大阪府柏原市片山町、玉手山丘陵の最北端にあります。
「小松山古墳」とも呼ばれています。
街中から離れた、かなり急な坂道を登りつめた所にある 市立体育館 のすぐ近くです。
全長110m、 後円部径60m・高さ10m、 前方部幅20m・高さ2m 前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部がややバチ形に開いています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・楕円形埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
墳丘には葺き石が施されていたようです。
前方部では粘土槨が、後円部では竪穴式石室が見つかっています。
墳頂部には板石積みの方形壇が築かれています。
古墳時代前期・4世紀前半ころの築造と推定されています。
この玉手山丘陵には、古墳時代前期の前方後円墳が集中して築かれています。
玉手山丘陵西側を流れる「石川」の対岸には、あの中期大型古墳群「古市古墳群」があります。
またこの付近は小松山と呼ばれていて、大坂夏の陣の戦場となった所でもあります。
慶長20年(1615年)5月6日、豊臣方の先陣・後藤又兵衛の軍二千八百と、徳川方の伊達政宗や水野勝成、本多忠政、松平忠明らの軍二万が小松山の争奪を巡って激しく戦った所です。
玉手山1号墳の後円部には、徳川軍の先鋒として小松山に攻め上り討ち死にした・奥田三郎右衛門忠次と5名の家臣の墓碑が残されています。
(後円部裾から前方部をみています)
(前 方 部)