「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

2019年東近江・布引運動公園丘陵の桜並木満開(4/7)

2019年04月07日 16時13分21秒 | 東近江ライフ


4月7日(日)夕方時点、東近江・布引運動公園丘陵の桜並木は1日で満開になった。
昨日は五分咲き程度だったが暖かい日だったので一気に進んだ。
黄色の水仙とピンクの桜のコントラストが綺麗である。
東近江市市民も布引運動公園丘陵の桜並木のことを知らないのか人が少ない。もっとPRすれば場所も良く格好の桜名所になるのに。。。。
散る前に来週もう一度行ってみよう。













4/14 東近江市の「野草探索 春を見つけよう!」【イベント紹介】

2019年04月07日 12時14分12秒 | 東近江ライフ
東近江市の能登川博物館(山路町)は、春の野草を観察する「春を見つけよう!」を4月14日(日)に開き、参加者を募集している。

日時:4月14日(日)10:00~12:00
場所:東近江市能登川博物館(東近江市山路町2225)周辺散策
参加料:無料、定員は先着30人
申し込み・問い合わせ:東近江市能登川博物館(0748-42-6761)へ

その他:軍手とビニール袋を持参し、汚れても良い服装。

能登川博物館周辺を散策し、地域学芸員の解説を受けながら自生する野草の名前や特徴を調べる。毎年人気のイベントで、これまで「ハコベ」「ノビル」「ヒメオドリコソウ」「ツクシ」などが観察できた。

<滋賀報知新聞より>

【滋賀・近江の先人第22回】多角経営の「丁吟」二代目・近江商人・総合繊維商社チョーギンの創業「小林吟右衛門」(東近江市)

2019年04月07日 06時54分42秒 | 滋賀・近江の先人
初代小林吟右衛門(こばやしぎんえもん、安永6年(1777年) - 安政元年(1854年)は、近江愛知郡小田苅村(現滋賀県東近江市小田苅)出身の近江商人。
菅笠、紅、呉服の行商を始め、愛知、静岡、千葉に進出。屋号は「丁子屋」で「丁吟」と呼ばれた。総合繊維商社チョーギンの創業家


小林吟右衛門の旧家(現・近江商人郷土館)

小林家は島林善祐を始祖とする。
小林姓を名乗ったのは五代目重内であり、その次男が初代吟次郎(後の吟右衛門)である。
吟次郎は日頃から立身の志高く、正月に部屋の中に鶯が飛び込んできたことを吉兆とし、近隣の豪商松井久左右衛門家から三百両を借り受けて商売を始めた。
吟次郎は麻糸の原料を仕入れ、これを麻布に加工して販売した。
1796年(寛政8年)19歳に初めて兄である6代源左衛門と同じく菅笠・紅・呉服太物類の行商を行う。
文化元年(1804年)に分家し、小林吟右衛門家を新たにたてた。

初代吟右衛門は、近江特産の麻布の布仕入屋を営み、晒布問屋に麻布を送る委託販売と共に自ら麻布・小間物を行商し、往路ばかりでなく帰路にも行商先の特産品を仕入れ販売し、又金融業も営み、二代目吟右衛門亀吉が養子となる頃には奉公人を持つまでになっていた。
初代の行商先は東で駿河辺りであった。50歳を迎える頃には有力商人の仲間入りを果たした。
文政9年(1826年)に数え50歳で隠居し、生まれ故郷の小田刈村の庄屋も務め、安政元年(1854年)に数え78歳で亡くなった。


小林吟右衛門 (2代)(こばやし ぎんえもん (にだい)、寛政12年(1800年) - 明治6年(1873年)は、幕末の近江商人。

寛政12年(1800年)、近江国愛知郡小田苅村(現東近江市小田苅)の商人6代小林源左衛門の次男として生まれ、幼名は亀吉。
文化3年(1806年)、亀吉が数え7歳の時に叔父である初代吟右衛門の養子となった。
文化11年(1814年)、数え15歳となった亀吉は行商への同行。子供は連れて行けないとする義父に泣いて頼み、漸く認められ行商を始めた。

文政9年(1826年)27歳、養父初代吟右衛門隠居後、亀吉は2代目小林吟右衛門となり、行商商品も呉服太物・薬中心に変わっていった。
初代の行商先は東で駿河辺りであったのが、2代目は関八州一円にまで商圏を広げ、
天保2年(1831年)32歳、江戸堀留2丁目に織物問屋の店舗を構え、屋号を『丁字屋』と称した。
天保13年(1842年)43歳、には京都六角柳馬場へ、
また文久元年(1861年)62歳、大坂にも支店を開設した。
仕入れ先も京都中心から高崎、福島など東国各地にも展開した。
この間、彦根藩為替方御用達も務め、苗字帯刀を許された。

嘉永5年(1852年)藩主井伊直弼が領内視察の際には小田苅の小林家本宅に宿泊するなど親交があり、開国後は輸出も手がけたので、尊王攘夷派浪士の襲撃・脅迫を受けることもあった。
彦根藩並びに幕府に巨額の献金を度々行い、井伊直弼の金庫番として政治的活動を裏面から支えたと言われる。また、郷里の困窮者の賑恤にも心がけたので、藩侯より善行の賞状が与えられた。

幕末から明治維新の時期、時節を読み企業経営のかじ取りに心血を注ぎ、
文政13年(1831年)に江戸日本橋に進出、個々を拠点に関東全域に拡大。京都でも両替え商を営むなど手広く商い多角経営で全国長者番付上位の豪商にのし上がる。
明治6年(1873年)、2代吟右衛門は東京で死去した。

小林吟右衛門家は、明治26年(1893年)、中井源三郎・正野玄三・阿部市郎兵衛といった湖東・日野方面の錚々たる近江商人と共に協力し、東海道線彦根駅から高宮・日野など内陸部を通って関西鉄道深川駅を結ぶ近江鉄道会社の創設にも寄与している。

戦後は、和装から洋装分野に転身し、現在も日本橋堀留でチョーギン株式会社として子供服・紳士服の取り扱いを行っている。 また、創業期の京店跡地ではホテルギンモンド京都を営業している。