「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

日本100名城めぐり 長野県「高遠城」(44城目登城)

2017年07月06日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑高遠城趾

7月4日(火)、今回は関西からの帰路、中央高速道路を途中下車して、長野県伊那市の「高遠城(たかとうじょう)」に登城してきた。

「高城城」は兜山城の別名を持ち、戦国時代、対織田・徳川軍の武田軍の砦の役割を果たした。
高遠城の縄張りは中世の状態を踏襲し、本丸には御殿と天守代用として三層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭であったと言う。
現在は石垣、土塁、空堀、門のみ残る。明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1876年)に公園となっており桜の名所として有名だと聞く。

7/4は台風3号の影響で雨だったのでゆっくり散策できなかった。早々に散策し、近くの歴史博物館でスタンプを得た。


↑案内板

↑高遠城本丸への橋
↑二の丸跡

↑立派な空堀

↑高遠城の戦い




「日本100名城」登城記録

2017年06月28日 05時00分00秒 | 日本100名城
2012年終盤、ウォーキング仲間に感化され、始めた「日本100名城」めぐりであるがあれから足かけもう5年近くになる。
年度により登城数に波があるが約5年で4割を越えた。関東甲信越、東北、北海道は完了した。最遠路の北海道と沖縄が終わり、次の難関は遠路の九州を含めた西日本、四国である。
2017年内には50城くらいまで達成したいものだが、これまでのペースからだと100名城全城登城まで早くてもあと5年近くは掛かるだろう。

1城目:佐倉城(11-24-2012)
2城目:江戸城(12-13-2012)
3城目:川越城(1-22-2013)
4城目:水戸城(3-5-2013)
5城目:白河小峰城(9-14-2014)
6城目:会津若松城(鶴ヶ城)(9-14-2014)
7城目:二本松城(9-14-2014)
8城目:多賀城(9-14-2014)
9城目:青葉城(9-15-2014)
10城目:盛岡城(9-15-2014)
11城目:八戸城(根城)(9-15-2014)
12城目:弘前城(9-15-2014)
13城目:秋田城(久保田城)(9-16-2014)
14城目:山形城(霞城)(9-16-2014)
15城目:小田原城(9-18-2014)
16城目:掛川城(9-18-2014)
17城目:小谷城(9-19-2014)
18城目:彦根城(9-19-2014)
19城目:安土城(9-19-2014)
20城目:観音寺城(9-19-2014)
21城目:丸岡城(9-20-2014)
22城目:一乗谷城(9-20-2014)
23城目:伊賀上野城(9-20-2014)
24城目:武田氏館(10-11-2014)
25城目:甲府城(舞鶴城)(10-11-2014)
26城目:八王子城(10-11-2014)
27城目:箕輪城(11-2-2014)
28城目:金山城(11-2-2014)
29城目:足利氏館(11-2-2014)
30城目:鉢形城(11-2-2014)
31城目:首里城(12-11-2015)
32城目:中城城(12-11-2015)
33城目:今帰仁城(12-13-2015)
34城目:駿府城(8-14-2016)
35城目:岡崎城(8-14-2016)
36城目:松坂城(8-17-2016)
37城目:犬山城(8-19-2016)
38城目:長篠城(8-19-2016)
39城目:山中城(8-19-2016)
40城目:名古屋城(9-2-2016)
41城目:松前城(5-11-2017)
42城目:五稜郭(5-11-2017)
43城目:根室半島チャシ跡群(5-30-2017)

2017年5月末

日本100名城めぐり「根室半島チャシ跡群」(43城目登城)(5/30)

2017年06月01日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑日本100名城「根室半島チャシ跡群」(ヲンネモトチャシ跡)

5月30日(火)、日本100名城で最難関である「根室半島チャシ跡群」の訪問がやっと実現した。
昨年秋一度計画したがその時は実現できず、今回は寒い季節は避け暖かくなった季節を選んだ。それも無茶と思われる羽田ー釧路間は空路、釧路ー根室半島間はレンタカー往復の日帰り弾丸ツアーを決行した。
根室半島チャシ跡群は最難関と言われるだけあってさすが遠かった。釧路空港から納沙布岬まで片道160kmはある。釧路空港を10時20分に出発し、広い北海道の国道44号線を根室に向かってひた走る。根室駅には13時頃に着いた。早速、駅前の観光案内所で「根室半島チャシ跡群」スタンプを押し、チャシ群の地図を貰って「ヲンネモトチャシ跡」と納沙布岬に向かう。岬まで20km30分程度である。

