武田長兵衛(たけだ ちょうべえ)は、武田薬品工業の創業家。
寛延3年(1750年)、大和国広瀬郡薬井村(奈良県北葛城郡河合町薬井)生まれ。
武田薬品工業の祖「武田長兵衛」は奈良の生まれだが、14歳の時、近江日野商人「近江屋喜助」(近江日野発祥の薬種仲買商)に奉公し、天明元年(1781年)、32歳で大阪道修町2丁目で薬種中買商として独立(近江屋喜助からのれん分け)を果たす。これが今日における武田薬品工業の創立記念日とされている。
武田は、くすりの町大坂道修(どしょう)町でタナベ、シオノギとともに「道修町の御三家」の1つであるが、武田長兵衛は近江日野商人「近江屋喜助」の流れを引き継いでおり、半分は近江商人である。
日本の薬品会社もこの何十年かで合従連衡が進み淘汰や名称変更もしているが武田は今もトップを誇っている。
ヒストリー
創業者・武田長兵衛は寛延3年(1750年)、大和国廣瀬郡薬井村(現奈良県北葛城郡河合町薬井)にて竹田徳兵衛の二男として生まれた。幼名は長三郎。
宝暦5年(1755年)6歳の時、大坂博労町の綿商で叔父・河内屋武兵衛の養子。
14歳の時、養父の河内屋武兵衛が亡くなくなると、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出た。
24歳で別居を許され通い番頭となり名を「長兵衛」と改名する。主家の一族・近江屋平兵衛が亡くなり、実子が幼少だったので28歳でその代判に選ばれた。
1779年(安永8)29歳、に主家である近江屋喜助から屋号、暖簾を使うことを許され、秋田方面の販売圏を譲られ、道修町の薬種仲買として独立することができた。
(主家の近江屋喜助も、近江屋一族の宗家太右衛門の別家格であり、武田も経営が安定してくると次々と暖簾を分けて別家を増やしていった)
天明元年(1781年)32歳の時、道修町2丁目の堺筋角で薬種中買商(武田長兵衛商店)として独立を果たす。(これが今日における武田薬品工業の創立記念日とされている)
2代目
二代目長兵衛は、薬種仲買のかたわら大名貸しをして財をなした。
3代目
三代目長兵衛は、人間道と商道との真実を追求した「仕法書」、「取締書」や「十ヵ年倹約之事」を定めた。
4代目
四代目長兵衛は、幼名を亀蔵、弘化元年(1844年)、三代の代判をつとめていた近江屋長三郎の三男として道修町に生まれた。
10歳の時、京都二条の薬種商松屋喜兵衛方へ丁稚奉公にでた。
本家では三代長兵衛が跡継ぎなく病死し、未亡人が店を取り仕切っていた。そこで17歳の時、亀蔵を後継者に選び四代目長兵衛を襲名させた。
5代目(武田の中興の祖)
五代目長兵衛は、明治3年(1870年)四代目の長男として生まれ、幼名は重太郎。13歳のころから店員と共に薬品の荷揃えや荷造りなどの仕事に携わり、かたわら漢字や英語を学んだ。
19歳の時、横浜・東京へ出張し、外国商館を歴訪。つぶさに薬種貿易についての見聞を広めた。和漢薬種商から洋薬商への発展に早くから努力し、明治28年(1895年)に、大阪市北区の内林製薬所を武田専属工場として経営し、その念願であった医薬品の国産自給への第一歩を踏み出す。
大正14年(1925年)に、武田長兵衛商店を創立し、大きな発展を続けた。
五代目はその家業を大いに発展させた人である。必要な事業研究には巨費を惜しまず、また文化的事業にも浄財を分かち、多くの事績を残した。
明治から大正にかけて、輸入洋薬の相場を支配していた、東京都中央区日本橋本町の薬種問屋の御三家
小西新兵衛商店(現・武田薬品工業株式会社グローバル本社)
鳥居徳兵衛商店(現・鳥居薬品株式会社本社)
田辺元三郎商店(現・田辺三菱製薬株式会社東京本社)
大阪の御三家
武田長兵衛商店(現・武田薬品工業株式会社大阪本社)
塩野義三郎商店(現・塩野義製薬株式会社)
田辺五兵衛商店(現・田辺三菱製薬株式会社本社)
6代目
