のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

敬称略

2009年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 田舎なれども我が家の界隈、年下や子供に向かって「君・ちゃん」付けで呼び、決して敬称略の呼び捨てにしないのは立派で上品だと思っています。

 一昔前は「俺はあいつのことを呼び捨てにしている・」と喜んでいる世間知らずな御仁がいたものですが、こうすることで”自分のほうが少し上”と自己満足していたんでしょうね。

 私が小中学生だった頃に「敬称略」で呼ぶことを避けようと言う動きがあったようで、教職員から率先して生徒・児童に「さん・君」付けで呼ぶ動きがありましたが、今の時代になって生きて生きたように思えます。

 少なくも今の時代、親類縁者を除いてこの界隈で私のことを呼び捨てにするのは、お互い呼び捨てで語り合える同級生くらいのものです。

 呼び捨てによる「人格否定」と言うと大げさですが、偉そうに他人を呼び捨てにするような人は程度が高いとは言えない人で、悪く言えば娑婆の底辺レベルの人でしたが、要は相手の人格を見下げることで自らの人格をも下げていたにすぎません。

 中小企業などで社長が社員を呼び捨てにしているような会社に出くわすこともありますが、正直、あまり気持のよいものではありませんし、どんなにブランド物で身を飾ってもみすぼらしいだけで、こうした社長がいる企業の仕事もレベルが高いとは思えません。こんなご時世にもかかわらず、勤める従業員が長く勤務していない従業員の入れ替わりの激しい企業にはこうした経営者や幹部が多いもので、上の者が下の者の目線に立てないようでは、人材だって育ちません。「敬意」の存在しないところに「尊敬」も生まれません。あるのは「おもねり」だけです。

 呼び捨てなど些細なことですが、気をつけてみていると風邪は万病の元のような危ない予兆に見えてきます。 

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