この季節になると毎年読むことにしているのが伊藤左千夫の「野菊の墓」。もう少し寒くなると樋口一葉の「たけくらべ」を読むことにしています。名作は何度読んでも新しい発見があります。
なんと言うのか、明治の人たちの気高さと、およそ今の少年少女には見られない「淡い」未熟さに心を洗われる思いがしています。
年齢を重ねるにつけ、時代背景など読みが深くなるので、もっと若い頃にこの意味がわかっていればと悔やむこともありますし、良くぞ理解できたと自分で自分を誉めたくなることもあります。
野菊の墓では寅さんおなじみの葛飾から、荒川を矢切の渡しに乗って民さんが嫁いで行きます。何のことは無い東京から川を一つ隔てて千葉の市川に嫁ぐわけですが、川の向こうに行くことがもう二度と戻ることができない、まるで別世界の遠い世界のように感じてしまいます。
以前、矢切の渡しに乗って対岸に行き、野菊の墓の記念碑を訪ねたことがありますが、今度はもっと違った感情を持って行けそうな気がしてきて、行きたい、行かねばならないと思っています。
川の向こうは手の届かない別世界。という意味では、川端康成の「雪国」にも通じるところがあります。
野菊の墓が川を隔てた別世界に愛する人を連れ去られてりまったのなら、雪国はトンネルを越えた別世界に愛する人と逢瀬を重ねに行く物語。
「国境(くにざかい)の長いトンネルを越えると雪国」どころか、そのトンネルの手前に住んでいてここだって雪国だと主張していますが、トンネルの向こうは日常とは別の世界だから、芸者との浮名も美しいんでしょうね。
温泉地で生まれ育っていますから、芸者との浮名で家庭が大変なことになった生々しい例などいくつも見てきていますが、およそ美しくない。
トンネルの向こうが別世界だからこそ、ひと時の恋として認められるのだろうか?
以前、猿ヶ京温泉をどうすれば活性化できるだろうか?と話し合ったとき、某旅館の若社長に「お前さんが芸者と恋仲になって、実らぬ恋の清算に二人で赤谷湖に身投げして、悲恋の湖かなんかで歌まで作って売り出せばいいと思う。」と冗談を言ったら、その若社長の奥さんにいまだに「馬鹿なことばかり言うんだから」と憎まれています。
素晴らしいアイデアだと思うんだけどなぁ。
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