六代目長兵衛(1905年4月29日 - 1980年9月1日)は、五代目の長男である。幼名は、武田鋭太郎。
1943年(昭和18年)に武田長兵衛商店が武田薬品工業に改称する共に社長に就任し、六代目長兵衛を襲名した。
在任中は経営の多角化・近代化を推進し、
1954年(昭和29年)発売のビタミンB1主薬製剤「アリナミン」などでの成功により武田薬品工業を業界トップに押し上げた。
1974年(昭和49年)、創業以来初めて武田家以外の者(従弟の小西新兵衛)に社長職を譲り、自身は会長に就任した。
7代目(武田國男)
六代目の長男の彰郎(当時副社長)が社長就任と共に七代目を襲名する予定であったが、就任予定の前年の1980年(昭和55年)2月に急逝した(六代目長兵衛も同年に亡くなっている)。
当時の社長の小西新兵衛は六代目の三男の國男を後継者として指名した。1993年に國男は社長に就任したが、長兵衛の名は襲名しなかった。
(Wikipedia引用)
菅笠、紅、呉服の行商を始め、愛知、静岡、千葉に進出。屋号は「丁子屋」で「丁吟」と呼ばれた。総合繊維商社チョーギンの創業家。
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小林吟右衛門の旧家(現・近江商人郷土館)
小林家は島林善祐を始祖とする。
小林姓を名乗ったのは五代目重内であり、その次男が初代吟次郎(後の吟右衛門)である。
吟次郎は日頃から立身の志高く、正月に部屋の中に鶯が飛び込んできたことを吉兆とし、近隣の豪商松井久左右衛門家から三百両を借り受けて商売を始めた。
吟次郎は麻糸の原料を仕入れ、これを麻布に加工して販売した。
1796年(寛政8年)19歳に初めて兄である6代源左衛門と同じく菅笠・紅・呉服太物類の行商を行う。
文化元年(1804年)に分家し、小林吟右衛門家を新たにたてた。
初代吟右衛門は、近江特産の麻布の布仕入屋を営み、晒布問屋に麻布を送る委託販売と共に自ら麻布・小間物を行商し、往路ばかりでなく帰路にも行商先の特産品を仕入れ販売し、又金融業も営み、二代目吟右衛門亀吉が養子となる頃には奉公人を持つまでになっていた。
初代の行商先は東で駿河辺りであった。50歳を迎える頃には有力商人の仲間入りを果たした。
文政9年(1826年)に数え50歳で隠居し、生まれ故郷の小田刈村の庄屋も務め、安政元年(1854年)に数え78歳で亡くなった。
小林吟右衛門 (2代)(こばやし ぎんえもん (にだい)、寛政12年(1800年) - 明治6年(1873年)は、幕末の近江商人。
寛政12年(1800年)、近江国愛知郡小田苅村(現東近江市小田苅)の商人6代小林源左衛門の次男として生まれ、幼名は亀吉。
文化3年(1806年)、亀吉が数え7歳の時に叔父である初代吟右衛門の養子となった。
文化11年(1814年)、数え15歳となった亀吉は行商への同行。子供は連れて行けないとする義父に泣いて頼み、漸く認められ行商を始めた。
文政9年(1826年)27歳、養父初代吟右衛門隠居後、亀吉は2代目小林吟右衛門となり、行商商品も呉服太物・薬中心に変わっていった。
初代の行商先は東で駿河辺りであったのが、2代目は関八州一円にまで商圏を広げ、
天保2年(1831年)32歳、江戸堀留2丁目に織物問屋の店舗を構え、屋号を『丁字屋』と称した。
天保13年(1842年)43歳、には京都六角柳馬場へ、
また文久元年(1861年)62歳、大坂にも支店を開設した。
仕入れ先も京都中心から高崎、福島など東国各地にも展開した。
この間、彦根藩為替方御用達も務め、苗字帯刀を許された。
嘉永5年(1852年)藩主井伊直弼が領内視察の際には小田苅の小林家本宅に宿泊するなど親交があり、開国後は輸出も手がけたので、尊王攘夷派浪士の襲撃・脅迫を受けることもあった。
彦根藩並びに幕府に巨額の献金を度々行い、井伊直弼の金庫番として政治的活動を裏面から支えたと言われる。また、郷里の困窮者の賑恤にも心がけたので、藩侯より善行の賞状が与えられた。
