「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

早春の琵琶湖湖畔の菜の花畑(守山市)

2019年01月30日 13時17分36秒 | 近江探訪


1月30日(水)午前、東近江市から17km掛けて、守山市の「菜の花畑」に出掛けた。
この数日は寒かったが1/30は太陽が出てお出かけ日和だった。

早春の守山市の琵琶湖湖畔畑に咲く一面の黄色の菜の花と、対岸の雪の比良山系の雄大なコントラストは素晴らしい。
平日にもかかわらず見物、観賞の人で賑わっていた。
場所はマリオットホテルの斜め前の「第1なぎさ公園」である。




【滋賀・近江の先人第8回】ワコール創業者・塚本幸一(東近江市)

2019年01月28日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
塚本幸一」、1920年(大正9年)9月17日-1998年(平成10年)6月10日)はワコール創業者。滋賀県神崎郡五個荘町(現・東近江市)出身。
塚本二代目粂次郎(くめじろう)、母信(のぶ)の長男として宮城県仙台市花壇川前町(現在の青葉区花壇)で生れた。
塚本幸一の父、二代目塚本粂次郎は滋賀県神埼郡五個荘村川並(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の出身である。粂次郎というのは祖父の名前でもある。

塚本幸一は、呉服商から転じ、戦後、女性下着、特にブラジャーがヒットさせ、一代で世界のトップブランド「ワコール」を築き上げた近江商人である。

  

1946(昭和21)年6月15日、第二次世界大戦の過酷な戦闘から奇跡的に生還した青年・塚本幸一は、京都の自宅へ帰り着いたこの日から、婦人装身具の商売を始めました。これが、ワコールの創業日となっている。
創業当初の商号は『和江商事』。1949(昭和24)年に、創業者塚本幸一の「日本の女性を美しくしたい」という強い思いと、『ブラパット』が出会い、事業に決定的な飛躍をもたらし、世界を視野に入れた婦人洋装下着メーカーを実現する和江商事を設立した。
翌1950(昭和25)年に総勢わずか10人の会社だった。
日本女性のファッションが和装から洋装へと大きく転換してゆく時代。和江商事(1957年からワコール)は、それまで日本女性になじみがなかった婦人洋装下着を自らデザインし、自社工場での大量生産を実現し、下着ショウをはじめとする独自のPR活動を展開した。
欧米の先進的な下着メーカーに学び、そのすぐれたデザインや生産技術に磨きをかけ、京都で今日のワコールを築いた滋賀の先人である。

塚本幸一ヒストリー
1920年(大正9年)9月17日、仙台生まれ。
1927年(昭和2年)、仙台の片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)に入学。この学校は明治6年(1873年)創立の名門校である。細菌学者の志賀潔や西澤潤一・元東北大学総長もこの学校の出身で、文化勲章受章者を3人も輩出していることで知られる。
以後、7年間仙台にいて、一時父母の里滋賀に移る。近江八幡の宇津呂尋常高等小学校に転入。
1933年(昭和8年)、京都の翔鸞(しょうらん)尋常高等小学校を卒業、
1933年(昭和8年)13歳、滋賀県立八幡商業学校(現在の八幡商業高校)入学。当時の八幡商業は“近江商人の士官学校”と呼ばれた、全国で十指に入る商業学校であった。
幸一はここで商売の基本を学ぶことになる。京都からは遠いので、母、信の実家に下宿しながら通うことにした。後年、人に出身地を聞かれると“近江八幡”と答えるのを常とした彼の原点がここにあった。
1938年(昭和13年)18歳、八幡商業を卒業
1938年(昭和13年)3月、八幡商業を卒業後、京都に戻って父親の経営する嘉納屋商店を手伝いはじめる。呉服関係の商人として実績を上げ始めた矢先に、戦争によって夢を中断された。
1940年(昭和15年12月1日)20歳、京都伏見の連隊(歩兵第60連隊)に入隊することになり、中国戦線へ。
1941年(昭和16年)6月、中国蕪湖の連隊本部で幹部候補生教練隊に入る。
1945年(昭和20年)25歳、インパール作戦に従軍する。
1946年(昭和21年)26歳、5年半にわたる兵役で、中国からビルマ(現ミャンマー)へと苛烈な戦争を体験した。
「多くの人の犠牲のうえで、自分以外の何かの力によって“生かされている”のだ」という、悟りにも近い思いがありました。“生かされた生命”として、戦争で荒廃した日本を再建する一助となる……
その決意を胸に、25歳の青年・塚本幸一が京都の地から、新たな夢の実現に向けて歩み出した。この日、1946年6月15日を、ワコールは創業の日としている。
1949年(昭和24年) - 京都百貨見本市でブラジャーを出品。和江商事株式会社設立。代表取締役社長に就任。
1951年(昭和26年) - 京都の縫製業者、木原工場と和江商事を合併。専務に就任。
1952年(昭和27年) - 再び社長に就任。
1957年(昭和32年) - 社名をワコールへ変更。
1964年(昭和39年) - ワコール株式上場。
1983年(昭和58年) - 京都商工会議所会頭就任。
1985年(昭和60年) - 米国や中国など海外進出を拡大。
1987年(昭和62年) - ワコール社長を退任。
1990年(平成2年) - 勲二等瑞宝章受章
1997年(平成9年) - 日本会議初代会長
1998年(平成10年)- 没(78歳)

