ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

密やかな結晶

2021-05-16 17:43:18 | 本のレビュー

小川洋子の「密やかな結晶」を読み直す。といっても、以前読んだのは、私がまだ大学生の頃だったと思う。その時は、ハードカバーの分厚い新刊を購入したのだが、それがいつの間にか手元から離れてしまい、上の写真は新しく買った文庫本。

でも、それも何年も前で、長いストーリーを読みきることができず、途中やめにしてしまった……なのに、最初に読んだ時の鮮烈な感動は強く、ストーリーも物語の雰囲気もくっきり覚えていたもの。

コロナで、私たちの住む地方はかなり深刻な状況に陥っている――外出も思うようにできない日々、ふと、この本のことを思い出し、門の横の小さな小屋にある本棚から取り出してきた。

ストーリーは、それこそ密やかで、どこか諦めに似たムードが全体を支配している。はじめ、これを読んだ時はディストピアという表現こそは浮かばなかったものの、北欧の静かで寂寥感に満ちた映画のシーンを思い浮かべてしまった。

どこかにあるはずの島が舞台なのだが、ここでは秘密警察という恐ろしい機関が存在し、島の人々を監視している。この島では一つずつ、何かが消滅し、人々はそのなくしたものの記憶さえも失ってしまう。時に、消滅の記憶を失わない人たちがいて、秘密警察はその人たちを連行し、抹殺する。そして、消滅したものも、すべて消去するのが彼らの仕事だ。

主人公の「わたし」は若い作家の女性なのだが、彼女も一つ一つ記憶を失ってゆく。胸に空洞がぽっかり開いてゆくのを自覚するものの、それをどうすることもできない。「わたし」の母は彫刻家だったが、記憶をなくすことができないため、秘密警察に連行され殺されてしまった――そんな彼女の心の支えは、両親が健在だった頃から家に出入りしていた、器用で心優しいおじいさん(もと、フェリーの運転手)。

このわたしとおじいさんの心の交流が、繊細な優しさに満ちていて、それがこの沈んだ物語を導く灯りとなっている。わたしは、自分の小説の最大の理解者である編集者Rが、記憶を失うことができない人間の一人であることを知る。このままでは、秘密警察の「記憶狩り」に追われてしまう。だから、おじいさんの手を借りて、自分の家の秘密の小部屋に彼をかくまうのだが、島から大事なものは、どんどん消滅してゆく――というのが、大体の筋。

ここに登場する「秘密警察」が、ナチスそっくりであることや、彼らの「記憶狩り」の有様はユダヤ人抹殺を思わせることは、この物語を読んだ人には一目瞭然のはず。おじいさんは途中で死ぬし、「わたし」も最後には自分自身を消滅させてゆくしかない。けれど、こんな希望のない話であるはずなのに、この「密やかな結晶」はとても美しく、いつまでも、この世界に身を浸していたいとさえ思わせるほどだ。

これは、小川洋子の文章の魔力のせいなのだろう。「わたし」がストーブの上で煮るシチューや、乏しい野菜で作る料理。半地下となった洗濯室や、母親の遺品の彫刻――すべての描写が、キラキラするというのではなく、真珠の光沢を思わせるほのかな輝きに満ちているのだ。

おじいさんと、彼の住んでいたフェリーが海に沈みかけているのを見ながら交わす会話さえ、何とも言えず素晴らしい。

北の物憂い海と、深い静けさに満ちた島の情景が目に浮かびそうなほど。「わたし」もおじいさんも現状に対して怒り狂うということはなく、静かな諦念を抱いているかのよう。

世界が終わる時というのは、阿鼻叫喚すさまじい光景がある訳ではなく、こうした沈んだ色に包まれているのかもしれない。

と、ここまで読んでいて、気が付いてしまった。この「密やかな結晶」を何十年ぶりかに読み返したくなったのも、この島で消滅するということに耐えながら、生きている「わたし」やおじいさんの状況が、今のコロナ禍に重なる部分があったからだと、いうことに――。

だからこそ、この作品が昨年ブッカー賞の翻訳部門にノミネートされたのだと思う。(発表されてから、三十年近くも経つというのに)


