傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

東日本大震災:高台移住案、漁師ら反発相次ぐ…画一的より多様性

2011-05-23 10:45:03 | 民主党(菅政権)

読売新聞の記事『高台移住案、漁師ら反発相次ぐ…女川町公聴会』で、防災と漁業の利便性を両立しようとする被災地での移住計画の難しさを報道。
地震と津波で壊滅した奥尻島は、高台移住で復活した成功事例ですが、画一的な高台移住案では地域住民を満足できないということですね。

読売新聞の記事『高台移住案、漁師ら反発相次ぐ…女川町公聴会』を転載すると、
”「宮城県女川町は22日、東日本大震災で壊滅的被害を受けた沿岸地区住民の高台への移住について公聴会を開いた。

宮城県の被災地で初めて具体的な候補地を示したが、14地区の住民を4か所に集めるとの提案に、地元漁港が遠くなる漁師らの反発が相次ぎ、防災と漁業の利便性を両立しようとする被災地での移住計画の難しさが課題に浮かんだ。

 この日の会場の一つ、東北電力女川原発に近い同町の集会所では、14地区のうち同町南部の7地区の漁師ら約80人に、安住宣孝町長が移住の案を説明した。高台の1地区に宅地を造成し、7地区が移住する内容で、津波で壊れた地区ごとの漁港は整備するとした。

 参加者は高台への移住自体には理解を示した。しかし、この高台から約4キロ離れた塚浜地区で漁業を営む木村尚さん(57)は「海の見える所に住まないと、台風やしけの時に自分の船が確認できない」と訴え、もっと近くの高台への移住を求めた。ほかの漁業者からも「近くに住む方が仕事に力が入る」などの声が相次いだ
。」”
と報道。

安全な所に住みたいということは第一であるが、漁業を生業にしている人間にとっては、海の近くで住みたいと希望があり、防災か、生活かの二律背反の問題であり、更に、代々暮らしてきたという土着愛もあり、画一的に決められない問題ですね。
地震と津波で壊滅した奥尻島は、多くの住民は高台に移住し、漁民は海の近くに新たな盛土の高台を住居にし、津波の発生時に即非難できるように施設を作り、安心と安全と生活面で工夫しています。

週刊ポスト」(5.27)に、記事『それでも海辺の民は「津波の海」との共生を選んだ』は、三重県大紀町錦地区は、67年前、大津波で多くの死者を出した港町の「低地復興」という決断したと。

記事の概容は、1944年12月7日、M7.9の「東南海地震」が発生し、三重県大紀町錦地区は、7メートルの大津波に呑み込まれて壊滅し、死者は63名に上がった。
住民たちは津波を避けられる高台ではなく、多くの犠牲者を出した海辺を復興の場に選び、今も住み続けていると。

住民の話、
”「一時は高台に集団で移住する話がでたが、ウチの両親も祖父母も港の近くの元の場所に家を建てることなった。毎年、大津波が来るならまだしも、100年に1度の災害のために生活を変えるべきかという話になった」”
”「ウチは昔から住んでいた場所に家を建て直しました。漁師は海から離れて生活なってできません。・・・」”
らを紹介し、理由は様々だが、結果的に住民たちは高台を拒んだと。

そのかわり、住民は低地に暮らしながら津波に備える智恵を編み出し、
”「どの家庭でも、裏手に階段をつけたり、小道を通したりして、自宅から3分以内に山の高台などに作られた計20ヶ所の避難所に辿り着けるよになっています。高台まで距離のある町の中心地には、津波の際に活用する避難塔として『錦タワー』を建設しました」”
(大紀町防災安全課の話)

『錦タワー』は、高さ最高部の5階部分で海抜20メートル、対象地域人口の2倍以上となる500人が収容可能な避難スペースが設けられ、耐震構造は万全で、流された船の衝突を想定して円筒状に設計。
大紀町は、住民の防災意識が高く、毎年12月7日の東南海地震の発生日には町全体で避難訓練を実施、津波というリスクと隣りあわせの「低地での復興」という道を選んだからこその心構えと。

記事の最後に、住民の話
”「当時は小学生すら総出で潰れた家の瓦を運んだり、死体を探して掘り起こした。
終戦前後の混乱期だから、救援物質もないし、ボランテイアもいない。皆自分たちでやったこそ、元の場所にこうやって町を復興させることができたのです。
私には、国のいう防災都市計画は絵に描いた餅に見える。
東北の被災地の人たちも気の毒ですが、自分たちで考え、身体を使って行動するしかない。人や国に助けを求めるだけでは、本当の復興はできないでしょうか
」”
と記載しています。

三重県大紀町錦地区も、奥尻島も、女川町も漁師の町であり、海を生産工場とする生業であり、一概に、低地復興を良いとも悪いとも言えないが、画一的な防災第一の再興計画は考えものですね。

本ブログ「東日本大震災:津波防災教育の素直な感受性が最大の防災!」で、
”「どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる」”
の異見を紹介しました。

また、「週刊朝日」に掲載された吉岡忍氏の「津波防災の町」岩手県宮古市田老区の被災現場のルポで、「万里の長城」と呼ばれ、信頼されていた日本一の防潮堤を備えた宮古市田老区では、津波に対する絶対的な過信が被害を拡大させたが、先人が築いた大堤防(防浪提)は、津波を完璧に食い止める考えでなく、津波がきたときには、人間は家も家財も捨てて、とにかく逃げるしかないという考えで、人間のできることは、津波のエネルギーを左右に分散させ減じさせる大堤防を築き、非難しやすい町づくりだったが、新たな防潮堤が防災意識を希薄にさせたということです。

言えることは、なまじっか防災施設を築くと、住民は防災意識に希薄になることは事実であり、安心して住める環境も当然であり、一方、行政まかせでの環境整備には時間を要し、個人にとっては早期に生活をスタートしたいし、復興計画の立案は難題ですね。
世の中、「今近遠」計画のバランスといわれ、今日・今月・今期の計画と近い将来の1~3年の計画と将来の長期計画の計画のバランスが重要であり、「今今今」の計画では先が見えず、「遠遠遠」の計画では、現実離れの「夢」物語になり、復興構想会議は「遠遠遠」の方向性だすのか、当面の復旧・復興の計画の指針をだすのかどうなっているのでしょうね。


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