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のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

夏休み

2025年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 温泉で一学年後輩と顔を合わせて、「俺たちが子供の頃は8月20日で夏休みは終わったよな。」なんて話になりました。世間様より夏休みが短い分、冬の大寒の頃に「小正月」休みがあったり、6月の初旬に農繁休暇と言うのがありました。田植えよりも蚕揚げに合わせた時期の休みでした。

 当時は養蚕が農家のメインで、春、夏、秋、晩秋と4クール蚕を飼って製糸会社に納めていましたが、現在養蚕をやっているのは2-3件です。養蚕農家の規模は「何グラム」飼うかで、グラムと言うのは蚕の卵の量のこと。大きな養蚕農家では100gなんてのがいて、家をすべて蚕に明け渡し、自分たち家族は外にホロ張って生活しているようなありさまでした。

 風呂で会った後輩の家も夏は50gぐらい飼っていましたが、なんたって山の上だから桑畑で蚕の餌運んでくるのが大仕事。しかも桑の芽吹きが遅いから春の解雇は飼えない。「俺んちは乳牛もいたから家族労働じゃこれが限界だったなぁ。」次第に蚕から乳牛にシフトしていった家でしたが、寒冷地で米がとれない地区でした。「オカボ」なんて呼ばれた陸稲を食べて育ってきたわけですが、水はけがよすぎて田んぼが作れない地区もオカボを作ってました今ではリンゴ畑の果樹園地帯になってます。

 「夏休みは家の仕事の手伝いで、子供だって労力に入っているから学校行ってる方が楽だったよな。」そんな育ち方してもそこそこまともな人間に育ってきている。少なくも石破さんのような二世三星議員よりよほど娑婆に対する責任感を持っている。

 私は先にやってしまうタイプだったのですが彼は夏休みが終わりに近づくと宿題をやり始めタイプ。2歳年上のおねえさんがいたので、お小言言われながら宿題手伝ってもらったようです。読書感想文と言うのが厄介で、基本的に読書などしないもんだから感想も何もあったもんじゃない。夏休みに公民館に来る巡回映画で昔話などを題材にしたアニメで本を読んだことにして感想文書いていたんだとか。

 夏休みが終わると水泳大会があって、お盆があって、運動会になる。秋のバス旅行に紅葉の写生会。マラソン大会。2学期は長かったけれど結構行事が多くて楽しかったもんです。

 エジソンの言葉じゃないけれど、「少年は一日は短く一年は長い、老人は一日は長く一年は短い」

 一年は簡単に過ぎていくもんね。 

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巷の話

2025年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日も猛暑。幸い山の中の仕事だったので多少は涼しいかな?と入り込んだのですが、いきなり作業道下の沢の中を熊が走っている。私のクルマに驚いて沢を上流に向けて走っているのですが、その先に私が作業する現場があります。しかも、今回は一人仕事。このところ各地でクマの被害が出ているし、山の反対側の越後でも一昨日人が襲われたばかり。ヤバイッスなぁ。と、警戒しながら作業してきました。

 70代半ばのハルちゃん。お盆のお墓参りの後、家の庭で迎え火をたいていたら、近所の家の周りを人魂が飛んでいるのを見たのだとか。ハルちゃんの地区、年明けから3月までに70代が6人ぽっくり逝った地区。「死神が降りて来たんじゃねぇか?」なんて話もあり、6人目の棺には藁人形を入れて火葬したそうです。それからピタっと止まったので「俺まで連れ去られずに済んだ。」と安心しているようですが、人魂が飛んでいた家も新年早々に70代が亡くなった家。新盆で帰ってきたんだなぁと、悠長に眺めるより、「火事になっちゃ大変だ!」と慌ててその家に乗り込んで「おめぇんちの外に人魂が飛んでたぞ!消火器準備しとけ!」

 人魂が原因の火事ってあるもんだべか?

 夕方、近所の家に顔を出したら、80代のおやじさんが鉢植えの菊の手入れをしました。大菊が5鉢、小菊が5鉢。品評会に出すのかな?と聞いてみたら「そんな大それたことは考えてねぇよ。育てているのが楽しいだけだよ。」このところ毎年足を運んでいる新潟の弥彦神社の菊祭り。高齢者が育てた菊がいいんだよね。無理やり形にしないで、菊が育ちたいように育てて悪い方向に行かないように育った伸びやかさがあって、聞くに限らず人を育てるにもそれ内の年季があるもんなんだな。と感心してます。

 そんな話をしていたら、この家の台所の床を工事していた大工のカズちゃんが顔を出しました。カズちゃん、小学校中学校の一年先輩なのですが、大工の仕事以外にも勝負師の仕事を持っています。ジャンルは競輪。それもおやじさんの代からの競輪狂。政治の世界でいえば二世議員みたいなもんですね。

 弥彦と言えば越後の一之宮なんですが、カズちゃんの世界では弥彦競輪。「なんだ!おめぇも弥彦に行くようになったんか!」とご満悦で競輪の熱弁をふるってました。

 ふと、小学生の頃を思い出したのですが、自転車の世界では何とかラインと言う所属する都道府県のかかわりがあったり、競輪の学校に入った順番で義理人情の世界があったりするんだそうで、我々が自転車に乗るときは上級生のカズちゃんより前を走ってはいけないことになっていました。親からこんなことばかり叩きこまれていたから当然学業は馬鹿だったのですが、60年経っても変わんねぇなぁ。

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お馬さんに猫?