塚本本家の歴史やその背景
塚本家など近江商人が仙台で活躍したのは、仙台藩の御用商人だった近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)出身の豪商中井家(中井源左衛門)の存在が大きかった。中井新三郎が蔵元(藩御用商人筆頭)を務めるなど、維新前まで仙台藩の財政を支え続けた。
そのため仙台市の中心である芭蕉の辻には伴 伝兵衛など近江商人の出店が多く集まり、仙台藩御用菓子匠も近江出身の九重本舗 玉澤が命じられるなど、近江商人の進出が盛んな土地だった。仙台を代表する藤崎デパートも日野出身者の創業によると言われている。

塚本商店(初代塚本定右衛門を創業主とする本家)は、“太物商”と呼ばれる綿織物や麻織物を扱う商家であった。明治から大正、昭和にかけて東北六県を商圏におさめ、繊維の卸業者としてはこの地方の最大手になっていった。仙台市の商工業者の高額納税者に名を連ね、大正期の仙台の呉服太物組合の三人の幹事の一人として「塚本呉服店」の名が残っている。

塚本家歴代当主
塚本定右衛門 (初代)定悦:江戸時代後期の近江商人。浅右衛門教悦の三男。若くして行商を行い、甲州甲府、京に小間物店を出店し、屋号を『紅屋』と称した。塚本本家。
塚本定右衛門 (2代)定次:五個荘の呉服太物店を継いだ2代目塚本定右衛門は、明治22年に日本橋伊勢町を本店として塚本商社を設立し、現在のツカモトコーポレーションの基礎を築いた。

塚本幸一家の歴史
初代塚本粂次郎(幸一の祖父)
初代粂次郎は兄弟にあたる塚本定右衛門や粂右衛門は東京で活躍したが、その兄弟の一人で、1889年(明治22年)、仙台市大町(現在の青葉区大町)に分家として塚本商店の看板を掲げた。
初代粂次郎は仕事はできるが暴れん坊として知られていた。おとなしくなるようにと19歳のころ、近江八幡の西川家の「せい」と結婚した。
初代粂次郎は進取の気性を持ち、大陸に雄飛する夢を抱いて日露戦争の折、軍属を志願して朝鮮半島に渡った。ところが過労がもとで病気となり、1895年(明治28年)、32歳の若さで亡くなった。妻せいも暫くして亡くなった。

二代目粂次郎(幸一の父)
初代粂次郎が没した時、幸一の父となる二代目粂次郎はまだ5歳でしかなかった。最初は母方の近江八幡の西川家(ふとんの西川)で育てられたが、その後、初代粂次郎の兄であり、五個荘村字川並の塚本本家を継いでいた塚本仲右衛門(叔父、養父)に引き取られた。
二代目粂次郎は長じて、1907年(明治40年)、設立されたばかりの滋賀県立神崎商業学校(現在の県立八日市高校)に入学し、同校の第一期生だった。
神崎商業卒業と同時に本家塚本商店に入社。入社9年目の大正8年(1919年)に滋賀県蒲生郡宇津呂村(現在の近江八幡市)の岡田伝左衛門の三女「信」(幸一の母)と結婚する。
二代目粂次郎の妻「信」は四男五女の三女。日野高等女学校(現在の県立日野高校)では寄宿舎生活をし、良妻賢母の教育を受ける一方、テニスを楽しんだりもする活発な女性だったらしい。
信の実家である岡田家は13代続く大地主で、宇津呂村で代々村長を務める家柄。幸一が八幡商業に入学した年に同村は八幡町に編入されているが、岡田伝左衛門はのちにそこの町長を務めている。
信の男兄弟も優秀で、長男の一郎は京大経済を出て住友信託銀行に勤め、次男の正次は神戸商科大学(後の神戸大学)を出て、五個荘出身の豪商中江家の五男準五郎の養子となる。
中江家は朝鮮に本社を置く三中井百貨店を経営していたが、この百貨店は戦前、中国、朝鮮、満州に18もの店を戦前に持っていた一大百貨店だった。

