傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

原発事故:総力での事故沈静化に、この程度であれば原発は不安(雑感)

2011-03-28 03:59:50 | 社会

当方は、原発事故発生時点で、現場作業体制と外部電源の確保が最優先課題と思っており、総力を挙げても、深刻な事態を脱出できないのであれば、原発は不安な存在としか思えない。

当方は、原子力行政・原子力発電には無知・無関心であり、原発事故まで、東電の隠蔽体質・下請けいじめ体質、東電と政府(経済産業省:保安院)との共存共栄関係、官邸の原子力委員会が原子力推進勢力、広瀬 隆氏の地殻変動による『原子炉時限爆弾』らも、原発事故まで関心がありませんでした。
当方が原発不要という思いになったのは、天災には安全値がないという考えに、事故発生時の現場作業の不安と原発の廃炉後の残存処理で、そこまで危険性を持つ必然性が無いと思うからです。

まずは、防災には安全値がない事です。
日本は地形的に地震・火山噴火は宿命で、東日本大震災は、プレート境界における海溝型地震でマグニチュード9.0で、地震と津波による天災であるが、阪神・淡路大震災は活断層直下型のマグニチュード7.3であり、海溝型地震の東海・東南海・南海地震は明日でも発生しても何ら不思議でなく、活断層直下型地震は日本全国どこでも発生する危険性があり、防災に安全値はなく、現状でも原発の危険性があるのに、これ以上の原発は不要ですね。

広瀬 隆氏の「JBpress」への寄稿『放射能汚染列島ニッポン、本当の恐怖はこれから』(福島とともに心配な浜岡原発、今後も事故が相次ぐ危険性)で、海溝型地震による原発の危険性を警鐘していますね。

また、技術的であろうが、経済的であろうが原発の必要性に懐疑的になるのは、、現在の原子力行政です。
ブログ「社会科学者の時評」様のエントリー『大震災が原子力発電体制に与えた教訓』で、
”「東電は公益事業として営利追求をする資本制企業経営である。だから,この利害の範囲内でしかモノをみず・いわず,「原発は大丈夫」「事故なんてありえません」と強弁してきた。その意味で電力会社も,まことに〈悲しい〉経済アニマルの一種といえる。この経済アニマルの行動様式は,自社の行為すべてを律する「当然の論理」である。世の中にあっても憚るところもなく存分にまかりとおっているそれでもある。

 こうした基本性格をもった「資本の論理」にしたがい経済活動をする企業経営は,実際に事故を発生させてしまったときであっても,今回渦中に立たされ話題になっている電力会社:東電の幹部たちのように,原発事業を展開している立場において果たすべき社会的責任など,いざとなれば「想定外」の原因によって起きた原発事故だからといって,それほど深刻にとらえていない。原発の事故現場に立ち入って放射能を浴びているのは,下請け・孫請け会社の従業員たちである事実も忘れてはいけない
。」”

”「電気事業会社に潜むこうした経営姿勢の基本的な問題性を真正面批判する者〔本ブログで登場した人物は広瀬 隆・室田 武など〕は,学者・研究者・専門家であれ誰であれ,日本という国家経済・政治社会体制を無闇にけなすため〈体制破壊的な言説〉を弄ぶ「危険な人士」と決めつけられ,徹底して排除もされてきた。

 大学教授であれば学界内では冷遇され,相手にもされず爪弾きにされ,ばあいによっては体よくいまの職場(大学)から追いだされることもある。在野の研究家であれば,お座敷などひとつも声がかからない。
「資本の論理」が有し,発揮できる権力の構造と機能は広大であり,まさに伏魔殿である。ただし,原発事故が放射能を広い地域に撒きちらし,甚大な被害・損害を経済社会にもたらしているがゆえ,通常の「企業の社会的責任」問題とはまた異次元の広がりを有した責任問題がとりざたされてもいる
。」”

とあり、原発の廃炉後について、

”「原子力という「悪魔の火」はけっしてクリーンなエネルギーでもエコな発電でもない。「使用済核燃料」を原子炉のすぐそばに長期間保管しなければならない発電方法である。この使用済の核燃料がその後も日本のどこかに保管されつづける,という技術的な特性に疑問をもつのは,素人にでも気づくことである。

 さらに,原子炉の寿命が尽きてからも長期間をかけて始末しなければならない。結局「高くつく」のが原子力発電である。しかし同時に,電力会社はその高い原価に比例的に「利潤をもっと上乗せさせ」て,よりたくさん儲けられる。これが原発の利点・旨味である。
自然環境を破壊しないというのも,意図的な発言でなければ稚拙な妄説である。冷却用に使用した海水は,沿岸の自然体系を決定的に破壊している。今回の原発事故はあらためてその特徴=危険性を現実に明示している。『魔法使いの弟子』でしかない人類・人間が,けっしてなれるはずもない『魔法使いの親方』になれるかのように幻想してはならない
。」”

とあり、神でない、たかが人間が自然界を制御しようとするのは、自然の摂理への冒涜ですね。

当方が、この度の原発事故に最も疑問を持ったのは、事故現場作業軽視の体制でした。
当初から、現場作業体制と外部電源の確保が最優先課題と思っていたが、外部電源の確保が話題になったのが後日の報道で15日から準備とあり、具体的には17日から保安院、東電から外部電源との接続作業開始と発表があり、11日の被災から4日なり、6日か経過しており、現場体制が発表されたのは、18日に東電の役員クラスが現場責任者に指名と発表とあり、現場作業軽視は政官業の歪であり、この体質は不変でしょうね。

当方が原発事故の沈静化・復旧作業体制を傍観していて、果たして事故現場作業を仕切れる人間がいるのかどうか不安になりました。
想定外の事故には、非常識の対処が必要になり、事故全体を鳥瞰・俯瞰し、危険な環境で、的確に作業の優先順位をつけ、必要物を調達し、作業員の投入を仕切れるような業務に精通し人望が厚く胆力のある人間がいるのか不安になります。
不安は不安を呼び、想定外の事故は天災だけでなく、人為的にもありえるということです。

昔、日航機事故に、後日、妄想性統合失調症と診断された機長が着陸直前に「逆噴射」させ墜落させた事故があり、人間いつなんどき突発的に何をするのかわからない代物で危険な存在であることです。
また、オウム真理教が起こした化学兵器を使用した無差別テロ事件に関わった人間は学業優秀な人間であり、優秀な人間が想定外の事故を起こす潜在的な怖さですね。
誤操作は、システム的に回避できるとおもうが、意図的な操作・工作を完璧な防止は「イタチゴッコ」でしょうから。
原発の最大の危険性は、人間社会の「歪」かもしれませんね。

防災は、やはり安全値が無いと痛感しますね。


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