2025年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日もとんでもない猛暑でした。前橋市では39度を記録したみたいですが、こちらも34度の猛暑でした。

 お盆明けで見切り品が安くなっていないかな?と除いたスーパーで二八車家のもつ煮が3割引きになっていたので、痛風で苦しんでいるカン太君のおとっつぁんに買って、これも痛風に効く500mlの本麒麟と淡麗をつけて持たせました。最近あちこちからレバニラ炒めやタラコなどプリン体たっぷりの食品がもらえているようで「痛風になってよかった!」とおとっつぁんは喜んでいました。

 昨日、カン太君のおとっつぁんは削蹄師を呼んでお馬さんのひづめの手入れをしてもらったそうです。一頭5千円もかかったようです。お馬さんのエステもばかになりません。おとっつぁんの妹さんはお江戸の原宿界隈のエステに勤めており、ネイルサロンなんかもやっている人なので、妹に「お馬さんの爪の手入れもできねぇか?」と頼んだら「てめぇ!娑婆なめてんのか!」と𠮟られたそうです。馬の蹄鉄とつけ爪は全然違うのだとか。嫌な都政だなぁ。by座頭市。

 お盆の最中は家でゆっくり休んでいた猫のおじさんことタケさんが来ました。タケさんが木工の作業場で仕事をしているとネコが訪ねてきました。「あれ?おめぇなんでこんなところにいるんだ?」タケさんの家の猫です。ハテ?と外に駐車してあった軽トラの荷台のシートを剥ぐと空の段ボール箱にまだ目が明いていない子猫が三匹。お盆休みの最中は日陰の車庫の中に軽トラを停めておいたんだそうですが、その軽トラの荷台でネコが子供産んでたんですね。で、荷台に乗ったままこちらの加工所に来てしまった。

 こちらの作業場には茶トラの三井田さんと、白猫の武藤君と言う二匹が棲みついてますが、今日は暑いので沢筋の杉林に潜んでいるみたいです。せっかくタケさんちの猫が子供連れて軽トラの荷台に乗ってきてくれたんだから、お・も・て・な・し。三井田さんたちの猫缶を一つごちそうしました。昔はこういう家族がいたなぁ。おやじが立ち飲みの居酒屋で飲んでいて、のれんの外では寒空の下赤ちゃんおんぶして、2歳ぐらいの子供の手を引いた母親が待っている。いやぁ、なんか昭和だねぇ。

 子猫たち、暑さでぐったりしてましたが、段ボール箱を助手席に置いて軽トラのエアコンで冷ましたら元気になってきました。「ちょっくら家まで送っていかぁ。」と、タケさんは猫たち乗せて家に行きました。タケさんの家、猫が12-3匹いるんだけど、こうなってくると今更数がどうのこうのと言う状態ではないし、ご近所の猫のたまり場にもなっている。

 やっぱ、まねきねこ効果ってあるのかな?タケさんの猫が作業場に来たら、ほどなくこちらの仕事に注文が入ってきた。また休みから遠ざかってしまうけれど。

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お盆休み

2025年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日も黙々と一人仕事。出荷の準備。猛暑が戻ってきちゃいましたね。

 お昼作るのも面倒なので、コンビニに弁当買いに行ったらホンダスーパーカブの集団が駐車場を占拠してました。ナンバーを見ると東京の「区」のナンバーと八王子に調布。話を聞いてみたらこれからお江戸方面に帰るんだそうです。当然、高速道路には入れないバイクなので下道を通って帰るのですが、「暑さを考えるとうんざりしますよ。」お盆休みで山梨から長野県に入り、志賀高原から草津経由で群馬入りして、昨日は新潟まで足を延ばして苗場でキャンプして、これから帰るんだそうです。

 だいたいバイクのツーリングで来る人って年輩が多いのだけど、2-30代の人たちだったので妙にうれしく感じました。アクティブに外で飛び回る若者が少なくなったような気がしていましたが、まだまだ大丈夫かな?って、うれしかった。

 バイクと言えば、学生時代にアルバイト先のおやじさんにホンダCD90と言うビジネスバイクもらって、これが結構稼いでくれたんです。「3月までにナンバー変更してくれ。」と言われたのですが、黄色い「港区」ナンバー。住民票がこちらにある時だったので、里帰りに乗って来て、村のナンバーにしてお江戸にもどったのですが、なんだかね、このナンバーの方が目立ってましたね。「村」なんて行政単位、希少でしたから。

 夕方、風呂に行ったら横浜に住む中学の後輩に会いまして、シフトの関係で昨日からお盆休みが取れて帰省してきたんだそうです。一度定年退職して嘱託のような形で以前の職場に勤めているんだそうですが、お盆で人が少なくなった都会もまたいいみたいです。自分の職場や住まいのある街が混雑から解放されるといい街だなぁと感じたそうです。単身帰省してきて「ひたすら寝て、温泉に入って、寝る!」徹底的に骨休みすると力が入ってました。