二代目粂次郎は幸一と違って顔もふっくらし、恰幅が良かった。おしゃれで、西陣の着物に当時流行のフェルトの草履を履くというハイカラな格好をしていた。商売の腕も大したものだった。
しかし、二代目塚本粂次郎は商才に恵まれていたが、同時に彼の父・初代粂次郎同様、“一攫千金”を夢見るところがあり、本家の従兄弟たちと一緒に三品(さんぴん)=綿花、綿糸、綿布のこと、仙台の先物取引所に出入りし始めた。一時は大きく儲けたが、だが、そうそううまくいくものではない。
幸一の生まれた1920年(大正9年)は、第一次世界大戦後の戦後不況の時期にあたり、相場は急落し、一転して大きな損失を被った。粂次郎はその後も相場を続けていたが、ついに再び大損害を出してしまう。多額の使い込みをしていることが本家にばれるに及んで、一時、塚本商店から追い出される。
二代目粂次郎は、幼い時に両親を亡くし塚本本家に引き取られたが、もともと彼の父初代粂次郎の家には大きな財産があった。長じて後、本家の蔵の中に初代粂次郎の屋号が入った道具類を見つけた時、自分の財産を取られてしまっていたことを知る。養育費だと言ってしまえばそれまでだが、この時の恨みにも似た複雑な感情が、彼の心をすさませていた。

1927年(昭和2年)、幸一の母が結核になり療養のため別居する中、そんな折も折、粂次郎が再び店の金に手を出して相場につぎこみ、大きな損害を出してしまう。伯父であり養父でもある本家の4代目塚本仲右衛門の跡を継いでいた息子から、「仙台を出ていけ!」と言われるに及んで荷物をまとめて塚本商店を飛び出すきっかけとなったのである。

二代目粂次郎一家はひとまず信の実家である近江八幡の岡田伝左衛門邸に身を寄せることにした。一方、幸一も、近江八幡の宇津呂尋常高等小学校に転入した。
粂次郎は単身名古屋に出向き、つてを頼ってなれない文房具の商いをするなど将来の生きるべき道を模索する日々が続いた。
名古屋で文房具の商いをはじめていた粂次郎は思うようにいかず、再び慣れた呉服の卸の仕事に戻った。そうなると、東北地方に商圏のある本家の地盤が勝手知ったるエリアだ。元の商売なら彼の商才は冴えた。知人や縁戚の援助も得て、見る間に商売を拡大していった。

幸一が小学校4年生の時、粂次郎は仕入れ先の集まっている京都に仙台から家族を呼び寄せ、一家は京都北野天満宮近くの平野鳥居前町に居を構えた。粂次郎はここに「嘉納屋商店」という看板を掲げた。

やはり積もった雪

2019年01月27日 08時31分44秒 | スローライフ日記


東近江市も昨夜からの降雪で1月27日(日)朝起きれば15㎝ほどの積雪だった。
昨日は寒かったので降るかと思ったが案の定である。

予報では降雪は昼頃までなのでこれで止んで欲しい。
寒いのは嫌である。春よ早く来い!!