幕末から明治維新の時期、時節を読み企業経営のかじ取りに心血を注ぎ、
文政13年(1831年)に江戸日本橋に進出、個々を拠点に関東全域に拡大。京都でも両替え商を営むなど手広く商い多角経営で全国長者番付上位の豪商にのし上がる。
明治6年(1873年)、2代吟右衛門は東京で死去した。
小林吟右衛門家は、明治26年(1893年)、中井源三郎・正野玄三・阿部市郎兵衛といった湖東・日野方面の錚々たる近江商人と共に協力し、東海道線彦根駅から高宮・日野など内陸部を通って関西鉄道深川駅を結ぶ近江鉄道会社の創設にも寄与している。
戦後は、和装から洋装分野に転身し、現在も日本橋堀留でチョーギン株式会社として子供服・紳士服の取り扱いを行っている。 また、創業期の京店跡地ではホテルギンモンド京都を営業している。
矢尾喜兵衛は、近江国蒲生郡中在寺村(滋賀県日野町)の農業、大橋利兵衛の二男。
1725年(享保10年)14歳の時、日野栗屋町の富商「矢野新右衛門」の出店である武蔵国秩父郡野上村現埼玉県長瀞町)の日野屋矢野五郎右衛門店に奉公した。15年の奉公生活を経て支配人に昇格した。
寛延2(1749)年39歳の時、主家を辞し別家して「矢尾」と称した。改名は、主家矢野の1字を貰い、尾は山鳥の尾がしたたるの如く、長く家運が続き、主家の恩義を忘れないとの考えに基づくものだという。
喜兵衛は、秩父大宮(秩父市)に舛屋利兵衛の店名で酒造業(現秩父錦)と万卸小売業(太物、米塩、大豆、茶、たばこ等、あらゆる日用雑貨)(現矢尾百貨店)を主家との乗合商いの形態で開店した。麻・綿織物商、質屋も兼業した。矢尾家は、乗合商いという合資形態の店を、関東地方に判明しているだけでも通算16店展開したと言う。
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矢尾喜兵衛は、39歳で創業し、商売の基盤が固まった50歳で嫁を娶った。その後は支配人を秩父に置き、国許の近江日野に居住し、毎年店務監督のため下向した。
終始主恩と奉公人の労苦を忘れず、自らを厳しく律し、どんな物品も粗末にせず、効用を使い尽くすことに努め、質素篤実に徹した生涯を送った。
矢尾喜兵衛は一括千金のやり方ではなく、こつこつと細かい儲けをはじき出す商法(牛のよだれ商法)で代を築いた典型的な近江商人であった。
美談として、商売が繁盛につれ、益々主家への恩義を感じ、1774年(安永3年)から凡そ100年間(江戸時代の終わり頃まで)にわたって毎年100両を主家に納め恩義の意を表したと伝えられる。
近江の日野商人矢尾喜兵衛の「舛屋利兵衛」は創業以来、約300年を経て、現在も埼玉県秩父市において、矢尾本店(酒造業)と矢尾百貨店(デパート)として存続している。
http://chichibunishiki.com/
http://yao-dept.jp
1876年(明治9年)、三代目藤井善助の次男として滋賀県神崎郡北五個荘村大字宮庄(現東近江市)に生まれる。
滋賀県商業学校(後の滋賀県立八幡商業高等学校)に入学するも中退。
朝鮮元山の近江商人宮原商店に奉公し修業を積む。その後、京都に戻り、長兄と共に父・藤井善助の家業を手伝う。
父・善助の死後、分家し、1907年(明治40年)に糸商「藤井彦四郎商店」(現・藤井株式会社)を創業する。
藤井彦四郎は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。
大正期になると帝国人造絹絲(現・帝人)や旭絹織(現・旭化成)などにより人造絹糸の国産化が図られるが、藤井は工場経営は行わず毛糸事業に重点を移し、共同毛織、共同毛糸紡績(現・倉敷紡績)を興して「スキー毛糸」のブランドで成功を収めた。
藤井協成会は藤井彦四郎が私財を投じ1936年(昭和7年)12月に設立。地域の教育振興や文化の向上、社会福祉の増進に関する事業の助成・補助を目的とする。毎年、教育関係機関などに要望に応じた寄贈を行っている。