 お盆休み。15日に一日休んだだけで全然休まらなかった。

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蒸し暑かった

2025年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

 蒸し暑い一日で、シャツは汗を含んでずっしり重くなっていました。

 今日はヨシヲさんが手伝いに来てくれて、夕方までお互いマイペースで仕事をしてきました。お盆の話になったのですが、ヨシヲさんの家のお墓は地区の大きな共同墓地にあります。隣のお墓が墓じまいして墓石も撤去して更地になっていましたが、イノシシが来て人が入れるくらい大きな穴を掘って行ったそうです。

 「俺らが子供の頃は土葬だったから、まだ骨なんか残ってたんじゃねぇっぺか?人間だったら墓あらしだいな。」かつて、と言っても江戸時代まではこの共同墓地の前が街道で、峠や街道で行き倒れた人の無縁墓なども墓地の片隅にはあります。この地区の人たちが立派だなと感心するのは、こうした行き倒れの人たちを供養する地蔵様が道路わきにあって、地区の人たちが赤い前掛けや、冬になると毛糸の帽子などを着せて地蔵様を供養なさっていることで、今月末には風車を作って地蔵様の回りに飾り付けます。でも、「獣が荒らすから」お供え物はしないみたいです。昭和の時代にはこのあたりにはイノシシなんかいなかったので荒らされることもなかったのですが、昨今は猿も出てくるし物騒です。

 15日の終戦記念日は年金が出る日だったのでパチンコ屋に参拝に行ったらタダシちゃんが来ていたそうで、「ずいぶん稼いだみてぇだぜ。ヤツは戦勝記念日じゃなかったんか?」ヨシヲさんは戦没者になっちゃったみたいです。だから昨日の夕方になって「明日仕事できるか?」と勤労に目覚めたのか。昨日は勤労開花の日でもあったのだ。

 このところニュースも見ないようにしているので、ヨシヲさんに言われて初めて知床の羅臼岳で登山者がヒグマに殺されたことを知りました。羅臼岳1661mだったかな。岩尾別から登ったことがあります。平成になってすぐの頃でしたが、ヒグマには警戒しながら登山道に入ったものの、ヒグマに襲われるなんてことは気にもならなかった。リュックに鈴を括り付け黙々と登って降りてきました。人の味を覚えたヒグマはクマよけ鈴の音を聞いたら出てくるんじゃないか?

 熊を撃つなの善意もわからなくもないが、責任の伴わない善意は悪意よりたちが悪いもんです。

 「責任」これが時代のテーマじゃなかろうか?「権利」の時代は終わったんだよ。

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日露戦争?

2025年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 終戦記念日。新盆参りをしてきました。今年は5軒ほどあったのですが、3軒は昨日の夕方に挨拶してきました。お昼前に二軒まわっちまおうと出かけたのですが、一件目で思わぬ事態が待ち受けていました。

 「蕎麦打ってけやぁ。」蕎麦を食っていけではなく打っていけとは。なんか、一家総出で蕎麦打ちしていたみたいで、せっかくなので一緒に混ざって蕎麦打ちしてきました。「お盆も終わりだし、一杯飲んでいけ!」と言われても、もう一軒まわらにゃならないので、打ちたての蕎麦をもらって次の家に顔出してきました。

 2-3日前からアマゾンプライムビデオで戦争関連の映画見ているのですが、一昨日は「永遠の0」昨日は吉永小百合と和泉雅子版の「ひめゆりの塔」。今日は第二次大戦から離れて「二百三高地」を見ました。今まで意識してなかったけれど、「二百三高地」には夏目雅子さんが出ていたんですね。私が高校に入った年にカネボウのCMで夏目雅子さんが大々的に有名になったのですが、化粧品店の店先にはおっぱい両手で隠した水着姿のカネボウのポスターが大々的に貼られていました。当時、夏目雅子さんの名前を存じてなくて。と言うのもお母さまが沼田の「かねもと」と言う和菓子屋の娘さんで、地元では「スエさんの娘」で通っていました。

 夏休みで沼田に来ていたのか?和服姿の夏目雅子さんが沼田公園の城跡で地元の写真愛好家のおじさんたちのモデルになっていて、たまたま武徳会柔道の講習会に行ってきた私が通りがかったら、「おめぇ、ちょっとこっちこい、モデルやれ。」下駄はいて学帽かぶって学ラン来て柔道着持った時代錯誤なスタイルが目に入っちゃったみたいです。「姿三四郎みてぇに下駄の鼻緒挿げ替えるポーズできねぇか?」片膝ついて、その膝の上に夏目さんが足を置き私の肩に手をかけて、履いていた草履の鼻緒をハンカチ破いて挿げ替えるしぐさをしているポーズ。それと、横を向いた私に傘を手向けるポーズ。大正ロマン風の絵になったんでしょうね。

 ほどなくして「西遊記」がテレビ放映されて、あ!あの時のモデルさんだ!と、ようやく夏目雅子さんとして意識するようになりました。「二百三高地」の映画が製作されると聞いたのは高校3年の時で、受験シーズンだったかな?現代国語の先生が日露戦争と二百三高地の攻防の事なんかを話してくれました。理系クラスだったので国語はおまけみたいなもので、余談を聞くのが楽しかったのだけど、意外とこの余談だけが記憶に残っているもんです。

 日露戦争と言えば「野菊の墓」のヒロイン民さんのお父さんはに一路戦争で戦死して家が没落して、親せきの政夫さんの家に小間使いとして住み込むことになったので、もともと民さんはそこそこ良い家の生まれだったんですよ。と、なぜか別の物語まで思い入れが飛んでしまう。