因みに、千葉県ではこの週末、恒例の「忠敬江戸入りフォーデーウオーク」の最中だ。滋賀と気候が違うが歩友の健勝を祈っている。

久しぶりの雪

2019年01月26日 07時50分47秒 | スローライフ日記


1月26日(土)の朝から東近江市も雪が降ってきた。
年末以来の雪で、今回は強い寒波到来。平地でも少し積もるかもしれない。
この分で行けば滋賀県北部は積もるだろう。
東近江は近江盆地の中間部だが冬は内陸性気候の傾向があり結構寒い。特に関東に20年以上いたので骨身に感じる。
春まではまだ暫くだが大雪にならぬことを願いたい。

【滋賀・近江の先人第7回】裁縫塾から滋賀学園・びわこ学院大学の創始者・森はな(東近江市)

2019年01月25日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
森はな(1911年(明治44年)-2014年(平成26年)103歳没)は、裁縫塾から滋賀学園・びわこ学院大学まで生涯をかけて地元東近江市で私学教育に尽力した明治末期生まれの近江の女性である。

  

私が小さかった頃の森はなの学校はまだ、裁縫学校のイメージで男子の私には存在感がそれほど高くなかった女子学校であった。
その頃の学校所在場所が私の母の実家に近かったせいか、母は昔から森はなと親交あったようだ。生前、互いに市内の同一病院に入院していた時も旧交を温めていた。母から立派な人だと聞いていた。母の見舞の折、時々病院でちらっと見ることがあったが不思議と森はなに直接話することがなかった。今に思えば話を伺っていれば良かったと思う。

森はなは、1911年(明治44年)、滋賀県蒲生郡市辺村(現・東近江市市辺町)の農家の次女として生まれた。
義務教育後、裁縫技術を教える京都女子高等技芸学校に進学。卒業後、大阪の阪急百貨店を2年余り勤務したあと、

1933年(昭和8年)22歳、裁縫塾「和服裁縫研究所」を旧八日市市浜野町(現東近江市)に開設したが、戦況が激化したため、実家の市辺村(現東近江市)に私塾を移転して手芸指導に力を入れ、多くの女性が学んだ。
1955年(昭和30年)44歳、八日市和洋女子専門学院(旧八日市市市辺町)開設。
1960年(昭和35年)49歳、高校の英語、国語、珠算を履修科目に加え学校名を「八日市女子学園」に改称。
1969年(昭和44年)58歳、学校法人化(八日市女子学園)が認められ、野々宮町(現東近江市野々宮町)に3階建ての校舎を建設(現・通信制司学館高校の場所)。更に教育環境を充実させる。
1976年(昭和51年)65歳、専修学校八日市高等女子専門学校開校を経て、
1984年(昭和59年)73歳、県下五番目の全日制の私立八日市女子高等学校(旧八日市市建部北町)を開校を成し遂げ、現在の滋賀学園の礎をつくった。
更に、
1990年(平成2年)78歳、滋賀文化短期大学(現びわこ学院大学短期大学部)(旧八日市市布施町)開学
その後、
2009年(平成21年)98歳、びわこ学院大学(東近江市布施町)を開学させている。

森はなは、
これまで私財を投じて学校創設に尽力する一方で、生徒たちに梅干し弁当の持参や老人ホームへの慰問、献血運動など情操教育や社会奉仕、道徳教育にも力を入れ、建学の精神「努力・忍耐・誠実」として継承されている。

また、功績を表して、
産業教育功労賞1985年(昭和60年度)、文部大臣表彰1986年(昭和61年度)、勲五等瑞宝章1999年(平成11年度)を受章。
2004年(平成16年)には八日市市名誉市民の称号を受けている。

森はな
は、2014年(平成26年)に103歳で没したが、一代で裁縫塾から大学まで生涯をかけ私学教育に捧げた現代滋賀の偉大な教育者であった。特に、戦後の教育開拓は著しく、103歳のみごとな人生だった。
告別式で小椋正清東近江市長は地域教育に全力で取り組んだ森さんの遺徳を偲び「私たちは、森はなさんの生涯を通じた尊い功績をしっかりと受け継ぎ、東近江市発展のために邁進することを誓います」と弔辞を述べたとある。 <参照:滋賀報知新聞より>

東近江市の滋賀学園高校は、今日では野球、駅伝・陸上など各種スポーツで全国大会に出場する県内の強豪校の1つになっている。また、びわこ学院大学は東近江市唯一の大学である。今後は更なる発展として大学院の開学も期待される。

沿革
1933年(昭和8年) 創始者森はな和服裁縫研究所開設
1955年(昭和30年) 八日市和洋女子専門学院開設
1976年(昭和51年) 専修学校八日市高等女子専門学校開校
1984年(昭和59年) 全日制八日市女子高等学校開校 被服科設置
1990年(平成2年) 滋賀文化短期大学開学
1999年(平成11年) 滋賀学園高等学校に校名変更(男女共学制開始)
2003年(平成15年) 滋賀学園中学校開校
2009年(平成21年) びわこ学院大学開学
         滋賀文化短期大学をびわこ学院大学短期大学部に名称変更