「ヲンネモトチャシ跡」への途中、「ノツカマフ1・2号チャシ跡」の標識があり、立ち寄った。しかし、先を急いだので詳しい散策はしなかった。「ヲンネモトチャシ跡」は納沙布岬手前2kmのところにあった。岬までの道から少し逸れた岸壁にある。標識がなければ何も無いところである。
今回は天気もよく、ヲンネモトチャシ跡で、北方4島、納沙布岬や太平洋を望みながら、ついに根室半島チャシ跡群に来た達成感を感じながら色んなことを想像したのだった。
今回の旅は「根室半島チャシ跡群」が目的だったが、直ぐ目先の納沙布岬、北方4島を見ることも期待していたが実現した。(納沙布は別にブログアップ予定)
名残惜しかったが帰路のフライト時間もあり、納沙布岬を15時過ぎに釧路に向かって引き返した。復路は時間的余裕があったので急がず、釧路空港には18時半過ぎに帰って来た。途中、地元の車に何度も追い越されたが直線コースで信号もなく、国道44号線はまるで自動車道の感じだった。道中、広大な北海道、農地、牧草地、原野に感嘆し、てんてんと見える牧場も目を楽しませてくれた。
羽田には22時前に着き、空港バス経由で自宅には24時前に帰った。正直、疲れた長い1日だったが充実感のある1日でもあった。
これで3つある北海道の100名城登城は完了したことになる。


↑JR根室駅

↑JR根室駅前の根室市観光案内所(100名城スタンプがある)

↑チャシ群途中の大型風力発電機

↑ノツカマフ1・2号チャシ跡の看板

↑ノツカマフ1・2号チャシ跡

↑ヲンネモトチャシ跡看板

↑チャシの方へ歩いて行く

↑ヲンネモトチャシ跡に到着

↑ヲンネモトチャシ跡へ上がって行く

↑ヲンネモトチャシ跡

↑ヲンネモトチャシ跡から納沙布岬を望む

日本100名城めぐり「函館・五稜郭」(42城目登城)(5/11)

2017年05月14日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑五稜郭跡

3つある北海道の日本100名城である、「松前城」と「五稜郭」への登城が5月11日(木)に実現した。

5月11日(木)は残念なことに北海道は終日雨だった。羽田を出発する前から函館空港の視界不良のため引き返しもあり得るとの案内もあったが無事函館に到着できた。北海道は45年以上前、蟹族で行って以来の旅である。

今回は函館空港からレンターカーを使い、まず、遠路の「松前城」に行き、函館に戻り、「五稜郭」へ向かった。初めて有名な五稜郭を訪れた。五稜郭は江戸末期のものだが箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となったことでも有名である。
雨の函館だったがそれでも観光地の函館らしく五稜郭にも中国系の観光客が多く来ていた。また、修学旅行の学生も多くいた。依然として雨は降っていたが五稜郭の中を歩いた。結構広い。

42城目の100名城のスタンプは五稜郭タワーで戴き、時間があったので赤煉瓦倉庫エリアに向かったのだった。5月11日は函館から松前往復を含め230kmドライブと羽田-函館フライトによる弾丸日帰りの旅だった。


↑函館奉行所入口

↑五稜郭本陣

↑立派な石垣

↑五稜郭から見える五稜郭タワー

↑箱館戦争供養塔(五稜郭タワー近くにある)

日本100名城めぐり「松前城」(41城目登城)(5/11)

2017年05月13日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑雨の松前城(復元城:松前城資料館)

長年、計画していた北海道の日本100名城である「松前城」と「五稜郭」への登城が5月11日(木)に実現した。

5月11日(木)の北海道は残念なことに雨の1日だった。羽田では出発する前から函館空港の視界不良のため引き返しもあり得るとの案内もあったが無事函館に到着できた。生憎の雨で行動に制約を受けたが、函館空港からレンターカーで、先に遠路の「松前城」に向かった。函館から松前まで90km余、2時間半弱だった。

松前町は渡島半島南西部に位置し、かつては松前藩の城下町として政治・経済・文化の中心地として栄えた街で北海道では唯一の城下町だ。松前のシンボル松前城と全国屈指の桜の名所としても有名である。
松前、江差エリアは江戸末期・明治初期、榎本武揚を始めとする函館戦争の激戦地でもある。
松前城は規模は大きくないが北方ロシアへの防衛拠点と機能していた。城では桜祭りが実施されていたが、桜は散り始め、本降りの雨もあって残念ながら十分、散策はできなかった。雨の中、お城には中国系の観光客が多く来ていた。
41城目の100名城スタンプは松前城資料館で戴いて、雨の道を、また、函館に引き返した。


↑松前城資料館正門

↑松前城資料館

↑松前城の歴史

↑松前城の全景図

↑城内から海岸線が見える

日本100名城めぐり 愛知県「名古屋城」(40城目登城)