 1990年代後半になって中国もいろいろな場所に外国人が行けるようになりまして、旅順にも行きましたが、二百三高地は立ち入ることができなかった。

 村の忠霊塔を見ると私の村からも日露戦争に従軍して亡くなっている方々がおられます。幸い無事に帰還した兵士に、私の中学の理科の先生のお父さんがおり、同じく生還した宮城県の戦友を訪ねて行って、記念にもらって来たオオシラビソの樹を家の庭に植えたら、今では直径1m超える大木になっちまって「これ以上育つと万一倒れたときに近隣に被害が出るから上のほうだけ切ってくれ。」と頼まれて、10年ほど前に13トンのクレーンに吊り上げられて半分から上と、大きな枝だけを伐採しました。日露戦争がもたらした「縁」の記念樹なんだから大切に後の世代まで残したいと先生も考えていました。

 太平洋戦争の終戦記念日が意外な方向に目線が行ってしまったけど、次は9.11かな?夏目雅子さんの命日だもんね。

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雨のち猛暑

2025年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 お盆真っただ中ですが、今日はカン太君のおとっつぁんに手伝ってもらって小雨降る中仕事をしてきました。午後は晴れ間になったのですが異様に蒸し暑い汗まみれの午後となりました。

 人手不足だ、外国人労働者だとか、巷では何かと問題になっていますが、ハローワークに求人出したらキツネと猫しか来なかった我々の仕事。このことろキツネのミカチャンも猫の三井田さんと武藤君も顔を出さない。営業回りしているんでしょうが。なので猫缶詰もビタワンの缶詰も積み上げた丸太の間で保管中。

 代わりに最近暗躍しているのがウリ坊から少し成長したイノシシ少年。樹を切ったときに出るおがくずを捨てておいた山をきれいならして、中から出てくる虫を食べているようです。上手に手名付けて警戒されなくなったら食っちまおうぜとおとっつぁんと目論んでいますが、猟師さんの話ではどうやら家庭崩壊したイノシシ家族の生き残りじゃねぇかと言う話です。獣害対策で降りには行ったり駆除されたイノシシ家族があり、たまたま生き残った子供がこのあたりに来ているのだとか。先日死んでいたイノシシはもう少し大きい青年だったのですが、これは別のグループみたいです。

 獣害対策の檻仕掛けてみてはどうか?と言われたのでお盆でも開けたら役場と相談してみますが、檻に入れる餌は何がよいのだろう?一万円札か地域振興券でもいいと思うだけど、役場に進言してみよう。なんたって俺たちゃ檻の構造理解しているからエサなんざ取り放題だぜ。

 カン太君のおとっつぁんと言えば、この5月連休に廃屋と間違えられて空き巣に入られたのですが、その空き巣が捕まったんだそうです。玄関と裏口には鍵がないおとっつぁんの家ですが、わざわざ窓ガラスを割って窓から出入りした空き巣。それもバーナーであぶって鍵の周辺のガラスだけを上手に割って侵入し、出た後は窓のカギをまた施錠して行った丁寧なこだわりは紛れもなくジャパンクォリティー!と称賛していましたが、犯人はベトナム人だったそうです。電気もガスも水道もないおとっつぁんの家は何も取られていないので不法侵入と器物破損ですが、その近所の空き家では鍋や農具などの金属物が盗まれています。

 先日、おとっつぁんの隣の地区で全焼の火事があったのですが、空き家になっている家で家主が手入れに来て外で燃やしていたゴミの火が移ってしまったのだとか。前夜、この地区のお祭りがあり里帰りしてきての事件だったのだとか。そのお祭りで出たオードブルの残り物をカン太君のおとっつぁんに「取りに来い!」と、言ってくれたのが火事になった家のお隣さん。おとっつぁん、牧場の搾乳の後に立ち寄ってオードブルのお皿を手に家に帰り、一杯やっていたら火の手が上がっていたんだそうです。あと1時間遅ければ・・・オードブルは消防団の炊き出しで食われていたことでしょう。行動は迅速にを身に染みて理解できたそうです。

 カン太君のおとっつぁんに「長ネギ貰ったんだけど、料理しないから何か作ってください。」と長ネギ5本もらったので、ごま油と豆板醤で和えてネギチャーシュー作ったので、タッパーに入れ、痛風に効果がある貰い物のビールを添えて手渡しました。

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むかえ盆

2025年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 お盆ですねぇ。関係なくお仕事をしていますが、事件が起きたのは12日の朝。

 救急車が近所に来ました。誰か具合が悪くなったのかな?と思ったら、私の組の69歳のおばさんが運ばれて行きました。状況がよくわからないまま私は仕事に出てしまったのですが、実際には布団の中で死んでいたんだそうです。朝起きてこないことを心配した旦那さんが様子を見に行ったら息をしていない。慌てて救急車を呼んだものの死亡確認のための病院搬送になってしまったようです。