悪魔祓や縁起ものの獅子舞(於東近江市)

2019年01月24日 07時00分00秒 | 東近江ライフ


獅子舞(ししまい)とは、伝統芸能の一つで、祭囃子にあわせてししがしらをかぶった獅子が舞い踊るものであり、豊年を祈り、悪魔祓(あくまばらい)として舞う。
16世紀初頭、伊勢国(三重県)で飢饉や疫病除けに獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞ったのが発祥と言われているが、その後、悪魔を祓い、世を祝う縁起ものとして定着。祝い事や祭礼で獅子舞が行われるようになった。

1月23日(水)、新春恒例の「獅子舞」を何十年かぶりに近所で見て懐かしかった。
小さい頃には、毎年この地域は正月に各家に獅子舞が廻って来て、「釜土祓い」をしてくれた。
良家や祝い事があった家では獅子の舞をしていたが楽しみに見たものである。
私の長男が幼児の頃、悪魔祓をし、子供が無病息災で成長するようにとの風習に則り、獅子にがぶりとかんで貰ったことを思い出す。
獅子舞の一行は伊勢から来るが今なお、東近江でも獅子舞の風習が残っているのは嬉しいことだ。
因みに、獅子舞はこの辺りは初春に来るが一行は年中各地を廻っており地域によっては季節が異なる。






「滋賀・近江の先人」への思い

2019年01月23日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
私は、2017年に完全リタイアし、故郷の滋賀に戻ってきた。戦後生まれの団塊世代の私も少し歳を取ったせいか故郷のことや先人達のことを知りたいと思うようになっていた。
そんなこともあって、平成最後の2019年1月を手始めに「滋賀・近江の先人」を書き始めてみた。

「滋賀・近江の先人」では今も全国的に知られた著名な滋賀県人だけではなく、時代と共に忘れていたり忘れかけていた人、知る人ぞ知るキラッと輝く地元の先人を取り上げて行きたいと思う。
インターネットでちょっと調べるだけでわんさか出てくる便利な時代ではあるがその情報は玉石混交でもある。
そんな中にあって私が書くこのブログは、その人が生きた時代、生き方、功績などを自分なりに理解した内容であって純歴史書ではない。

ここで取り上げた「滋賀・近江の先人」ブログを機会に、更に先人に興味を持って頂ければ幸いである。また、埋もれた先人のご紹介も期待したい。
一人物をより理解するため時間はかかる。図書館通いの毎日である。

【滋賀・近江の先人第6回】埼玉の酒清酒「力士」を広めた・二代目小森久左衛門(滋賀県日野町)

2019年01月22日 06時41分14秒 | 滋賀・近江の先人
埼玉県騎西(きさい)町(現、加須市)にある現在の酒造業㈱釜屋の祖、小森久左衛門(初代釜屋新八)(1725-1765年)は近江日野商人である。



実は私も最近まで埼玉の加須市に近江日野をルーツとする酒店があることを知らなかった。今ではルーツの滋賀でも殆ど知らぬ釜屋こと、小森久左衛門(釜屋新八)を取り上げてみた。

初代小森久左衛門新八は、蒲生郡日野町大谷の農家の次男として生れ、寛延年間(1748~50)に持下り商いを開始し、中山道を経由して関東との間を往復した。
宝暦5年(1755)に利根川水系の中山道と日光街道と言う主要な街道で、大商圏江戸を近くの武蔵国北埼玉郡騎西町の町場に釜屋新八の屋号で出店を開き、水油・陶器・鍋釜・質屋を商ったが、新八は、明和2年(1765)に病死した。

初代新八は独身であったので兄の小森久左衛門が二代目小森久左衛門(通称釜屋新八)を継承し、販路を関東一円に拡大、一大酒造家となった。正に、初代新八は起業家、二代目は中興の祖である。
二代目新八は、明和5年に隣村の金兵衛から酒造場を5年間の契約で借り受け、酒造業を開始した。「力士」と命名された酒は売れ、事業は順調に発展した。天明6年に隠居したが、二代目久左衛門は資本と経営分離の手法で出店経営の長所を活用して事業を延ばした。1786年に家督を譲り近江の日野に戻り、享和元年(1801)に76歳で没した。

