる拠点であったことは間違いないらしいく、兵站地点ともなりうる巨大な城郭であったとすると、ある時期、この地域の拠点的な城郭であったという可能性もあると言われている。
実際に現地を歩いて見てもその面影を十分感じさせる。城主は不明であるが高城氏の小金城の支城であったに違いない。


↑前ヶ崎城趾説明板

↑正面登り口

↑広い城郭

↑堀らしい


↑強固な土塁

下総・花輪城(千葉県流山市)探索 (5/2)

2017年05月03日 07時46分45秒 | 千葉の城郭

↑県道5号線に面した花輪城趾公園正面入口

5月2日(火)午前、松戸市の小金城(大谷口城)城主である高城氏の支城の1つである「花輪城」(流山市)を訪れた。

花輪城は県道5号線沿いにあり、東葛病院の東側の小山の中にある。
花輪城趾公園の入口は県道沿いの正面にあるが駐停車できない。また裏側にも入口があるが駐車場がなく注意を要する。

花輪城は高城氏の家臣であった平本定虎が築いた城と言われ、同じ高城氏の家臣で花輪淡路守が築いた城に平本氏が入城したとも言われており、確実なことは分かっていない。
城址の大半は削られ、全体構造は分からなくなってしまっており、想像より小さい。花輪城址公園として整備されているのは南端の部分に過ぎず、ここには琵琶首観音堂の跡がある。花輪城は江戸川の水上交通を監視する機能を持った城郭であったと考えられている。


↑階段を上がって行く

↑城郭があったと思われる上部は意外と狭い

↑説明板

↑花輪城趾公園と後の小山が花輪城の南端

↑裏側からも上れる

↑花輪城趾公園の全景

国の史跡「下総・本佐倉城」(千葉県印旛郡酒々井町)散策 (4/30)

2017年05月01日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑本佐倉城史跡

4月30日(日)午前、千葉県下総の守護・千葉氏の居城「本佐倉城」(印旛郡酒々井町)を訪れた。

本佐倉城は、千葉県印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった日本の城。文明年間(1469年-1486年)の築城で、国の史跡に指定されている。また、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(121番)に選定された。

千葉氏は元々、現千葉市立郷土博物館の場所に亥鼻城=千葉城を本拠として構えていたが内陸部の本佐倉城に本拠を移城した。しかし、江戸期に佐倉藩庁が佐倉城に移り、一国一城制により本佐倉城は廃城となった。本佐倉の城下町は酒々井宿に移設され、成田街道の宿場町になったと考えられている。
因みに、佐倉城は後世、堀田家の居城となり、日本100名城の1つである。

本佐倉城は現在でも城の土塁や空堀などの遺構がほぼ完全な姿で遺存しており、1998年(平成10年)9月11日に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定された。これは、千葉県の城郭では唯一の指定である。
現地を訪れ散策したが立派な城であったことが想像できる。確かに遺構も残っており、千葉県内でこれまで訪れた城趾では本佐倉城が最も保存状態がよい。大半の人は後世の佐倉城趾の方に行くのだろうが本佐倉城の価値を見直してもよいと思う。
現地への道は狭いが駐車場は確保されている。折角の国の史跡をもっと広く普及されることを願う。














下総・関宿城(野田市)探索 (4/28)

2017年04月29日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑利根川の土堤の下にある関宿城趾

4月28日(金)、千葉県の最北端で、利根川を挟んだ埼玉県境の町、野田市関宿にあった「関宿城趾」を訪れた。
関宿城趾は関宿城博物館から南に数百mの利根川の土堤の下にあった。当時はもっと広かったに違いないが利根川を利用した流通の拠点でもあったのだろう。
しかし、今は城の面影は一切ない。
因みに関宿へは船橋から2時間程度とかなり遠く、普段行く機会は少ないが自然一杯である。


↑中央が関宿城趾

↑関宿城の歴史

↑関宿城趾から見る関宿城博物館

↑関宿城博物館の遠景

↑関宿城博物館の正面

下総・小金城(大谷口城)(松戸市)探索(4/26)

2017年04月28日 05時00分00秒 | 千葉の城郭

↑下総・東葛飾の雄、高城氏の居城「小金城」の石碑(大谷口歴史公園)

曇り空の4月26日(水)午前、かつてから企図していた小金城(大谷口城)を訪れた。

Wikipediaによると、小金城は松戸市の標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城、開花城、とも呼ばれている。
小金城は下総の守護・千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城である。
昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完存していたが、重要な城跡にも関わらず、開発が行われ現在ほぼ全域が住宅街となっているが城跡の一部が大谷口歴史公園として整備されている。後北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀や障子堀、土塁などの遺構が残る。また達磨口にはかつて引き橋が架かっていたと言われている土塁と堀切の様な場所が残り、馬場と呼ばれる付近にも土塁や空堀らしき物が残っている。

尚、公園及び周辺には駐車場がないので注意を要する。


↑大谷口歴史公園入口(ここからも上れる)

↑障子堀

↑畝堀

↑別な登り口

↑今も残る土塁

↑金杉口跡

↑階段を上がる

↑当時は広大な城エリア写真