 69歳のおばさん。10日の朝の公民館の掃除実は元気で参加していました。雨で外回りの清掃ができなかったので、男衆が中の掃除も手伝ったので、予定より早く清掃作業は終わりました。私が外に出て空き缶などを軽トラに運び込んでいると、公民館内で清掃を終えた組の人たちのカラオケが始まっていました。このおばさんも「ブルーライトヨコハマ」を歌っていましたが、およそその二日後に死んじゃうような気配もなくやたら元気でした。私は掃除が終わったらそのまま仕事に行ってしまいましたが、残った人たちはお昼ごろまでカラオケやって楽しんでいたそうです。

 旦那さんが長野県から来た人で、お寺も向こう。なので、長野で家族葬になるのだそうです。とりあえず、組の構成員といたしましてはお悔やみと香典だけで礼服の出番はなし。

 私の組。60代が私一人になってしまいました。100歳代は昨年102歳のおばあさんが亡くなったので。組の構成員は90代、80代、70代多数と、60代の私。世間一般には高齢化集落に見えるかもしれませんが、当人たちはそんな認識持っていない。でも現実は地区の行事で動けるのが私一人と言うのが現状。

 今日ヨシヲさんが手伝いに来てくれました。「お盆の迎え火につかうべぇ。」と、丸太を割ったときに出るそぎ落としを一抱え持って帰りました。ヨシヲさんの家は豪雪地帯で急な坂道がある斜面。道路の除雪はどうやるのか?聞いてみたら、ボイラーで重油を燃やして道路を温めて雪が積もらないようにしているのだとか。これも役場の予算。「燃料代考えれば俺らに金渡して、ここから出て行ってくれ!ってのが一番経済的だと思うけど、それがままならねぇのが渡世ってもなよなぁ。義理と人情の人情で生かしてもらっているようなもんだから、世間様に文句も言えねぇんだ。」と、黙々と仕事をこなす人です。

 4-5日前にあのあたりに熊が出たと防災無線で流していたので、どのあたりか聞いてみたら、「あれ、俺んちの車庫。畑の草刈りして帰ってきたら車庫の前に座っていたんで、軽トラで突っ込んだら血相変えて逃げてった。それから役場に通報したんだ。」このところ熊の出没が人里から人さまの家の周辺に接近してきた感がある。

 世間様はお盆休み。それにかかわらず、清く・貧しく・浅ましく。宝川過激団の生活は続きます。 

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煮物

2025年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は雨なので仕事はお休みにして越後の国を襲撃してきました。 

 当初は博物館でいろいろ眺めてこようと思っていたのですが、道路を含めてすべてが混んでいる。上杉景勝や直江兼続ゆかりの雲洞庵に参拝してきましたが、ここも混雑してました。

 そして、一番の目的はイカを買ってくること。今年はやたらイカがお高くてしかも小ぶりな感じがする。まぁ、なんたって山奥に住んでいるのでイカがなものかってところですが、イカと棒ダラとカレイをゲットしてきました。

 棒ダラはタラを日干しにしたもので、冬になるとこちらでも見かけるのですが、生魚が珍しかった昭和50年頃まではお盆になると棒ダラの煮つけを食べていたことなどを思い出しました。ごちそうだったんですよ。しかも生のタラより味が濃い感じがして。お盆と言っても当時のお盆は9月の初めでしたが、朝起きると寒さを感じるようになった季節の食べ物だった気がします。

 一本もの買ってくると固くてのこぎりで切らねばならないので、カットしてある切り身を買ってきて、一晩水につけて戻します。シイタケとタケノコで煮ものにしようかな。

 何しろ海から遠い山間地でしたから海産物は希少で、幼少の頃は竹で編んだ行李を背負ったおばあさんが海産物などの干物を行商に来ていた時代でした。

 海産物と言えば、結婚式に出てくる鯛。引き出物に鯛の形をしたパックが入っていて中身は砂糖。砂糖もごちそうだったな。ちょっと名家の結婚式だと食事に鯛が乗っかったお膳が出てきて、これは食べずに家に持ち帰って家族で食べるのが流儀でしたね。その鯛をほぐして家族で食べたり、砂糖で和えて炒ってデンブを作って食べたものです。市販のデンブのように赤い食紅が入っていないので白いデンブなのですが、これを干ぴょうや胡瓜と一緒にっ見た太巻き寿司などもごちそうでした。残った骨は吸い物のダシにする。最後はダシをとった骨を砕いて鶏の餌にする。

 母は鯛の本場明石の出身なので、この異様なまでの海産物への執着にびっくりしたそうですが、こちらでは鯛を刺身で食べる海辺の文化の方が驚きだったでしょう。

 今日買ってきたイカはもち米がたっぷりあるのでイカ飯にしました。今回は会心の出来です。ミリン1、酒1,醤油1に砂糖少々。イカから良いダシが取れたので、後日、煮汁には砂糖を足して今日買って来たカレイを煮つけにして食べる予定で、いいお盆になりそうです。

 吸盤をとったイカの足をもち米に混ぜて煮込みましたが、もち米が膨らむので詰め込むのは半分程度。肉の薄いイカだと破けたりするので、肉厚のイカを選んできました。

 還暦過ぎてから煮物の腕が上がったような気がする。

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地方から

2025年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 雨の中、朝から公民館の清掃。建物裏の軒下にハチの巣がありました。裏側に行くことなどあまりないけれど、よく先週の納涼会の時に被害がなかったな。とりあえずハチスプレーで対処して、ハチが落ち切ったところで箒でたたいて巣を落としました。

 先週の納涼会で飲んだビールやカクテルの空き缶が山になっていて、それを軽トラに積んで資源ごみ置き場に運びました。祇園祭やっていた頃は軽トラで2往復するほどアルミの缶がたまったものですが、多いのか?少ないのか?このご時世にしては多いんじゃなかろうか?