推し 燃ゆ

2021-04-07 21:08:44 | 本のレビュー

家族が買ったまま、放りだされていた「文藝春秋」三月号。そこに掲載されていた芥川賞受賞作「推し 燃ゆ」をやっと読む。

現役の女子大生の宇佐見りんさんが受賞して、大変話題になっていたのだが、いつも世間から一歩も二歩も遅れて進む私――あんまり関心はなかった。けれど、先週つれづれなるままに、ページを開いてみたらば、導かれるように一気読みしてしまったの。

女子高生のアイドル追っかけの顛末という、私とは一万キロも離れた世界に住んでいるとしか思えないヒロインだったにもかかわらず、である。(はっきり言って、嫌いな題材だわ)

何しろ、宇佐見さんの文章が素晴らしく上手い! 綺麗な文章とか文学的という範疇にあるものではないのだが、アイドルと自分という狭い世界に住んでいるヒロインの息遣いさえ感じさせるし、ヒロインの身体的な感覚(痛みとか、目がくらんだといった描写)も、こちらにひしひしと伝わってくる。

ただ読んでいて気が付いたのだが、この「あかり」という名前のヒロインは、現代を象徴する存在なのではなかろうか?  以前の芥川賞受賞作の「コンビニ人間」も「紫のスカートの女」の主人公も、あかりの系列に連なると思えてしまうのだ。「コンビニ人間」の主人公は発達障害気味で、コンビニにしか居場所がない女性だし、「紫のスカートの女」もホテルの掃除係として働きながら、まるで透明人間であるかのごとく、存在感の薄い女性が語り手となっている。

あかりもまた、家族やバイト先の人たちとは交流があるものの、彼女の関心は、子供時代から追いかけて来たアイドルのグッズを集め、彼に関するデータを収集することに向けられている。自分のことなど知りもしないアイドルの存在だけが、あかりのレーゾンデートルってわけ――そんな人生はむなしいのか、それとも幸せなのか?

こんな風に「閉じた世界」にいる人間は、案外たくさんいて、それが、これからはもっと増えるとしたら……不思議な未来社会が出現するような気がします。


荒野の古本屋

2021-02-11 15:48:51 | 本のレビュー

「荒野の古本屋」を読了。(森岡督行 著  小学館文庫 2021年)

とっても、面白かったです。今まで知らなかった世界が、ふんだんに紹介されており目からウロコ。読み終わった時、ほんとに本のページの間に、コンタクトレンズみたいな、透明なウロコが落ちてました――というのは、冗談ですが、神保町の古書店街や、新しい古本屋のあり方などが書かれており、本好きの方は、一読の価値があります。

まず、著者の森岡さんは、「ただ読書と散歩が大好きなあまり」大学卒業後も、就職せず、古本屋めぐりを楽しんでおりました。中野にある昭和初期の風情を残す「中野ハウス」に住み、読書と喫茶店めぐりをしているのですが、この「中野ハウス」がとても興味深い!

昭和初期の建築で、かの同潤会アパートを彷彿とさせる古いアパート。天井は高く、二階には昔の石炭置き場だった不可思議なスペースまであるそうな。う~ん、どんなところなんだろう? 私も古い建物が好きなので、こんな所に住んでみたいのですが、きっと原宿の同潤会アパートが消滅したように、今はもうないでしょうね。

そして、彼が紹介する古書街「神保町」の魅力的なこと! 実は神保町というのは、世界一の古本屋街で、パリにもロンドンにも、こんな場所はないのだそう。おまけに、百年以上の長い歴史がある。 寡聞にして、そんなことも知りませんでした……森岡さんは、「こんな場所があること自体、東京が素晴らしい文化都市であることを示す」と言っておられるのですが、本当にそうですね。

かく言う私は古本屋というものにほとんど縁がなく、神保町も数えるほどしか行ったことがありません。やたら、専門的な古本屋さんがいっぱい並んでいて、敷居が高く感じてしまったのですが、森岡さんの筆にかかると、ディズニーランドそこのけの楽しい場所のようで、ワクワクします。

神保町の老舗で修行した後、自分の古本屋を立ち上げた森岡さん。彼は、自分の好きな写真集をメインに展示するため、パリとプラハへ買い付けに行くのですが、この箇所がとってもスリリング。 同業の人から、プラハでは珍しい古書が安く買えると聞き、単身旅立つのですが、目的とする古本屋がある街へのバスが来ないなどハプニング続き。言葉も通じない異国で、こんなことになったら怖いな……事実、森岡さんも夜のプラハの淋しい街路を歩いていたりして、後で日本人女性に「そこは、川の洪水の時、被害があった地域で、恐ろしい事件も起きている。決して、近づいては駄目よ」と真顔で忠告され、ひやりとしたりしています。

