ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

さざなみ

2016-06-21 21:24:18 | 映画のレビュー

映画「さざなみ」を観に行く。

あのシャーロット・ランプリングが主演するから、というのでどうしても観たかったのだけれど、いざスクリーンの彼女に対面して愕然……。
「さらば愛しき女よ」(これは、ロバート・ミッチャムがフイリップ・マーロウを演じたもので、ランプリングは魅力的な悪女の役どころ)や、「愛の嵐」、ヴィスコンティの「地獄に落ちた勇者ども」での輝くような美しさを知る者には、老女=ランプリングの姿は目にしたくないかも。

だが、ヨーロッパの退廃を体現した美女も、すでに70歳。それを思うと、老いの醜さや優雅さをさらけだして見せるランプリングは素晴らしき女優なのだ。70年代当時、同じように、大監督に愛されたドミニック・サンダが今や名も聞かなくなっていることを思えば。

物語は、結婚45周年パーティーを目前にした老夫婦の住むコテージを舞台として進む。ケイト(これが、ランプリング)は、突然夫のもとへ来た郵便により、遠い昔、スイスの氷河に落ちて死んだ、夫の当時の恋人の遺体が発見されたことを知る。
その日から、亡くなって久しい、恋人の追憶にふける夫――その姿を見るケイトの心に去来する嫉妬や猜疑心。これが老女の表情に浮かんでゆくのだから、何とも迫力がある。
気品ある老婦人の面差しから、一転して夜叉のような表情に変わるケイト。 ランプリングの凄さは、こうしたところにある。
ここまで自分をかなぐり捨てる演技ができたからこそ、女優として完成の域に達したのに違いない。

夫が、パーティーの席で「妻と結婚できたことが、自分の人生で最大の幸運」とスピーチするのを聞いて、幸せそうに微笑むケイト。夫婦の危機は回避されたかに見えたが、誰も見ていない時、彼女の顔には幻滅としかいいようのない表情が浮かぶ。その阿修羅のごときクローズアップを持って、映画はエンディングを迎えるのだが、ここに横たわる愛の孤独、断絶をどういっていいのだろう?
老いた夫婦の愛が、平穏というのは、神話に過ぎないといえば、言い過ぎだろうか。

コメントを投稿