 雨降りだったけれど、お盆も近いから忠霊塔の草刈りしとこうと行ってみると、今年は誰かがやってくれたようです。最近、毎年私が草刈りしていることが知られてきて、手間かけさせていると若い世代がやってくれたようです。こうして誰かが受け継いでいってくれるとありがたいです。黙って黙々とやっていれば受け継いでくれる者がいる。

 昨日ごちそうになった従妹の息子と娘が今年それぞれ結婚したので、お祝いにこいつらが生まれた年のニッカウヰスキーを持って行きました。この30年ほど毎年コレクションしているのですが、「おぢちゃん死んだらどうなるの?」と、遺品としてのウイスキーに目をつけられてしまった。もう一人の息子は「鬼滅の刃は僕がもらう!」

 昨年は梅がよく実ったので一斗(18ℓ)ほど梅酒をつけたので、船橋から来た従妹に2升持たせました。米も持たせてやりたかったのですが、この春、甥が一俵(60kg)と一石(150kg)の違いが判らず、私が食べる分まで全部持って行ってしまい買って食っているあり様。

 人も資源も地方から都会へ。地方の疲弊は日本の疲弊、なんだけど、鳥取出身の代議士わかっちゃいねえんだろうな。

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一族?

2025年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 天気が持ちこたえられるのは今日までみたいで、明日は雨になりそう。なので、外仕事してきましたが、そこそこ涼しい風が吹ていました。峠の向こうには分厚い雲が見えていたので降っているのかな?

 昨年8月に亡くなった近所の叔父。と言っても、血縁的には叔母のハズバンドですが、その新盆でいとこたちが集まりました。その子供世代含めてオタクの集まりのような夕食会になりました。何か興味を持つとのめりこむ人種の集いなので、話題は世間一般とは異なる。なかなか娑婆では扱いきれない病んだレベルの会話となるので、同類が集まると話が弾む。

 こっちの方では大学教授の従妹夫妻が北京の路地裏の生活模様の話題で盛り上がっているかと思えば、あっちの方では寅さん博物館の話で盛り上がる。寅さん50作見ているのは最低限の常識。寅さんにあこがれて柴又界隈に住んでいますが、結婚したら部屋が狭いので、今月末に荒川を渡って柏市の方に引っ越すのだとか。柴又駅前の寅さん像で写した記念写真を見せてもらいました。

 「鬼滅の刃」全巻読破は当たり前、関連書籍も読んでいないと話題にはついていけない。この家の息子は虎視眈々と私の「鬼滅の刃」グッズを狙っている。

 私の背後では二十歳になる従妹の娘が正統派アニオタとして「攻殻機動隊」で熱弁をふるっている。コミケに行ってみたいんだそうです。昔の漫画?21世紀生まれにゃそうかもしれないけれど、私たち世代にはリアルタイムだった水木しげるや手塚治虫の話が出ました。私たち世代が戦前の「のらくろ」や「タンクダン吉」を見る目線なのかな?とも違うみたいで、「火の鳥」や「ブッダ」などを読んでみたいのだそうです。手塚治虫の「ブッダ」なら全巻持っているのでおぢさんからプレゼントしよう!ありゃぁ勉強になるぜ。

 幸いだったのは「美」を探求する美魔女の従妹が来ていなかったことで、こいつが来ていたらまた話が変な方向に突き進んでいたことでしょう。

 やっぱ、うちの一族おかしいわ!としみじみ感じた夕餉でした。

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三木武夫

2025年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 石破おろしが騒がれる中、大根おろしで納豆食べました。大変おいしゅうございました。

 大根おろし、石破おろし、三木おろしなんてのもございまして、昭和50年頃だったかな。官僚か党人かなんて言われていた時代で、まだ官僚出身の政治家が元気だった時代でした。党人の田中角栄さんのロッキード事件での退陣で、同じ党人でクリーンな人物をと自民党左派の三木武夫さんが総理になったのだけど、繋ぎの予定が居座っちゃってなかなかやめない。この間結構大きな事件があったんです。

 沖縄ひめゆりの塔に参拝された天皇陛下を過激派が爆発物で襲撃したり、ソ連からミグ25でベレンコ中尉が亡命してきたり、三木武夫本人が右翼の青年に殴り飛ばされたり。クアラルンプール事件で過激派たちの要求に応じて「超法規的解釈」で監獄の中の過激派を釈放。これがのちに拉致事件や中東テロ事件につながるんです。安っぽい人道が後に大きな人権侵害をおこす。つまりは無責任なんですね。とりあえずその場は「いい人」と思われたい。宮澤喜一の教科書「侵略」問題や、河野談話んかも、とりあえずその場を体裁よく見繕っておけば根性で国難を呼び込む。現職の総理大臣が8月15日に靖国網でしたのは三木武夫からなんですよ。隣国が騒ぎ出したのは中曽根内閣あたりからだけど。