最も印象的だったのは、カレル橋近くの古本屋へ行くところ。そこの女性が、森岡さんを店の奥のドアの向こうにある部屋に案内してくれます。そこは、選ばれた賓客しか通されない場所――ヨーロッパの店って、こんな仕掛けになっているのか。知らなかった……。

そこには、ヨーロッパじゅうから集められた古書が溢れかえり、森岡さんは戦前に発行された美しい花の写真集を見つけるのですが、「腰が抜けそうなほどの値段」なのにもかかわらず、購入。どんな美しい写真集なんだろう……私も、その花の写真集が見たくなってしまいました。戦前だけど、カラー印刷なのかな?

以前、プラハを訪れた時、アンティークショップに行ったこともフッと思い出しました。市街のどこにあったのだか、もうすっかり忘れてしまいましたが、とても広いお店で、光るように美しい家具や、装飾品があったっけ。マホガニー製の家具が、しっとりとした雰囲気を放っていたことも、記憶に残っています。

森岡さんが立ち上げたのは、写真集をメインとする古書店とギャラリーが一体となった「森岡書店」。大好きな昭和初期のムードを残す建物に、作りだされた古書空間。どんなお店なんだろう? ぜひ、訪れてみたい気持がふつふつと湧いてきました。

TVでも、神保町は古い喫茶店とおいしいカレーが楽しめる場所と紹介されていて、ますます行きたくなってしまった私。想像したこともなかったけど、本とカレーライスは友達だったのか……。


レベッカ

2020-12-24 15:57:49 | 本のレビュー

ダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」を読みました。数か月前初めて読んで以来、これでもう三度目。何度読んでも面白いのです。また近いうちに、もう一度読んでしまうかも。

私の好みのどつぼにはまった作品なのでしょうね。 これを書いた時、モーリアはまだ三十歳かそこらだったというのだから、この天才的なストーリーテーラーたるや恐るべしであります。しかし、そうでなければ、ヒロイン(多分、二十一歳かそこらだと思われる)の若さや未熟さ、そして一途さを描き出すことはできなかったかも。

「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。わたしは……」で始まる、ミステリアスにも心をそそらずにはいられない冒頭の文章。

そこから、若きヒロインと彼女の恋と、マンダレーという美しい名の館。そして、夫となったマキシムの前妻であるレベッカを巡る謎へと、見る見るうちに惹きこまれてしまう!

それにしても、不思議なのは、ヒロインの「わたし」の名前が、全編を通して決して明かされないこと。それに反して、今はもう死んでいるはずの前妻レベッカは、堂々と小説の題名とまでなっている――これは、たとえていえば、太陽と月のような彼女たちの位置関係を示しているものなのか?

華やかで残酷で、才能に満ち溢れたレベッカに反して、地味な野の花のような「わたし」の姿が浮かび上がってきそうなのですが、彼女の外見は――想像しにくいですね。金髪で、青白くて、どこかおどおどした物腰の、それでいて、ぶれない芯を持った女性というところでしょうか。でも、まるでもう一人の自分を見ているような親近感を感じさせるヒロインでもあります。

そして、何といってもこの小説で描かれた時代の優雅さ! 実は「わたし」がマキシムに出会ったのは、南フランスのモンテカルロ。そこで、「わたし」はお金持ちの(有名人大好きで、彼らの後を追いかけ回しては嫌われている中年女性)アメリカ女のコンパニオンとして雇われています。つまり、話し相手兼小間使いみたいなものですね。

こんな職業が本当にあったんだ……若くて、よるべない女性は、当時、こんな仕事についていたのでしょうか? 1920~30年代(多分)のモンテカルロの優雅で退廃的な雰囲気は、本当にため息がでてきそうです。ヨーロッパが本当に華やかだった頃は、こんな風だったんだ。

間もなく、暗い影を背負ったナイスミドルのマキシムに見いだされた「わたし」は、彼の新しい妻として、マキシムの城館のあるマンダレーに赴くのですが、ここの描写も素晴らしい! 広大な領地には、森も浜辺もアザレアの茂みもあり、絵のような佇まいを見せているのですが、こんなところへ来たら、誰もがとまどってしまうはず。まして、裕福な生まれでもなく、レディとしての教育も受けていない「わたし」に広い地所の管理と使用人の監督などできようはずがありません。 デュ・モーリアが凄いのは、こうした大旅館のおかみにもまさる責任を押しつけられた「わたし」のとまどいや世間ずれしていない様子を生き生きと描き出しているところ。 

