「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

「近江の山城」の本

2019年01月06日 09時24分11秒 | 近江の城郭
図書館で「近江の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)を借りてきた。
この本は2006年刊であるが情報は今も有益だ。因みにサンライズ出版は彦根市で、近江・滋賀にまつわる書籍を多数発行している。

「近江の城郭」はこのブログでも紹介しているが滋賀県には1300の城趾があるという。この数は全国屈指らしい。その理由は近江が隣の京都が都であり、戦略的に重要だったからである。
こんな数では一生掛かっても征服できないができるところから訪れてみたいものだ。



東近江市の「後藤氏館」跡

2018年12月02日 06時00分00秒 | 近江の城郭

↑東近江市「後藤館」跡

12月1日(土)、後藤氏館は同じ東近江市内ながら生活圏外が違うので良く知らなかったが滋賀県東近江市中羽田町にあった「後藤館」跡を訪ねた。久しぶりの近江城郭探訪だ。現在は田んぼになっているが大きな土塁と門跡は当時立派な居館を思い起こさせる。

さて、後藤館跡は、中世の近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。後藤氏は日本100名城の「観音寺城」を居城とする六角氏に仕え、代々の家老の要職にあり、佐生山(東近江市能登川地区)に居城佐生城を構えていた。
十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)六角義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて六角氏は織田信長に滅ぼされる。後藤氏は六角氏が滅んだ後、蒲生氏に仕えた。

この後藤氏の館跡は周囲に幅10m、高さ3mの土塁を築き、その外に堀の単郭構造の館跡で、東西辺100mの変形四辺形、西辺土塁の中央部に巨石の正門があった。
館跡の建物は位置は定かでないが、昭和56年発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内部北部中央付近にあったと推定されている。










近江(滋賀)探訪 近江・肥田城(彦根市)

2018年01月07日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・肥田城趾

12月24日(日)、「近江・肥田城」(彦根市)を訪れた。
肥田城跡の石碑は肥田公民館の100m北方の広場が整備され建てられている。この場所は元々城趾だったところだ。
公民館に隣接する崇徳寺は肥田城主の菩提寺でもあり、肥田城を築いた高野瀬氏累代の墓がある。崇徳寺の和尚様によると肥田城は現在は市街地や水田となって大半の遺構は残っていないが土塁と水路となった堀跡が東側と南側に残されており、かなり広範囲な城域だったようだ。








↑城域内にある肥田城主の菩提寺「崇徳寺」



近江(滋賀)探訪 近江・目加田城(滋賀県愛荘町)

2018年01月05日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・目加田城石碑

12月24日(日)、「近江・目加田城」(滋賀県愛荘町)を訪れた。
目加田城は愛荘町目加田集落のほぼ中央にある目加田公民館南側にあり、公民館駐車場の片隅に石碑と案内板がある。
城跡は広場になっているが大きな2つの本丸土塁の姿が目を引く。まるで古墳みたいな大きさだ。
城主の目加田氏は近江守護佐々木氏に仕えた。

戦国時代、佐々木六角氏の観音寺城の支尾根の一つに支城目加田城を築いて居城していた。この目加田城があった支尾根が安土山である。目加田貞政は、天正4年に織田信長が安土築城の際、目加田氏本来の地、目加田に戻り館を整備したのが目加田城である。
貞政の子堅政は織田信長に従い、天正10年の本能寺の変後は明智光秀に従った。山崎の合戦で光秀が敗死すると堅政は浪人となり目加田氏は滅亡したと言われる。
















近江(滋賀)探訪 近江・高野瀬城(滋賀県豊郷町)

2017年12月28日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・高野瀬城の石碑

12月23日(土)、「近江・高野瀬城」(滋賀県豊郷町)を訪れた。
高野瀬城碑は古川ASの東側に城址碑が建てられている。又、200mほど離れたバス停にも古い城址碑がある。
城郭遺構は残されておらず、工場の敷地が微高地であること。また周辺の地形よりも一段と低い田圃が、埋め立てられた堀の名残ではないかと想像させるだけである。
高野瀬城は高野瀬家広が築城したとされるが築城年は不明。近くには高野瀬氏一族の肥田城(彦根市)がある。












近江(滋賀)探訪 近江・市田城(滋賀県愛荘町)

2017年12月27日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑竹藪が近江・市田城

12月23日(土)、「近江・市田城」(滋賀県愛荘町)を訪れた。

市田城は愛荘町市の集落内にあり、周囲に水路が廻らされた竹藪が市村城である。
竹藪の中、および隣接する民家の庭付近まで土塁が約30mの規模で残る。
地元の人によると昔に発掘が行われ、石碑もあったが今は無い。
南西部の願宗寺付近にも土塁と空堀があり、市村城との関連が考えられる。距離は200m近くあり、この地の土豪の城としては大き過ぎるがこちらの方が城趾を感じさせる。













近江(滋賀)探訪 近江・我孫子城(滋賀県愛荘町)

2017年12月26日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・我孫子城の石碑

12月23日(土)、「近江・我孫子城」(滋賀県愛荘町)を訪れた。
近江・我孫子城は旧秦荘町我孫子地区の「あびこ城址広場」が我孫子城跡である。我孫子城には東と西に入口があったと伝えられ、今でも"東出"、"西出"という地名が残っている。西出地区と東出地区は約1km離れており、安孫子城の大きさを想像させるが、城址広場付近には遺構は残っていない。








近江(滋賀)探訪 近江・八町城(滋賀県豊郷町)

2017年12月24日 07時53分55秒 | 近江の城郭

↑八町城の常禅寺

12月22日(金)、「近江・八町(はっちょう)城」(滋賀県豊郷町)を訪れた。
「近江・八町城」は現在の常禅寺と白山神社一帯が城址で常禅寺の山門の前に石碑がある。
遺構は常禅寺と白山神社の間に土塁と堀が残っている。昔、寺の北側に水堀が残っていたらしいが埋め立てられ藪となっておりよく判らない。
常禅寺の境内の墓地には城主、赤田信濃守高の墓がある。
築城年代は定かではないが永正年間(1504年~1521年)赤田隆によって築かれたといわれる。
赤田氏は浅井氏に属し、佐々木六角や織田と戦うが浅井氏の滅亡と共に赤田氏も衰退し、天正12年、豊臣秀吉に抱えられ五千石を領したという。








近江(滋賀)探訪 近江・愛知川館(滋賀県愛荘町)

2017年12月23日 08時39分26秒 | 近江の城郭

↑愛知川館があった宝満寺

12月22日(金)、国道8号線の日本電産工場のトイ面にあった「近江・愛知川館」(滋賀県愛荘町)を訪れた。
「愛知川館」は愛知川の右岸にある宝満寺の一帯とされ、宝満寺に隣接する八幡神社と西側の国道との間に幅約2m、深さ約2mの空堀が残っている。
愛知川館の詳細は不明であるが現在の宝満寺一帯であるとされている。









近江(滋賀)探訪 近江・和南城(東近江市)

2017年12月06日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑多度神社の裏山が和南城

12月2日(土)、東近江市の「近江・和南城」を訪れた。

近江・和南城は東近江市和南地区の山麓にある多度神社の背後から西の尾根を登ると狭い尾根上に平行して竪堀状の窪地がある。
和南城は代々、和南氏が常住した城で築城年代は南北朝時代とされている。