 大人たちが集まって「だめだあの総理は!」と言ってたのを思い出します。群馬県は福田赳夫が控えていましたからね。福田赳夫がダッカハイジャック事件で三木武夫に倣って要求に応じたとき、高校の先生が怒ってましたわ。同じハイジャック事件でドイツは特殊部隊が出て行って閃光弾で目くらましした一瞬に制圧した違いを授業で語ってましたな。

 さてさて、民意なんか知るもんか!と退陣しない三木総理のような人物が出たときのために作られたのが両院議員総会によるリコール制度。右翼にぶっ飛ばされたことでSP制度もできたんだっけかな。

 あの時代は選挙があれば必ずご近所で「選挙違反」と逮捕されるおじさんが出るご時世でしたが、地方の生活は政治力に左右されていましたからね。出来上がったところに移り住めばよいという都会的な発想とは異なっていた。暮らしがよくなることを呼び込んでこなければ田舎なんざぁ住めたもんじゃない時代でした。

 石破さんが言う地方創生ってどうなっちゃったんでしょうね。けっこうね、痴ほう老人なら増えているんですけどこの界隈。90になった叔母なんかえらいもんよ。施設に入っちゃったのでなかなか会うこともままならないのですが、私っと父を取り違えて「あんちゃん。戦争はいつ終わるんかねぇ?戦争が終わったらうんまいもん食えるんかねぇ。」なんて聞かれて、「8月には終わるから、心配しないで養生してろ。」と答えねばならない情けなさ。

 いつ自分がそうなるのかもわからない年齢になって、地方の時代ならぬ、痴ほうの時代最前線でさぁ。

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電子レンジ

2025年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 朝から雨でした。お休みできるかな?と思ったら、あてにしていたカン太君のおとっつぁんが熱中症気味でダウンするというので、雷様のご厚意に背いて仕事してきました。午後には雨もやんで多少蒸し暑かったけれど、気温は30度に届かない。

 夕方、電子レンジを買いに行ってきました。と言うのも、長年使っていたレンジがついに壊れてしまったので、買い替えたわけです。

 あれは昭和63年だったかな?私は名もなく貧しく美しい二度目の大学生を営んでいた頃、最初の大学の時の学友に、取引先の女性社員紹介するよ。と言われて、喜んで!と紹介してもらったんです。港区の芝にあるNECと言う会社のおねえちゃんで、ようやくパーソナルコンピューターが世に広まる時代。PC-98が広まってきた時代でした。ただ、私の周辺環境は設計屋ばかりだったので、当時CADに強かったマッキントッシュが優勢でしたね。個人的にはその翌年ごろに出ると言われていた富士通のFMタウンズが鍵盤楽器と接続して音楽が作れるという情報があり、そっちの方が興味深かった。生活に困窮する貧乏学生真っただ中だったので、個人がパソコンを持てるなんて思ってもいなかったけど。

 NECと言わば半導体メーカーでしたが、半導体競争でUSAに牛耳られる。そのきっかけはプラザ合意からで、なんて話をNECのおねえちゃんに聞かされました。んでね、これからの時代絶対必要になるとPC98売りつけられそうになったんだけど、とても手が届くようなお値段ではない。それなら一緒に暮らせば使わせてもらえるので一石二鳥!ついでに養って!と言う算段でしたが、敵はしたたかな企業OL。それならば、と、売りつけられたのがオーブン機能付き電子レンジ。NECが家電も売っていた時代だったんですね。7-8万したんだっけかな。

 世はバブルの真っただ中。高級外車が売れまくり、夜の六本木ではタクシー呼び止めるのに札束ちらつかせるご時世。時代に背くように貧乏学生営んでいた20代半ば。月々5千円くらいでローン組んで買ったオーブンレンジだったんです。赤貧洗う生活している貧乏学生に高級家電売りつけるNEC。3回ほどデートしましたが全て費用は私餅。食い逃げのあげく電子レンジ売りつけたNEC、スゲェ会社だったな。

 とは言え、よく長持ちしたもんです。37年使っていられた。日本品質ですね。あのおねえちゃん、今頃どうしているのだろう?還暦のばあさんになっているのは確実ですが、NECも大変な荒波に見舞われましたしね。半導体のかじ取りを間違えた結論が現在に至っています。

 で、1万2千円で東芝の電子レンジ買ってきました。なんか、久しぶりに見るメーカー名だった。7千円台の電子レンジもあったけど、聞いたことがない会社だったし、知っているのが東芝しかなかった。嫌な時代だなぁ。

 いつの間にか生活家電から日本の名前が消えて、今度は自動車がその道を歩むのかな?

 「貿易は最終的に国力を弱める。」と、19の頃に白洲次郎さんと稲山喜寛経団連会長に言われたとき「この爺さんたちは何をトチ狂ったことを言っているんだ?」と腹立たしくさえ思ったものですが、最近「勉強不足でございました。」と身に沁みますね。

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インフレ?

2025年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 8月6日、広島原爆の日。昭和49年のこの日は海水浴に行って、それ以降海水浴に入っていないので、ずいぶん長いことご無沙汰してます。今年も海遊びはしないんでしょうが、昨今海水浴場も人が少ないみたいですね。

 日本人が次第に外に出なくなって、何のために連休を増やそうと月曜に祝日を持ってきたのか意味が薄れてしまいましたが、こんな時代を作ったのは既存政党と財務省だぜ。

 私が高校生の頃は値上げ相次ぎインフレ時代で就職難の時代でした。高校の先生が「軽いデフレが経済的に一番好ましい」と言ってましたが、物が安くなるデフレの方がいいんじゃねぇの?って疑問に思ったもんです。

 平成の時代になってそのデフレがやって来るのですが、物価は安くなったものの所得は上がらない30年、ちょうど働き盛りの時代を過ごしました。今はデフレ傾向になって物価は上がるが所得はそのままの時代。「稼げない」世の中になっているんですね。若かりし頃は「24時間働けますか!」とリゲイン飲んで無茶苦茶な残業こなしていましたが、今そんなことしたらブラック企業ですからね。

 私の場合おてんとうさまに労務管理されているので、雨でも降らない限りは休めない野良仕事。それでも夏至を過ぎてから夕方の労務時間は次第に少なくなっていますが、秋の彼岸すぎたらこれはこれで忙しいんですよ。明るいうちにやらなきゃ!って。エアコンと蛍光灯のある仕事場とは全然違う。でも、精神的には極めて健康。

 晴耕雨読を心掛けていますが、このところの猛暑続きでさすがに体力がヤバいので、今日は天気晴朗なれど気温高しでお休みしました。暑くて昼寝もままならねぇ。扇風機の前に寝っ転がって枝豆食べながら本読んでました。予定では頼まれているお墓の草刈りなんかしようかと思っていたのですが、変に動くと養生にならないので、徹底的に休んでおこう!と、気合入れて休みました。

 セミの鳴き声がヒグラシのカナカナになったころ夕食の総菜買いにスーパーに行きました。何だろう?今日はやけに稲荷ずしが多い。なので、半額になった稲荷ずし二つと同じく半額の冷やしタヌキうどんを買ってきて、一日の食事がこれだけで賄える。働かないってことは安上がり、インフレ対応だな。

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41.8度の日

2025年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 伊勢崎市で41.8度の日本記録樹立!こちらも36度の猛暑でした。

 湿気が少なかったのでシャツがずぶぬれになるようなことはなかったのですが、汗が乾いて塩のラインが年輪のように浮き出ました。

 日陰の全くない広い場所で作業していましたが、作業で草むらから虫が湧きあがるのでそれを食べにトンボが飛び交っていました。午後3時ごろになると今度はツバメの集団が飛んできて、トンボを捕食し始めました。食物連鎖を目のあたりにしながら、巌流、佐々木小次郎となった私は長い杉の枝を手に、ツバメ返し!とばかりに飛んで来るツバメを真っ二つになるわけですが、かぁるく逃げられました。

 夕方同級生の家に顔を出したらこの秋に3歳になる孫がすっぽんぽんで飛び歩いていました。暑いので服を脱がせたら原始裸族に先祖返りしちゃったみたいで、服を着せても脱いでしまう。もはや原人に帰っちゃったみたいです。

 この同級生、時折アルバイトに行って夜の7~8時ごろに帰ってくるのですが、「日が短くなったねぇ。」あとひと月半で秋分ですから、日が次第に短くなっています。夜7時が薄暗いから暗いになってきました。が、暑さは宴もたけなわ。太陽からの熱気が届くにはしばらく時間がかかる。12月の中頃が当時で、一番寒いのは1月20日過ぎ。

 暗くなった7時ごろになると5-6人の若者が歩いている光景とすれ違うのだそうで、なんだろうな?と疑問に思っていたんだそうです。近くの工場で働くベトナム人の若者たちで、仕事が終わってからコンビニに飯を買いに行くのですが、顔つきも違うし色も黒いからなんとなく異様に見えてしまうようです。人畜無害な工員ですので、熊や幽霊と違って見ても影響ないと思います。

 影響あるかどうかははなはだ疑問ですが、時折、道路をランニングしている幽霊を見かけるそうです。足はついているようですが、流れるようにスゥ~と姿が見えなくなるみたいで、「この春急死したデジローちゃんじゃなかろうか?」

 デジローちゃんは毎朝ランニングしていた72歳のおやじさんで、春の彼岸明けごろにランニングから帰って来て「胸が苦しい」と倒れて、心筋梗塞でその日の夕方亡くなっちゃった人で、穏やかで温厚なオヤジさんでした。「この世に思い残すことでもあったんかな?」デジローちゃん結構のんびり天然ボケしてましたから、死んじゃったことを忘れてランニングしているんじゃあるめぇな。「それは十分考えられる。」まぁ。お盆には誰かが連れて行ってくれるだろうから、幽霊だからってクルマで跳ね飛ばしたりするなよ!「あんないい人の幽霊なら粗末にゃできねぇやな。」還暦過ぎたら、たとえ幽霊でも懐かしい人が出てくれるならありがたく思える。「あの世が近づいたからだろうな。」違いねぇ。

 そのデジローちゃんの家、奥さんは浜松に住む息子のところに行っちゃって、空き家になった家はガイジンさんがかりて住むとかで、今改修工事しています。お盆の時だけ一家が帰って来て新盆を済ませたら浜松に行っちゃうみたいで、それ以後はニュージーランド人が住むのだそうです。このところオーストラリアを含むオセアニア系の人が多く住む町になってリトルオセアニアになってきたわが町。原住民の我々はアボリジニなんだろうか?腰蓑つけて槍持って。裸族の孫!一歩先を読んでいるな!

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