のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

異国の丘

2008年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日も暮れゆく異国の丘に
友よ辛かろ切なかろ
我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る春も来る

 6月10日は異国の丘の作曲者の吉田正さんの命日で、テレビで歌番組を放送していました。

 吉田正さんが国民栄誉賞に選ばれた時「誰?」と首を傾げましたが、有楽町で逢いましょうや美しい十代などを作曲したことをなくなってから知りました。

 異国の丘の生誕地はウラジオストク郊外のアルチョムの収容所。

 収容所にいたシベリア抑留兵の増田幸治がこの歌の基になる詩を作り、それを聞いた同じ収容所にいた吉田正がセメント袋の裏に書き止め、曲をつけたといわれています。元の詩は”今日も暮れ行く”ではなく”昨日も今日も”で始まっていたようで、喉自慢で紹介されてから佐伯孝夫が詞を手直ししたとされています。

 ソ連の収容所では日本語を書く事はスパイが暗号を書いたとあらぬ罪を着せられることになりかねないので、収容所の日本兵や日本人は口伝えにこの歌を覚えて日本に持ち帰ったそうです。

 シベリアに抑留された日本人は関東軍の兵士、満州の開拓民など60万人はいるといわれていますが、凍てつく大地で帰らなかった人たちは6万人。10人に一人は生きて再び日本に帰る事はありませんでした。

 ”異国の丘”が作られた収容所はどこだろう?意外なところでその回答を得られました。2001年の初夏だったと思いますが、ウラジオストクで日本人の遺骨集集団と出くわした事があります。学生のアルバイトのような若者が来ており、外のキオスクに飲み物や食べ物を買いに行きたいと言うので案内と通訳でくっついていきました。

 そのとき、ロシア語の達者な年配の男性が一人一緒に来て、元シベリア抑留兵だったことなどを話しながら歩きました。異国の丘が作られたエピソードも驚きましたが、その収容所がアルチョムの収容所だったことにはさらに驚きでした。

 自動車で収容所からウラジオストク市内まで30分程度、歩いても数時間でしょう。日本から旅客機で1時間半です。舞鶴への復員船が出ているナホトカまで自動車で2-3時間です。

 しかし、収容所にいた人たちはそれがどこにあるのか?とんでもないシベリアの奥深い土地だと感じていたそうです。収容所の重労働と苛酷な環境の中で、どれだけ一つの歌が勇気付け支えてくれたか計り知れません。

 ハバロフスク郊外の元収容所があった場所を尋ねたことがあります。収容所の一部は農家の納屋になっていました。日本語が書かれているといわれて、納屋の柱の文字を見せてもらいました。「ニホンヘカヘリタイ」と書かれていました。

 その場所は地面に近い柱の根元で、ちょうど地面に寝転がって目にするような場所。たぶん夜寝るときにでも、拾ってきた釘かガラスのかけらのようなもので柱に刻んだのでしょう。胸をかきむしられるような思いがしました。ニホンヘカヘリタイ。

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