ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

ある日のひとりごと

2014-11-11 21:55:32 | 本のレビュー
考える力が後退しつつある。子供の頃から、あんなに読書が好きであったはずなのに、せっかく面白そうな本を見つけても、読んでいる途中で、考えがあっちいったり、こっちいったりでいつの間にか本の世界から離れていることもしばしば。
そんな訳で、本を幾冊も枕元に並べて「つんどく」そのもの。 ああ、情けなし。このていたらくや、いかに?

ここで思い当たったのであるが、子供の頃、大人たちが「本は、心の糧。心が若く柔軟なうちにいっぱい本を読めよ」といっていたのも、こういう将来を見通してのことではないか? 当時、小学校の図書館には、若い読者向けにノベライズされていたのだろうけれど、モーパッサンの「女の一生」とかジッドの「狭き門」とか、とても子供向けとは言えない名作が並んでいたもの。それをかたっぱしから借りて読んでいたのだが、時代背景や大人の世界の隠微(?)な雰囲気など、小学生にわかるはずもないのに、読めたのはそれが名作たるゆえんなのだろうが、それよりも「若いから」ではないだろうか?

若い時は、脳が海綿のようにしなやかに働いてくれて、大作を読めるのである。小説の滋味が分かる成熟世代になる頃には、名作なんて読む気力もなくなっている場合がほとんどじゃないか。トルストイの「アンナ・カレニナ」とかドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」なんていう長大な小説を読めるのは、せいぜい大学生くらいまでだと、言っていいような気がする。 今、読めなんていわれたら、気絶します・・・。
そんな訳で、離れの「ノエルの本棚」の前に立って、本の背表紙を見ながら、唸っている私。トーマス・マンの「魔の山」も、ダンテの「神曲」も二度と読む日は来ないだろうなあ。 知力もスタミナも、確実にすり減らしている身としては。

今、最も欲しいものは「時間」と同時に、本をうわばみのように飲み込む活力。魅力的な本に出会ったら、時間を忘れて、書物の世界につかりたいもの--。これは、悲願であります。

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