2019年も故郷五個荘の3幼稚園に寄贈している。
以下、その模様は滋賀報知新聞サイトへ。
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0028683
藤井彦四郎が1934年(昭和9年)に滋賀県東近江市宮庄町に建築させた迎賓館は、「五個荘近江商人屋敷 藤井彦四郎邸」として名勝となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/07/0f/b06142032a9143e2615987024875f1c4_s.jpg)
<Wikipedia引用>
滋賀県野洲郡鏡里出身(現野洲市)。出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。
額田王は、東近江市にも非常に関係がある。
それは東近江市に「蒲生野万葉の森」があり、ここであの有名な額田王と大海人皇子(天武天皇)が狩りと歌を読んだところだ。
天武天皇(てんむてんのう)は、7世紀後半の日本の第40代天皇で天智天皇とは異父兄弟であった。従って、1400年も前の人達である。
興味のある方は是非、東近江市の「蒲生野万葉の森」を訪れ、思いを馳せて欲しい。特に春の桜は綺麗である。
2018年春の万葉の森
https://blog.goo.ne.jp/ntt00012/e/5721ca6f2953099d3a8279b6fd34921d
額田王(『万葉集』)の表記が一般的であるが、額田女王、額田姫王(『日本書紀』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。
『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を生むとある。
十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。
鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇の曾孫という。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。
特に
茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王)
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子=天智天皇)
の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にある。
額田王が絶世の美人であったというのは小説などでは通説となっている。しかし額田王に関する記述がごく限られており、その容貌について物語る史料があるわけではない。
(Wikipediaより引用)
滋賀県人である私も「白木屋」のことを良く知らなかった。ましてや創始者が江戸期の近江商人「大村彦太郎」だと言うことも知らなかった。また、商売の最後が百貨店であること、近江商人の多くが繊維、呉服で身を起こしていることから同類かと思ったが何と材木商から始まっていた。あまたいる近江商人でも大変珍しい。
明治から昭和初期まで一世を風靡した「白木屋百貨店」は、東京、大阪などの大都市で大型店舗を構え、流行の先端を走る革命的なデパートとして君臨した。その創設者が近江長浜出身の大村彦太郎だったのである。
白木屋百貨店は戦前頃まで三越、高島屋、大丸、松坂屋、松屋などと肩を並べる業界の老舗であった。創業は三越よりも古い300年の伝統を誇ったが白木屋は戦後の経営の沈滞から1967年(昭和42年)、東横百貨店(東急百貨店)に吸収され、白木屋は消滅した。しかし、白木屋創業以来336年の歴史を誇ってきたその東急百貨店日本橋店も売れ行き不振で、1999年(平成11年)に閉店している。