三代目以降は、酒造業を営む他、醤油醸造業も始め、困難な時期であった幕末維新期を乗り切った釜屋は埼玉県加須市に現存し、中国の歌人李白の『襄陽歌』の一節に由来した清酒「力士」を今も継承している。

近江日野商人「小森久左衛門(初代釜屋新八)」をルーツとした「釜屋」は規模こそ大きくはないが創業から270年もの歴史を経て、埼玉の地で今なお、近江の魂が脈々と生きている。

http://rikishi.co.jp/

【滋賀・近江の先人第5回】滋賀県を代表する菓子メーカー「たねや」・山本久吉(近江八幡市)

2019年01月20日 07時55分46秒 | 滋賀・近江の先人

現代滋賀県を代表する菓子メーカー「たねや」は、1872年、七代目当主 山本久吉が、京都亀末にて修業の後「種家末廣」の屋号で、旧八幡町池田町(近江八幡市)に、菓子業の初代として創業。後に、屋号を「種家」と改名した。九代目当主 山本徳次は1966年9月にたねやの三代目を継承した。創業地、本店は滋賀県近江八幡市。

    

↑たねや、クラブハリエの店舗群

元々は和菓子店であるが、洋菓子の製造・販売にも力を入れ、バームクーヘンの「クラブハリエ」が有名であるほか、イタリア菓子専門店「ソルレヴァンテ」、フランス菓子専門店「オクシタニアル」、洋菓子道具専門店「ボンヌ シャンス」を展開している。特に、バームクーヘンが過去、歌手松田聖子によりTVで取り上げられ、一躍全国的に話題となった。今や全国的にも有名ブランドになった「たねや」「クラブハリエ」ブランドは滋賀県を代表する菓子メーカーである。


私が小さい頃の「たねや」はまだ、一介の近江八幡の菓子屋だった。今日の「たねや」の隆盛は実質、昭和40年代初め、近江八幡駅前に出店後から始まったと言ってよいだろう。当時はまだ、近江八幡の和菓子屋のイメージが強かった。クラブハリエブランドのバムクーヘンの大ヒットと雰囲気のある店舗作りで一気に拡大が進んだ。


特に、現在の「ラコリーナ近江八幡」(イタリア語で「丘」という意味)(本社も入っている)は、元簡保の広大な施設だったところでバブル崩壊時期、「たねや」が頼まれて引き取った場所である。「ラコリーナ近江八幡」は「自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場」として「たねや」が営む素晴らしい自然景観の菓子の殿堂である。今や毎日人が溢れるほどの客で近江八幡市の1大名所となっているすごい施設・店舗である。

ヒストリー
「種屋」の元は江戸時代に材木商を生業とした家系で、のち、近江国蒲生郡八幡池田町(現近江八幡市)で、穀物類・根菜類の種子を商う「種屋」を創業した。


1872年(明治5年)、7代目山本久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭と最中を製造販売する和菓子店に商売替えし、屋号を「種家末廣」とした(のち「種家」に改称)。1921年(大正10年)、東京「塩瀬総本家」で修行を積み宮内省大膳寮に2年奉職していた8代目山本脩次が種家2代目を継承。物資不足の太平洋戦争直後には栗饅頭が人気を博し、たねやの基本づくりとなったと言われている。

明治末期から昭和初期にかけて、種家の近所にはアメリカ人実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが住んでいてヴォーリズの勧めで、
1951年(昭和26年)、山本脩次(種屋2代目)は洋菓子の製造を開始し、これがのちの「クラブハリエ」の基となった。
1958年(昭和33年)、種家は有限会社「たねや菓舗」に改組し、脩次が代表取締役社長に就任した。
1966年(昭和41年)に脩次の死去に伴い、長男の傳一が有限会社たねやの社長に就任。
1967年(昭和42年)、近江八幡駅前への出店。
1972年(昭和47年)、株式会社「たねや」を設立、次男の徳次が社長に就任。
1976年(昭和51年)、大津西武に百貨店初進出、1984年(昭和59年)には東京営業所(現・東京支店)を開設して日本橋三越本店と銀座三越に県外初進出を果たすなど、滋賀県を代表する菓子メーカーに成長した。