「レベッカ」は単に、よくできたミステリ小説というだけではなく、ヒロインのビルツゥイングスロマンにもなっているのでした。

マキシムの背負う影の原因は、前の妻レベッカの死因にあった――そこで衝撃の事実がわかり、さらにそれが二転三転し、エンディングへと続いて行く訳ですが、このあたりの筆致、デュ・モーリアは本当にお見事です。個人的には、アガサ・クリスティーなどよりずっと素晴らしい作品と思うのですが、わが国ではさほど読まれていないらしい。う~ん、もったいない!

それにしても、昔の英国貴族は、こんな贅沢で優雅な生活を送っていたのですね。「わたし」がマキシムと過ごすマンダレーのお屋敷に置かれた家具調度の素晴らしさは言うまでもなく、朝食やお茶に出されるパンやスコーン、ケーキ、紅茶までがこんなにたっぷりとあるなんて……この小説を読みながら、ミステリだと言うのに、美味しそうな料理を想像して、うっとりしてしまいました。

P.S ヒロインのわたしとマキシムは、マンダレーを失った後、どんな人生を送ることになるのか? 外国のホテルをさまようように流浪の人生を送るのか。暗雲を感じさせるラストが、心に残ります。

 


今日の新聞記事から

2020-12-09 21:59:41 | 本のレビュー

 

今朝の新聞記事に、作家小川洋子さんの特集記事が載っていました。

記事によると、小川さんの少女時代の作文や写真が、吉備路文学館で今月13日から公開されるそう。昔から大ファンの作家。これは、ぜひ行ってみなければ♬

今年、英国のブッカー賞の最終候補となるなど、国際的にも注目を浴びている小川さん――ノーベル賞も射程距離のうちに入ったと書かれていましたが、すでに、私は高校三年の時、はじめて文壇にデビューした時の彼女の作品を読んで、「この人は、きっと世界的な作家になるだろうな」と予感していました(私は、けっこう直感型人間なのです)。

この記事の中で、目をひくのが、小川洋子さんが小学二年の時書かれたという「あおすじあげはのようちゅうのかんさつ」の写真。

きちんと丁寧に書かれた字も、色鉛筆の絵も素晴らしいです。こんな緻密な観察記録を、8歳かそこらで作り上げていたんだ……凄いなあ。

彼女の小説はほとんど読んでいるのですが、「ブラフマンの埋葬」はまだ読んでいません――今度、縁側の椅子にかけて、ゆっくり読みませう。

 

 


アデン、アラビア

2020-10-06 17:36:30 | 本のレビュー

ポール・二ザンの「アデン、アラビア」を読む。 河出書房新社発行。 小野正嗣 訳。

「僕は二十歳だった。それが人生で、もっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」――冒頭から、こちらの魂を揺り動かしてしまうような言葉が、投げつけられる。

誰から? もちろん、作者二ザンだ。 そもそも、この「アデン、アラビア」という長くはない(決して短くもないが)作品自体、小説などではなく、二ザン自身がその目で見、感じ、考えたことなのだから。私も、伝説化した、かの美しい言葉「僕は二十歳だった……」に魅せられてしまった一人なのだけれど、その実体は、この言葉から連想されるような、過ぎ去った青春を回顧するなどという、甘ったるいものではない。

「老いて堕落したヨーロッパにノンをつきつけ、灼熱の地アデンへ旅立った二十歳。憤怒と叛逆に彩られた、若者の永遠のバイブル」と帯にあるように、全編には、二ザンの行き場のない怒りや、社会の矛盾に対する鋭い洞察力は、これでもかとばかりに描かれているのだ。よって、長くない作品にもかかわらず、書かれていることは難解とさえ言っていいし、とっつきにくいかもしれない。

しかし、そこから放たれる吸引力の、何とすさまじいことか! 二ザンの力に満ちた文章を読むと、否応なく引っ張りこまれてしまう。これほど、惹きつけられる文章を読むと、大抵の小説なんて、現実感のないたわごとに感じられてしまうほどだ。