ヒストリー(Wikipedia等参照)
白木屋創業者である初代大村彦太郎は、寛永13年(1636年)近江国坂田郡長浜村(現滋賀県長浜市)に生れた。幼名は彦四郎、諱は可全(よしまさ)。父は「大村孫右衛門(道与)」、母は長浜の材木商河崎源兵衛(定幸)の娘「辰」と言い、弟に四郎三郎がいた。父は京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたと伝えられている。
父孫右衛門は寛永17年(1640年)に没し、彦太郎は数え7歳で父を失った。彦太郎と弟四郎三郎は、母辰と共に母の実家河崎家に引き取られ、母の弟、河崎源兵衛(定利)に養育された。河崎源兵衛(定利)には鍋と夏と言う二人の娘がおり、後に夫々彦太郎と四郎三郎に嫁いだ。
独立(京都白木屋開業)
彦太郎は良疇寺(現長浜市下坂浜)の法山和尚について学んだ。
彦太郎は母の里である近江長浜の河崎家で同家家業を手伝い、材木屋としての修行をしたが商才に長けており、和尚より商人として身を立てることを勧められた。
彦太郎が数え17歳の頃(慶安4年-5年(1651年-1652年)、河崎家の援助を得て、京都で材木商売を始めた。河崎家からは資金・商品の支援に加えて「白木屋」の屋号も贈られた。
開店後、彦太郎は材木商「白木屋彦太郎」として諸国に材木販売で回る傍ら、綿布の行商も行った。京都の材木店「白木屋」は木綿類や日用品の販売も行い、大いに繁盛したという。
江戸白木屋出店
江戸幕府開府以降の江戸の繁栄を聞くにつけ、彦太郎は江戸への出店を考えるようになり、
寛文2年(1662年)、江戸で人気の上方小物を商う小間物屋「白木屋」を間口一間半(約2.7m幅)のささやかな店だったが日本橋通り2丁目に出店した。
寛文5年(1665年)には更に地の利が良い、日本橋通り1丁目に移転し、後に江戸屈指の呉服店「白木屋」の礎を固めた。
江戸日本橋の新店舗では裂地類(和織物)を仕入れるほか、
寛文8年(1668年)には羽二重地を扱い始め、徐々に扱い品を増した。
延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等を販売
延宝7年(1679年)には晒木綿(さらし木綿)販売
天和元年(1681年)には木綿羽織地に着尺麻(きじゃく麻)販売
貞享元年(1684年)には太物(綿織物や麻織物)店を拡張
貞享3年(1686年)には郡内縞(グンナイジマ=絹織物の一つ)販売。
商売の方法は新しい商品を扱っては売れ行きを見、資金回収をした上で新しい商品に手を出すと言う、極めて手堅い商売を行い、徐々に店は拡張していった。江戸時代、「白木屋は手堅い店」と言われ、大いに商売上信用に値する店と評価された。
これは、「商いは利益を取らず、正直に、良きものを売れ、末は繁盛」との白木屋家商業精神によるものと言えるだろう。
初代彦太郎隠居
貞享元年(1684年)48歳の時、寛文元年(1661年)生れの嫡男彦太郎安全に家督を継いだ。しかし、二代目彦太郎安全は貞享3年(1686年)まで京都の店で仕事をしていたため、初代彦太郎は隠居をしたと言っても、息子安全の江戸到着まで実質日本橋の店を経営していた。
2代目彦太郎安全の事実上の初年度である貞享4年(1687年)には、
白木屋は手元予備金だけで2万9千5百両の大店となっていたという。元禄2年(1689年)、53歳で初代彦太郎は死去した。
白木屋百貨店へ転業とその後
その後も白木屋は発展し、元禄10年(1697年)には東京日本橋本町通りの大呉服店17軒の一つに挙げられ、後に江戸の代表的な呉服問屋として江戸三大呉服店(三井越後屋、大丸屋/下村大丸、白木屋)の一つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在であった。
