なんやらUSAの金融がおかしくなりそうで、そんなの元々てめえらがバクチで失敗したんだから、てめえでケツをぬぐえと言いたいところですが、良くないことほどその影響が世界に飛び火することです。いろいろ先行きを杞憂(きゆう)されておられる方も多いかと思います。
今の河南省あたりに杞という国があり、そこに住む一人の男は「もし天と地が崩れてしまったら、身のよせるところがなくなってしまいどうすればいいんだろう。」と考えると心配で、飯ものどを通らず、夜も眠れませんでした。
一方、そんな友人を見ていて心配をした男がおり、出かけていって言い聞かせました。
「天なんてものは空気が積もっただけなんだ。空気のないところなんてありゃしないよ。体を曲げたり伸ばしたりだって天の中でやっているんだ。どうして天がなくなるなんて心配するんだね。」
「天が空気の積もったものならお日様や月や星が何で落ちてこないんだね。」
「お日様や月や星などは空気が積もった中で輝いている部分なので、落ちてきたって当たって怪我をさせるようなことはしないよ。」
「それなら、どうして大地は壊れないんだね?」
「大地は土が積もっただけで、それが四方に満ち満ちているいるので、土のないところなんかありゃしない。トンだってはねたって、いつも大地の上にいるじゃないか。なぜ、大地が壊れるなんて心配するんだね?」
そこで心配していた男は胸がさっぱりしてたいそう喜んだそうです。言い聞かせた男も気が晴れて安心しました。
「杞憂」(いらぬ取り越し苦労をする)(いわれなき心配をする)の語源となったエピソードです。「杞憂」は列子の「天瑞篇」に出展されています。列氏はその解釈として付け加えています。
「天地が壊れるという者も、壊れないという者も間違えている。壊れるとか壊れないとかは我々の知ることのできないものだ。さりとて、壊れるという者にもひとつの道理があり、壊れないというものにもひとつの道理がある。生は死を知らないし、死は生を知らない。将来は過去を知らないし、過去は将来を知らない。天地が壊れるとか、壊れないとかをどうして我々が心に入れて考慮できようか?」
ノストラダムスの予言ブームを思い出してしまいます。
唐の時代になり、李白は「杞の国人は無事なれや、天の傾ぐを憂うなり」とうたっています。李白は取り越し苦労など味気ないという風潮に対して、古代の人たちの実直で虚心のない人柄を温かく肯定しています。
地球がなくなるわけでもないし、難しいことなど考えないで早く寝ましょう。