今から九十年も前の、1920年代のフランス、そして、はるかなアラビアはアデンが、私たち読者の目の前に、生き生きと提示され、私たちも、二ザンと同じように、船に乗り、岩山と海に囲まれた異国のアデンの地に降りたつ。といっても、「アデン、アラビア」はエキゾチックな風物を描いた旅行小説でもないし、エッセイでもないから、正直、アデンという土地のことが、はっきり伝わる訳でもない。

二ザンが描きたかったのは、何よりも、そこで行われていた白人支配階級の現地人への凄まじい搾取ぶりだったのだから。そもそも二十歳の二ザンが「怒りに満ちて」故国を離れたのは、自分が属するフランスの知識階級のプチブルぶりへの嫌悪からだった――ここで、少し詳しく説明すると、エコール・ノルマル(高等師範学校)というエリート養成機関(二ザンは、ここでサルトルと友人だった)の学生で、国からも手厚い給費が支給されるなど、将来も約束されていた二ザンだったのだが、彼は自分の属する知識人の世界がきわめて狭いことや、こうした知識人を養成するのが、ほかならぬフランスの大ブルジョワであることを自覚していた。そして、そこから抜け出したいと願っていたのだ。

自殺も考えたという二ザンが選んだのは、はるかな地への逃亡。それが、イエーメンの町アデンだが、そこで目にしたのは、本国以上に、白人ブルジョワによる搾取だったという訳。この「アデン、アラビア」は、こうした矛盾に対する怒りと、青春の懊悩に満ちた書なのだが、時代状況が現代とはひどく隔たっているのに、なぜかポール・二ザンという人を今も近しく、鮮烈に感じてしまう。

それは、二ザンの迫力に満ちた文章のたまものだろう。

のちに社会主義作家となった二ザンだが、あらゆる矛盾に対して容赦しなかった彼は、社会主義にも「Non(ノン)」とを突きつけ、結局1940年、大戦中ダンケルクで戦死している。まだ、三十五才の若さだった。何て、激しい一生だったんだろう……。

一生を通じて、自分の納得のいかないものに「ノン」を言い続けた二ザン。それは決して幸せな人生ではなかったかもしれないし、作家としても、かつての友人サルトルが1960年になって、彼の偉業をたたえる序文を復刊された本に寄せるまで、長く忘れ去られていた。

だが、「アデン、アラビア」は21世紀の今も新しい。ページを開くと、遠い昔のものであるはずの、フランスの青春が生き生きと感じられるし、風景描写はほとんどない、とさえ言っていいのに、アラビアの灼熱の風や大地だって、肌に感じ取れるほどなのだから。

これぞ、まさに永遠の青春! 二ザンの「アデン、アラビア」は今も、その灯を吹き消されるのを拒んでいるのだ。

p・s この本を読んで初めて知ったのだけれど、有名な文化人類学者のレヴィ・ストロース(「悲しき熱帯」の作者)は、ポール・二ザンの従弟なのだそう。そして、二ザンの孫も著名な社会学者になっているとか――。

 


砂漠の囚われ人マリカ

2020-09-20 05:44:33 | 本のレビュー

もう、十数年も前に買った本なのですが、強く惹きつけられるものがあり、二、三回と再読してきました。

当時、世界のびっくりするような人生を送った人達の実話を収録したTV番組が人気で、この物語の主人公マリカ・ウフキルの物語もそこに紹介されていたのです。

マリカ・フキキル――モロッコ将軍の娘であった彼女は、少女時代、モロッコ国王の養女となり、王女の遊び相手として宮殿で暮らすという特殊な体験をします。しかし、1973年、突然、父親が国王に対する軍事クーデターを起こしたため、彼女は最上流の生活から一転して、家族とサハラ砂漠の牢獄に幽閉されることとなってしまいました。酷暑の砂漠で何年も、何年も――投獄された時、まだ二十歳の美しい娘であった彼女は、地獄のような長い歳月をそこで過ごしますが、ついに1987年、わずかな隙をつき、姉妹と共に脱獄。

 この経緯が、TVで紹介されていたのですが、その時中年を過ぎていたはずのマリカが、インタビューに答えていた様子が、今もくっきり印象に残っています。今なお美しく、アラブのプリンセス然とした風格がありながら、運命に痛めつけられた様子が、彼女の表情に漂っていて、俄然、その人生が詳しく知りたくなってしまい、この本を購入したという訳。

一読して、愕然とするのは(今は、多少開かれているのかもしれませんが)、モロッコという国の神秘的にも、恐ろしい側面。王室の力は絶大で、マリカも将軍の娘というトップ階級の出でありながら、まるで人質のように王室に差し出され、家族とも離れたまま、王女の遊び相手を務めさせられます。いうなれば、黄金の鳥籠に閉じこめられた小鳥のようなもの?