明治初年(1868年頃)、洋服の普及を洞察し洋服店開店。婦人服を作り、鹿鳴館時代の貴婦人の洋服一手に扱った。明治23年、初議会の代議士の洋服の大部分が白木屋製だった言われる。明治36年(1903年)、日本初の洋式白木屋デパート完成。
以降、白木屋は百貨店業に変化していった。東京、大阪、神戸らにも多数店舗を設け、かつて日本を代表した百貨店(白木屋、三越、髙島屋、松坂屋、松屋)の一つである。
顧客本位の商法(家訓「商いは利益を取らず、正直に、良きものを売れ、末は繁盛」)は白木屋300年の誇るべき伝統であった。
しかし、白木屋は戦後の経営の沈滞から脱することが出来ず、1967年(昭和42年)、東急百貨店日本橋店への吸収により消滅した。
また、白木屋以来336年の歴史を誇ってきた東急百貨店日本橋店も売れ行き不振により1999年(平成11年)1月31日に閉店している。
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海のない内陸県である滋賀県出身の「海軍大将」がいたことを知らなかったが、実は一人だけ海軍大将がいて、それが幕末の彦根藩大老井伊直弼の老臣の子「三須宗太郎」だった。
幕末維新期の彦根藩の二人が明治以降にも活躍していた。
両名とも年齢が近く彦根藩として戊申戦争に従軍し、勤王として武功を上げ、その後、三須宗太郎は軍人、一方の大東義徹は政治家を歩んでいる。
大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ)、
天保13年(1842年) - 明治38年(1905年)63歳没は、官僚、政治家(司法大臣)、滋賀県初の大臣。
大老井伊直弼の老臣、三須熊治の長男三須宗太郎は、日露戦争での戦傷により失明し、独眼龍の異名を持つ勇将山地元治になぞらえ「海軍の独眼龍」と讃えられたほどの勇将と言われる。
三須宗太郎は、明治4年に海軍兵学寮に入り、多くの薩摩藩や佐賀藩の出身者がいる中、頭角を現し、征台の役、西南戦争と相次いで従軍した。戦後、少尉補に任官し、以後累進し日清戦争の頃には官房人事課長を務め、海軍省で後方任務にあたった。
明治30年「須磨」艦長として現場に復帰し、「浪速」「朝日」の各艦長を経て人事局長に就任した。
日露戦争には上村彦之丞大将率いる第二艦隊の第二戦隊司令官として出征、蔚山沖海戦ではウラジオ艦隊を撃破するなどの功をげた。 日本海海戦には第一戦隊司令官に転任し戦ったが敵弾の破片を浴び左目を失明した。このことが海軍の独眼龍」の所以である。
日露戦争後は海軍教育本部長、旅順口鎮守府司令長官、海軍軍令部次長、舞鶴鎮守府司令長官を歴任し大正2年に大将に昇進した。
因みに、
日本海軍には歴代西郷従道を筆頭に77人の海軍大将がいたが三須宗太郎は18番目の大将である。初期の海軍は薩摩人に牛耳られやっと15番が福島、16番は石川、17番は岩手、18番が三須宗太郎だったことからも彼が如何に優れていたかが分かる。
三須宗太郎は海軍省の人事局長、海軍教育本部長や海軍軍令部次長など要職も経歴したが、海上勤務の現場の指揮官が似合った海軍軍人だったと言える。
陸軍には滋賀県からも複数の陸軍大将を輩出しているが海軍は第二次大戦の終戦に至る期間を含めて滋賀県からは三須宗太郎ただ一人だけである。
■経歴
明治4年(1872年)-明治10~11年頃、海軍兵学寮後に兵学校第5期生扱い)。生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者だった。
この5期生には伊集院五郎元帥、出羽重遠大将がいる。出羽も会津出身であり、薩摩人に独占されていた大将の座を初めて勝ち取った三須・出羽の出現は、海軍の藩閥重視の慣習が廃れた象徴といえる。
明治7年(1874年)、陸上での座学を終え、練習艦「筑波」に乗り込んで航海術実習に励む。この年の春に征台の役が勃発。
