のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

毒婦

2006年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

 群馬県には演劇などのモデルになって有名になった人が多く、現在は伊勢崎市に併合された佐波郡の国定忠治。前橋に併合されましたが大胡の大前田英吾郎、一本刀土俵入りの駒形茂平は前橋の駒形町出身。この人たちはみんなヤクザ者です。

 私の村にも演劇のモデルになって有名になった塩原太助という人物がおり、貧乏百姓に耐えかねて、畑に行くふりをして愛馬のアオを松の木につないで、江戸に逃げてしまったわけで、そのひどい貧乏暮らしの山村こそ輝けるわが住処でございます。

 塩原太助は炭問屋に奉公し、その働き振りが認められて婿になり炭屋を守り立てたサクセスストーリーで物語のモデルになった人ですが、篤志家でもあり貧しい人たちや教育などにも尽力した人物だそうです。

 地元にゆかりの人物と言えば高橋お伝(1850-1879)という女性がいます。ご存知ない方も多いと思いますが、日本で最後に斬首刑になった人物です。

Odentakahashi  高橋お伝は私の住む新治村(現在はみなかみ町)の下新田という地で生まれ、塩原太助の生家と同じ集落です。

 隣の月夜野町(現在はみなかみ町)の下牧というところに養女に行きます。14歳のときに婿を迎えますが2年で離婚、2度目の婿養子、波之助を迎えますが、この男がハンセン氏病にかかります。病気治療のための多額の借金、世間の仕打ちに村を捨て横浜に出て、体を売りながら夫の治療費と生活費を稼ぎます。

 ハンセン氏病について現代並みの知識があれば、こういった不幸は未然に防げたのかもしれない、無知の罪です。しかしながら、無知が後に大きな罪を生むことになるのです。

 お伝の献身むなしくやがて夫は死没。お伝は商人の囲い者になりますが、小川市太郎という男と同棲をはじめます。この男を養うためにお伝は街娼として体を売るのですが、後藤吉蔵という商人を蔵前の旅館に連れ込み殺して金品を奪い、その罪で死刑になります。

 当時日本は絞首刑を取り入れる方向にあり、斬首が良いか、絞首刑が良いかは囚人が選ぶ権利がありました。お伝は絞首刑を選択したのですが、愛人市太郎の名を呼びながら刑場(市谷監獄)に現れたお伝のあまりの迫力に、首斬り浅こと山田浅右衛門の手元が狂い、刀はお伝の後頭部を直撃。「ヒー!」と叫び声をあげたお伝はそれでもなを愛人市太郎の名を呼びます。最後は「ナムアミダブツ」と二回唱え首が地面に…1879年1月これが日本最後の斬首刑です。

 高橋お伝の物語も劇作家の仮名垣魯文(かながきろぶん)や河竹黙阿弥などが物語を盛り上げるために事実ではないことを脚色して、現実とは随分かけ離れた猟奇事件に仕立ててしまいましたが、調べるにつけ「世間」に翻弄された不憫な女性だと思えてなりません。

 下新田にある太助ドライブインに高橋お伝の写真が飾られています。それ以外でも高橋お伝の写真を見かけたことがありましたが、どんな人物か知らなかったこともあり、子供心に悲しそうな顔をした人だなと眺めた記憶があります。

 以前HPで高橋お伝のことを紹介したら、神奈川県に住む高橋お伝の親戚筋の方から電話があり、処刑されたお伝の性器が現在もまだ東大医学部に保管されていて、これこそ人権侵害に他ならないので変換してもらい埋葬したいと言うお話を伺いました。

 大島渚監督の日本最初のハードコア映画「愛のコリーダ」のモデルで知られる、ポコチン斬りの阿倍定。大正琴の定番「明治一代女」のモデルとして知られる花井お梅と並び、日本三大毒婦などと呼ばれておる高橋お伝ですが、芝居や小説(仮名垣魯文は「高橋阿伝夜叉譚」大もうけした)で語られるような淫靡な連続殺人ではなく、生活費欲しさのための売春、殺人事件です。今、お伝は南千住の回向院という寺にネズミ小僧と並んで眠っています。

Abesada  阿倍定に関してはSMの延長の猟期のようにも思えるます。、現在彼女が生存しているかは記憶しておりませんが、1905年生まれですから生きていても100歳を越えています。チン切り事件は昭和10年ごろの事件です。刑を終えて新潟の三条市に住んでいたということはうかがっています。

 写真は逮捕された時の阿部定だそうです。うなじが色っぽいですね。

”浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしや 人目しのんで 小舟を出せば すねた夜風が 邪魔をする”

 花井お梅は「明治一代女」の歌こそ知られていても、その名前は知られていません。

 時は明治20年花井お梅は15歳にして売れっ子芸者になり、ためた金で待合茶屋を開くのですが、その出納をめぐり実父と対立追い出され、芸者時代に目をかけていた箱屋(芸者のお付きで三味線などを運ぶ人)の峯吉をスパイに父親のところに送り込むのですが、実はこの男二重スパイで、お梅は締め出され空に食えぬ生活。そこに峯吉が言い寄ってきたものだから、持っていた包丁で一突き。お梅は15年の刑に服し、明治36年出所します。

 死刑となったのは高橋お伝のみですが、これら毒婦と呼ばれる女性、男たちに翻弄された悲哀があります。不憫です。

 秋田の小学生殺人事件ではありませんが、こうした事件は後を絶たない昨今、事件に「人間の情」が感じられなくなっています。この連中のほうがよほど狂っていると思います。

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