2006年(平成18年)にはグループ本部を近江八幡市から愛知川町(現・愛荘町)に移転したが2016年(平成28年)には本部を近江八幡市のラコリーナ内に再度移転した。
2011年、株式会社は徳次の長男・昌仁が代表取締役社長に就任し。徳次は代表権のある会長に就任、その後名誉会長。

たねやの歴史HP
https://taneya.jp/group/company/history_taneya.html


【滋賀・近江の先人第4回】ヤンマー創設者・山岡孫吉(長浜市)

2019年01月19日 10時08分19秒 | 滋賀・近江の先人
山岡孫吉(1888~1962)74歳没は、滋賀県出身の大正・昭和期の発明家、実業家 ヤンマーディーゼル社長。世界初の小型ディーゼルエンジンを開発した「ヤンマー」の創業者である。



私が小さい頃のヤンマーは、小型耕耘機のイメージだった。成人後になってデイーゼル発電機の会社であることを知った。
また、当時テレビの天気予報番組で「ヤンマーのマー坊」が有名だったのを覚えている。しかし、ヤンマーが滋賀出身の会社とは知らなかった。

山岡孫吉は、明治21年(1888)、滋賀県伊香郡南富永村東阿閉村(現長浜市高月町東阿閉)で、農業の山岡忠三郎と妻くにの間の10人兄弟の6番目(湖北の農家の四男坊)として生まれた。

山岡の郷里、湖北の村、滋賀県伊香郡南富永村東阿閉(あつじ)(現長浜市高月町)は、北陸本線の長浜から北へ三つ目、高月駅の西側にある村落である。
琵琶湖の東岸に横たわる近江平野の最北端部が伊吹山脈と、賎ヶ岳から湖岸沿いに南下する低い山並みとのはざ間で尽きる辺りで、淀君の母、お市の方で名高い、浅井長政の小谷城の跡も近い寒村である。

小学生のころ高月駅へ日清戦争に出征する兵士を見送りに行ったことがあったらしいが、この頃は二男、三男はみんな京都の呉服屋か染め物屋へ奉公するものと相場が決まっていた時代である。
山岡家の家計は決して楽ではなかったが明治33年(1900年)、13歳の春に尋常高等小学校を卒業した。案の定、明治36年(1903)15歳で、大阪のメリヤス問屋に奉公に出て、その後、大阪ガスの作業員を経て、明治38年(1905)17歳の時、ガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。明治45年(1912)24歳で、大阪で吸入瓦斯発動機販売業を始め、大正6年(1917年)山岡発動機工作所を設立した。
大正9年(1920年)日本初の農業用石油エンジン(3馬力)の試作品を完成、“トンボ印”と名づけたが、商標侵害が問題となり、トンボの親玉のヤンマにちなみ“ヤンマー”の商標に変更。昭和8年(1933年)には世界初の小型ディーゼルエンジン(3馬力)を完成した。戦後は新設計の船舶用エンジンなどを開発し、昭和27年(1952年)に社名をヤンマー・ディーゼル株式会社と改称、亡くなるまで社長を務めた。

山岡孫吉は、故郷への感謝の思いを持ち続け、貧しい農家に生まれて農作業を手伝って育った経験から、故郷の人々の暮らしがよくなるように、故郷の近くの町にいくつもの工場を建て、人々の働く場を作った。
また、故郷の子供達が安心して勉強できるようにと「山岡育英会」を設立し、奨学金の給与などの運営も始めこれは今も続いている。
平成25年(2013)には、ヤンマー創業100周年を記念して、長浜市三和町に「ヤンマーミュージアム」を開設している。中央研究所は米原市にあり、本社は大阪である。

ヒストリー
明治33年(1900)12歳、地元の尋常高等小学校を卒業。
明治36年(1903)15歳、大阪のメリヤス問屋に奉公に出た。
明治38年(1905)17歳、大阪瓦斯の作業員として働きはじめ、ガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。
明治45年(1912)24歳、中古ガスエンジンブローカー業を開業し、
大正6年(1917年)29歳、「山岡発動機工作所」(現ヤンマー株式会社)を創業した。
大正9年(1920年)32歳、農業用小型石油エンジンを開発し、商標を豊作の使者であるトンボの親玉であるオニヤンマにちなみ「ヤンマー」とした。
昭和37年(1962)74歳没

ヤンマーの歴史HP
https://www.yanmar.com/jp/about/corporate/history/