明治10年(1877年)冬、西南戦争が勃発し、「筑波」は練習艦任務を解かれて戦場に出る。
明治11年(1878年)、少尉補となった。少尉昇進間で2年半、更に中尉昇進には2年弱と5年近く「孟春」・「摂津」・「浅間」の乗組員として下積みを過ごす。
明治18年(1885年)9月、中尉昇進後、最新鋭巡洋艦「浪速」分隊長に命じられ、イギリスまで完成した「浪速」を引き取りに初めて海外へ渡る。
以後、「浪速」で分隊長・砲術長を計2年間務める間に大尉へ昇進。「浅間」に乗り代わってからは「浅間」「龍驤」、9ヶ月の地上勤務を挟み「高雄」「金剛」の副長を歴任した。
地上勤務は横須賀鎮守府参謀・大学校と兵学校の教官といった比較的軽い任務だったという。
明治26年(1893年)9月ー明治30年(1897年)12月、海軍省人事課長に就任。長らく現場で着実に経験と実績を積み重ねてきたが、突然に軍政の中枢部に召集され、人事課長を命ぜられた。
海軍将校の人事は海軍大臣の専権事項であるが、艦隊司令官や海軍省・参謀本部局長はともかく、艦船・部隊の将校人事は大臣一人では手が回らない。そこで大臣官房の中に人事課を設置し、その責任者として三須が選ばれ三須が士官人事を捌いた。
この間に日清戦争が勃発。勝利に必要な人員の配置、黄海海戦での戦死者の埋葬や補償の処理、補充人員の手配、終戦後の人員削減といった人事上欠かせない事務処理をこなし、この時の働きを評価され、日露戦争直前にも人事責任者として海軍省に召集されることになる。この人事課長の任期中に大佐へ昇進。
明治30年(1897年)-明治33年(1900年)
ようやく4年もの海軍省でのデスクワークを終え、久々に「須磨」艦長として海上の現場に復帰。半年後、昔、明治18年(1885年)にイギリスから回航したことがある「浪速」艦長に転出。
同年末に新巡洋艦「出雲」回航のために渡英したが、「出雲」が未完成のため、代わりに戦艦「朝日」艦長に異動して「朝日」を日本まで回航し、明治33年(1900年)に帰国した。三須の艦長生活はこの4年間で終わりを迎える。
明治34年(1901年)7月、
三須は少将に昇進すると同時に、人事局長に任じられる。
かつては大臣官房の小所帯だったこの部署だが、日露戦争に向けた軍拡に対応するために巨大化した部署になり、人事課長時代に比べても扱う人員は増大していた。
明治37年(1904年)から明治38年(1905年)の日露戦争時、東郷平八郎を連合艦隊司令長官指揮下、三須は粗野・蛮勇の気質の上村彦之丞第2艦隊の主力隊である第2戦隊司令官につき、任務を果たしている。
明治38年(1905年)1月、三須は中将に昇進。
東郷直轄の第1戦隊司令官に転任し、日本海海戦に参戦。第1戦隊のしんがりを務める「日進」に同乗した。海戦序盤、「日進」は旗艦「三笠」に次ぐおびただしい敵弾を浴び、戦隊司令部員・「日進」幹部の多数が戦死した。
三須も間近に着弾した弾丸の破片を浴びて左目を失明した。この負傷を機に、「海軍の独眼竜」と三須は呼ばれて賞賛された。
日露戦争の勝利と共に海上生活を終え、
明治38年(1905年)11月、海軍教育本部長
明治39年(1906年)旅順口鎮守府司令長官
明治39年(1906年)11月、海軍軍令部次長を歴任
明治40年(1907年)9月、日露戦争の戦功により男爵に叙せられた。
明治42年(1909年)、現場を離れて将官会議議員へと降りる
明治43年(1910年)、日露戦争のために未完成だった舞鶴鎮守府の整備を再開するため、臨時建築部長として舞鶴に赴任。
明治44年(1911年)1月、最後の任務となる舞鶴鎮守府司令長官に任じられた。
大正2年(1913年)9月、大将昇進を花道に将官会議議員に降板。
大正3年(1914年)12月1日に予備役編入され引退。
大正10年(1921年)12月24日、66歳で没した。
最終階級
海軍大将 正三位勲二等功二級 男爵
<海兵五期>
<Wikipedia引用>