2016年09月03日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑金の鯱が輝く名古屋城の天守閣

9月2日(金)、関西行きへの途中、金の鯱で有名な「名古屋城」に登城した。子供の頃、一度来たことがあるが記憶が薄れていて覚えていない。東名高速を下車したが名古屋市内まで結構遠い。

名古屋城は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城であったが元々は織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城したとされる。
大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが名古屋大空襲(1945年)によって大部分を焼失した。戦後に天守などが外観復元されているが、木造に建て替えが決まっている。

午後3時前に到着し、急ぎ天守閣の展望台にも登った。名古屋が360度一望できたが昔の面影は感じなかった。時間がなかったので十分味わうまでもなく名古屋城を離れたが次回は木造になった頃か。


↑名古屋城の正面

↑立派な名古屋城の石垣

日本100名城めぐり 静岡県三島市「山中城」(39城目登城)

2016年08月31日 13時38分06秒 | 日本100名城

↑山中城の見事な斜面を利用した段々の空堀

8月19日(金)、今回は関西からの帰路、犬山城、長篠城に続いて、新東名高速を途中下車し、3城目の静岡県三島市「山中城」に登城した。

山中城は箱根の芦ノ湖山中にあり、国道1号線から近い。中世の日本の城(山城跡)で北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。この城は箱根の交通の要所で小田原を守る城だったに違いない。天守や石垣もない山城だが西ノ丸畝堀、障子堀等、実に美しい。一見の価値は十分ある。

帰路、箱根町経由で小田原まで出たが渋滞に巻き込まれ、帰宅まで時間が掛かった。犬山、長篠城、山中城の3城を西から東へと長旅だった。


↑山中城入り口の全景案内板

↑入口から山中をなだらかに登って行く

↑綺麗な堀

日本100名城めぐり 愛知県新城市「長篠城」(38城目登城)

2016年08月25日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑長篠城趾

長篠は戦国時代の有名な合戦があった場所である。
Wikipediaによると、「長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦」とある。

長篠城は新東名高速の長篠ICからほど近い。東名の豊川ICからでも行けるがやや遠い。
今回は関西空の帰路、8月19日(金)、犬山城に次いで、新東名長篠ICで途中下車し「長篠城」に登城した。

長篠城は城趾だけで建物はないが信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った奥三河山中だけに興味深い。小さいながらも周囲は空堀と天然の深い谷と川で囲まれている。
武田勝頼がなぜ先に長篠城を落とさず、「設楽ケ原」に進駐し織田・徳川軍と対峙したのか歴史のミステリーだが結果的に大敗し、武田は滅びた因縁の長篠の戦い・長篠城である。


↑長篠城の空堀

↑武田軍と対峙した場所

日本100名城めぐり 愛知県「犬山城」(37城目登城)

2016年08月23日 09時00分29秒 | 日本100名城

↑国宝犬山城の天守閣

8月19日(金)、関西への帰省帰路の途中、一般道を使い3時間を掛けて岐阜県と愛知県の県境にある「犬山城」に登城した。
記憶が確かでないが小学生の時一度訪れたように思うが全く記憶がない。
現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」の一つであり、また天守が国宝指定された5城(犬山城、姫路城、松本城、彦根城、松江城)のうちの一つでもある。
犬山城は織田信長の叔父が築城し、岐阜と愛知を挟む木曽川のほとりの小高い山の上に建てられた天守閣からの眺めはまさに絶景である。また、少し離れた川沿いから見る城の姿もよい。
当時は斎藤道三の美濃の国の見張りの城として重要な役割を果たしていたに違いない。


↑城内で記念写真

↑天守閣から木曽川

↑天守閣から360度広がる木曽川

日本100名城めぐり 三重県「松坂城」(36城目登城)

2016年08月20日 05時00分00秒 | 日本100名城

↑松坂城の綺麗な石垣

8月17日(水)午前、東近江市から車で2時間(片道85km)かけて松坂城に登城した。
初めて松坂を訪れたが亀山市、津市を越え結構遠い。
松坂牛で有名な三重県の松坂城は豊臣秀吉に重用された滋賀(近江)出身の 近江国日野城6万石の「蒲生氏郷」が築城した。
蒲生氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移っている。

現在の松坂城は平山城で、天守閣はなく石垣のみが残っており、松阪市役所に隣接する城址公園の中にある。綺麗な石垣で有名だが安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが松阪城にもこの時の石垣作りが取り入れられていると言う。石垣は穴太衆(滋賀県大津)の石垣積みの方式、ノウハウが活かされている。現在は石垣だけしか残っていないが当時はそれなりに立派な城だったに違いない。
公園内には本居宣長記念館がある。本居宣長は江戸期の国学者で松坂出身である。


↑松坂城への登城口

↑綺麗に積まれた石垣

↑本居宣長記念館