このモロッコの宮殿たるや、奇々怪々で、その迷路のような部屋部屋の奥には、かつての愛妾たちが、年老いた今も、監禁同様の身で暮らし、何十年振りかで、太陽の下に出るという描写があったと記憶しています。

そして、マリカが暮らすこととなったサハラ砂漠の牢獄――そこには何があったか? 正直、本に書かれていることを見ると、ひどい虐待があったとか、恐ろしい目にあったという描写はさほどないのですが、本当はあまりにもつらくて、今なおマリカが口をつぐんでいる凄絶な事実があるのかもしれません。

私が最も印象に残っているのは、彼女が牢獄からサハラ砂漠の夜空を見ながら、涙を流すシーンです。

青春の盛りという若さで、こんな絶海の孤島にも等しい場所に閉じこめられ、むなしく年を取っていかねばならないという悲嘆。本当に、つらい体験だったろうなあ、その胸の内を思うと、何とも言えない気持ちになってしまいますね。

しかし、明けぬ夜はない。彼女はついに、機会をつかみ、家族と共に脱獄することができたのですが、モロッコからマリカの救いを求める電話を受け取り、誠意をもって答えたのが、かの、フランスの大スター、アラン・ドロンだったというのが面白い!

「モロッコに私の人生はない」マリカは作中で、幾度も、こう呟いています。自分はモロッコの大地を愛しているが、そこで生きるすべはないのだ、と。晴れて自由の身になった(実に、1991年になっていた)彼女が、かつての遊び相手であったモロッコ王女の宮殿に行った時、王女が自分の牢獄での暮らしの逐一を知っていたことに、慄然とする場面でのことです。

最後に、彼女がモロッコを離れ、パリに行き、そこでフランス人建築家と結婚した後、今はフロリダで幸福に暮らしている、というエピソードを知った時には、本当にホッとしてしまいました。

「私は、牢獄で過ごさねばならなかった後、すでに老いの入り口にいる。それは、とても不当だし、つらいことだ」――彼女の言葉が、こちらの胸に突き刺さるとしても。

 

P.S  どこかで目にしたのですが、現代モロッコのラーラ・サルマ王妃が、公の場面から、この一年以上姿を消しているとのこと。モロッコ王室というものが神秘のベールに包まれているため、誰も詳しい経緯を知る者はないというのです。何だか、怖いですね。

今なお、閉ざされた国というのは、世界中にいくつも存在するのかも。


むかし僕が死んだ家

2020-09-11 10:16:25 | 本のレビュー

  

「むかし僕が死んだ家」 東野圭吾 講談社文庫

これは、昔図書館で借りて読んだことがあります。その時も「とっても、面白いな」と思ったのですが、今回書店で文庫本を購入。

再読という訳でありますが、やっぱりgood! 名にしおうベストセラー作家、東野圭吾。それでも、やはり彼の作品が一番面白かったのは、初期の頃だと思っています。 デビュー作の「放課後」とか、あの素晴らしき傑作「白夜行」etc.

直木賞を受賞した容疑者Xの献身」などは、こうした作品に比べると、プロットこそ高度になっているけど、さほど面白くなかった記憶があります。

前置きが長くなりました。さて、この「むかし僕が死んだ家」――この意味ありげなタイトル。好奇心をそそり、頭の中にいつまでも、フレーズが残るようなタイトル。これだけでも、うまいですね。

まるで、マザーグースを思わせる薄気味悪さと、思わず手に取らずにはいられないミステリアスさを醸し出しております。

あらすじは――というと、主人公の「私」は、とある大学の物理学部の准教授となっているのですが、何年ぶりかで催された高校時代の同窓会で、かつての恋人沙也加に再会します。

彼女は今は結婚し、幼い娘もいる身。本当なら、もうかかわりあうことのない二人なのですが、突然、沙也加から私のもとに電話がかかってきます。彼女が言うには、「あたしには、幼い頃の記憶が全然ないの。その記憶を取り戻すきっかけとなってくれそうなものを見つけた。あなたに、あたしと一緒に、ある家に行ってほしい」

この家が表題の「ぼくが死んだ家」という訳なのですが、この家の設定が何とも素晴らしい。読者の興味をぐいぐい引っ張らんばかりなのです。

別荘地とは言え、山の奥深く、人もほとんど通らぬ場所に、ぽつんと立っている家。それは、沙也加の亡くなった父親が、残していった鍵によって開くのですが、なぜか、玄関は固く閉じられ、出入りできるのは、地下への扉のみ。

なぜ、こんなことがしてあるのか? そして、不思議なことに、この家には最初から水道も電気も通っていなかったらしい。埃のつもった家には、一つの家族が住んでいた痕跡があるのですが、子供部屋に残された少年の日記が、謎を解く鍵となる――というのが、おおまかな前段ですが、このあたり、東野圭吾は、本当にうまいですねえ。

他のミステリー作家だと、どうしても筆致がねっとりしていたりするものですが、ミステリーのくせに、さっぱりしているところが、東野作品の魅力なのでは?

少年の日記から、この家に起こった事件は、二十三年前にさかのぼるらしいことが判明します。少年は、なぜ死んだのか? そして、沙也加という女性は、本当は一体誰だったのか? 彼女は、本来なら何のかかわりもない、この家と何の関係があったのか?

これらの謎が、この不気味な家で一夜を明かす私たちのやりとりで、しだいに明らかにされます。この時、私と沙也加の間を流れる、かつて恋人同士だった者ならではの、スリリングさと親愛の情も、読み応えあり(しかし、かつての恋人の頼みで、遠い山中までつきあってあげるなんて、主人公の「私」も、ちょっといないくらい、いい人ですね)。

そして、不思議なことに、物語が終わった後、鮮やかに立ちのぼってくるのは、私と沙也加という二人の主要人物ではなく、「ぼく」という少年なのです。この日記だけの存在にすぎない少年。

もしかして、彼は今も、「僕が死んだ家」で眠り続けているのかも。


一人称単数

2020-08-15 22:23:58 | 本のレビュー

 

村上春樹の新刊「一人称単数」を読む。面白かった。 上の写真は、本の表紙がパソコンにうまくスキャンできなかったので、部屋の棚に置いてみたところ。

ただ読んでいて思ったのだが、さしものハルキも、老成したなあという感じがする。まあ、実年齢も七十才を越えているのだから、当然だけれど。

相変わらず文章が巧みで、現在の本邦には、これほどの書き手はいないだろう、と思わせられる超一流の筆力。(あのトルーマン・カポーティーの音楽的美しさに満ちた文章に、匹敵すると思う)

個人的に一番面白かったのは、やはり掉尾を飾る短編「一人称単数」。他の短編が、ややもすると冗長なエピソードが紛れ込み、クラシック音楽に対する蘊蓄が、少しくどい印象を与えるのに対して、これは簡潔で、しかもナイフの刃が迫るような、迫真力に満ちている。より短い言葉でいうなら、白眉である。

ここに登場するのは、裕福な(多分、功なり名なりとげた)老作家である。村上春樹自身をも、想起させるのだが……。

彼は普段はラフな服装をする人物なのだが、年に2~3回は、ちゃんとしたネクタイやスーツが着たくなって、そのきちんとした格好で外出する。そんな彼が、ふと立ち寄ったスノッブなバーで、ウォッカ・ギムレットを飲むのだが、そこで奇妙な出来事がおこるのだ。中年のなかなか魅力的な女性が、近くのカウンター席に座っていて、突然、挑発するように、明確な悪意を持って話しかけてくる。

彼女の話によると、作家の親しくしていた女性は、今では彼の事を大嫌いだと言っており、彼は三年前、水のほとりで、彼女におぞましいことをしたはずだというのだ。身に覚えのない糾弾――しかし、そこで感じる居心地の悪さは、彼が家を出る時、鏡に映してみた自分のスーツ姿に対するやましさに通じるものなのだ。何か恥につながる、後ろめたさを感じずにはいられない……思いあまった「私」は、バーの外に出るのだが、そこには異様な夢のような情景が広がっている。

宵の散歩に出る時見た明るい満月はなく、「……空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。街路樹にも見覚えはなかった。そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いてゆく男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた」

のエンディングで終わっている。ここに、村上春樹自身の老境というか、一種の寂寥感を感じ取ったのは、わたしだけなのだろうか?


