のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

劣化

2014年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 木曽の御嶽山の噴火による死者が40名を超えました。もし土曜日ではなく平日の噴火だったら?もし登山者が少ない夕方だったら?などと考えるとタイミングの妙があったのかもしれません。

 

 民主党政権の仕分けで、火山の観測予算が80パーセントカットされ、観測がままならない状態に追い込まれたことなど、もう少し問題視されてもよさそうな気もします。御嶽さんもこの仕訳で常時観測の対象から外されました。これも「もし」の話になりますが、観測が継続できていれば?もっと事前に噴火の予測できたのではなかろうか?仕分けした人たちはどういう責任を取るのだろうか?その覚悟があればこそ仕分けしたのでしょうから。

 

 何でもかんでも「人災」に結びつけるのは大人げないけれど、単なる自然災害では済まされない一面もあるのではなかろうか?

 

 話題は変わりますが、韓国で開催されているアジア大会、評判悪いみたいですね。もちろん、運営に難がありまともな大会にはならないだろうとは思っていましたが、ソウル五輪やプサンアジア大会から何年もたっていないのに、化けの皮がはがれたと言うのか劣化が著しい感があります。

 

 「お・も・て・な・しの国、日本なら?」と考えると他人事のように隣国を笑っていられないなと最近危機感を憶えています。

 

 とあるトレラン大会、ランナーとして参加した人たちからの運営を巡る指摘はよく耳にします。昨年まではしっかりできていたのになんで今年は?

 基本、私たちコース作りのおじさんたちは運営にはノータッチで、毎年大会の時には山の中で応援しているだけでした。

 

 なんだか今年はおかしいなと感じたのはゴールの広場に行ったときですが、出店するメーカーや店舗のブースも少なく、ノースフェイスなどテントを張っているだけ。うどんなどをふるまうコーナーもテントの半分が空っぽで、まだ選手がゴールしている時間に店じまいしてしまう。何だろう、このゴールの寂しさは?

 

 今回の大会は三つの町村が協力して成り立っていましたが、どうもこの関係に軋轢があったみたいで、このギクシャク感は現場作業の我々も感じていました。大会を成功させるより、自分たちの威厳を誇りたい役人がいたみたいですね。

 

 元々の山田昇杯は、登山家山田昇の偉業を伝えるために山岳連盟がはじめた登山競争でした。山田さんばかりではない、山で逝った山仲間のことなどを思い出し語りつつ営まれた大会でした。トレランなんて概念ができる前で、今のように洗練されていませんでしたが、既定の重量の荷物を背負って山を早歩きする大会でした。

 

 だんだん規模が大きくなり、それに伴って行政の協力も大きくなりましたが、自分たちが「仕切っている」と勘違いしたお山の大将的お役人さんがいたようです。複数の町村がかかわった今回の大会では、縄張り意識に始終して肝心なことをど忘れしていたようです。

 観光地に住んでいると直接観光業と関わりのない地元住民も観光資源の一つなんですね。観光地の地元住民の接し方が来客の印象にも大きく影響する。なかなか上から目線でものをいうことができなくなるもんです。

 

 人様の顔色をうかがわなくてよい産業地帯では人との接し方が違うんですよ。ある意味心のままでうらやましいと思うけれど、「我」を押し通して粗野がまかり通るんですね。その自分たちの中だけの感覚で外と接すると、そりゃぁ下品になりますわな。孟子のいうところの「自暴」と言うやつですね。

 

 さりとて、「やってられるか!」と投げ出してしまえば「自棄」になるので、こうしたわけのわからない人でも距離を置きながら接してきましたが、「自暴」の人とは中韓同様極力関わらないほうがよさそうです。

 

 「威厳」や「権威」は「劣化」と表裏一体。上を見る目線はつくづく重要だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする