傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

中国の尖閣領土問題の解決には後世に委ねるのが賢いですね(追記)

2012-09-28 00:40:49 | 民主党(野田政権)

前回の本ブログ「中国の尖閣領土問題の解決には後世に委ねるのが賢いですね(雑感)」で、朝日新聞の天声人語が日中友好の井戸を掘った日本人として真っ先に名前のあがる人物として高碕 達之助氏と記述したことを違和感を持つと書いたことの追記です。

高碕 達之助氏についてwikipediaによれば、
”「高碕 達之助(1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、
日本の政治家・実業家。電源開発初代総裁、通産大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。

1962年には訪中経済使節団団長として北京へ渡り、廖承志アジア・アフリカ連帯委員会主席と会談し、「日中総合貿易に関する覚書」に調印した。それまで、友好商社間での取引に終始していた日中貿易は、署名者である廖(Liào Chéngzhì)と高碕のイニシャルからLT貿易と呼ばれるこの覚書の締結によって、半官半民の大規模な交易が日中国交正常化まで行われることになった。
1964年2月24日に死去。享年79。死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた
。」”
とあります。

30日(日)のNHKスペシャル『日中外交はこうして始まった』で高碕 達之助氏をとりあげます。

番組紹介は、
”「1972年の日中国交正常化から40年。戦後の日中関係はどのようにして始まったのだろうか。
民間の経済外交で日中をつなぎ、「LT貿易」の頭文字にもなった高碕達之助の記録がこの程公開され、周恩来との秘密会談など水面下の交渉が明らかになった。

1955年、インドネシア・バンドン会議の代表だった高碕は、米中の緊張緩和が不可欠と考えアメリカでケネディらに日中修好を訴え、1960年周恩来との会談でプラント輸出を実現させる。独自の外交を模索した高碕の民間外交は、いま再評価が始まっている。

また、最近の外交文書の公開により、外務省の中にも中国課を中心としたグループが1950年代後半から、国交正常化へ動いていたことが明らかになってきた。こうした流れを受けて、大平正芳外相を中心に田中訪中が実現したのだ。
一方、中国でも1960年代の外交記録が部分的に公開され、中ソ対立の中で日本と関係回復をはかった毛沢東・周恩来のしたたかな国際戦略が浮かび上がってきた。
番組では新たに発見、公開された資料をもとに日中国交正常化に至る道のりを国際的なスケールで描き、残された課題を見つめる
。」”
とあり、高碕 達之助氏の日中友好の功労を紹介する模様です。

余談になるが、wikipediaの記述にある日中総合貿易に関する覚書以前は、友好商社間での取引に終始していた日中貿易とあるが、多分、友好商社とは西日本に本社のあるN貿易を指すのでしょうね。
当方は、中国関連のビジネスへの関与は少なかったが、中国関係に携わる人脈をたどると出版分野とN貿易の人間が多かったですね。
風聞では、学生運動に熱を上げた人間は就職先に難渋し、社会主義国家の中国とつながりの分野に職を求めたそうです。
そして、N貿易は、LT貿易の調印後、大手企業の中国進出の尖兵になったのです。

マアー、中国を「悪しき隣人」「法治主義通らぬ」を発言した枝野幸男・経産相の野田政府に、中国との戦略的互恵関係を堅持など机上の奇麗事で、尖閣問題の解決など期待できないですね。
先人の岡崎嘉平太氏なり高碕 達之助氏の労苦も水の泡に帰するでしょうね。



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