太陽を灼いた青年

2020-08-06 09:22:33 | 本のレビュー

「太陽を灼いた青年」(井本元義 著)を読む。とても面白かった。

最近、こんなに面白い本はなかった。とはいっても、これは小説やエッセイとなどではなく、

詩人アルチュール・ランボーの足跡を、ランボーを深く偏愛し続ける著者が追った評伝というべきもの。

もともとランボーには、個人的に興味があった。一体、彼に興味を抱かない人間などいるだろうか。

十九世紀後半のパリの文壇に、きらめく彗星のように現れた天才少年。同じく時代を代表する詩人ヴェルレーヌとの同性愛と、銃撃と共に終わった彼との友情。「地獄の季節」「イルミナシォン」といった作品を残し、わずか二十歳にして、詩作と決別――それからのちの、ランボーの人生は、放浪に続く放浪だったことは御存じのとおり。

遠くジャワの外国人部隊に入隊したかと思えば、そこを脱走。アデンをへて、アフリカはアビシニアへ。この時、ランボーはまだ二十六才くらいだったと「思うのだけれど、彼はそのアビシニア(現代のエチオピア)のハラールという土地で、以後十一年もの間、貿易商人として生きるのだ。

白人など稀な、アフリカの闇に、身を潜めるようにして。まったき孤独のうちに。

そして、膝に腫瘍ができ、身動きもできなくなった末に、フランスへ戻る。ランボーが憎み、とうとう最後まで離れることができなかった故郷と家族の元に戻るのだが、すでに、その時、彼の片足はなかった。そして、結局マルセイユの病院で、激しい痛みと苦しみのうちに亡くなるのだが、これは1891年のことで、ランボーは37才だった。

作者の井本氏は、「ディカプリオは、ランボーのイメージに合わない」とおっしゃっておられるのだけれど、私には、二十代半ばの頃観た、映画「太陽と月にそむいて」の印象がとても鮮やかなのだ。ランボーを演じたレオナルド・ディカプリオが、手に負えない不良少年の、しかも茶目っ気のあるランボーを生き生きと演じていたのが、今も目に浮かぶ。

そして、大学時代、学校の図書館で手にとった本に、上記の「太陽を灼いた青年」の表紙にもある南国の樹影の前に佇む白い服の男を写した写真があって、「これが、アフリカでのランボーなんだ」と、強い印象を受けたことがあった。これも表紙の右側にある、美少年ランボーの写真。この少年が、どのような魂の旅の果てに、こんな修行僧のように痩せた、黒い肌の男に変わったのだろう?――と。

「ついに見つけたぞ

 それは何、永遠だ。

 太陽と溶け合った海だよ」

あまりに有名な、彼の詩。この詩にランボーの生涯が集約されていると思うのは、私だけだろうか? ほとんど「放浪病」としか思えない、少年時代からの家出や旅。ランボ―は、何かを求め、動き続けずにはいられなかったのだと思う。例え、それが自身の破滅をもたらすものだったとしても。

ドラマチックな人生を送った人々の物語で、一番興味深く、心を打つのは、彼らの晩年である。だからこそ、アフリカの荒涼とした都市ハラールに、ランボーが何を考え、長い月日を過ごしたのかは、多くの人々の想像力を刺激するのではなかろうか?

銃を売ったりする武器商人として生きながら、アフリカの夜々、ランボーは何を思っていたのだろう? 砂漠からの風が吹きすさび、ハイエナの鳴き声さえ聞こえる。夜空だけは、美しい満天の星々の下で、手製の楽器ハープを弾く。

井本氏もおっしゃっていられるが、ランボーの後半生は、彼が詩を捨て去ったとしても、それ自体が、詩そのものなのだ。

p.s この本の中で、ずっと昔から、神秘的に魅了されてきた「アデン」という土地の写真を見ることができた。イエーメンの港湾都市だと言う。これも大学時代、古本屋で見つけたポール・二ザンの「アデン・アラビア」という小説のエキゾチックな響きに魅了されて購入したものの、読まずじまいだった。アラビアの地にある、ナツメヤシと豊かな港があるに違いない街ーーこの名前がかくも魅惑的なのは、エデンというもう一つの素晴らしい土地の名とよく似ているからかもしれない。

この本は、いつかなくしてしまっのだが、ぜひきちんと読みたいもの📚