宮崎県児湯郡高鍋町持田計塚の台地西端にあります。
別名 計塚(はかりづか)古墳とも呼ばれています。
全長120m、 後円部径65m・高さ10.5m、 前方部幅36m・高さ5.5m の柄鏡式前方後円墳です。古式古墳として知られ、宮崎県内で5番目の大きさです。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されていました。
埴輪の出土は確認されておらず、埴輪の配列はなかったものと思われます。
埋葬施設は竪穴式石室で、割竹形か組合せ式の木棺が収められていたそうです。
ただ竪穴式石室でも、畿内を中心に見られる天井石で囲む大型石室ではなく、前後両側を石積みして固めた簡単な構造です。
出土品として鏡2面・鉄鏃・硬玉製勾玉などが知られています。
2面の鏡の一つは、盤龍鏡です。面の径12.4cm、縁の厚さ8mmで周囲の銘帯には
「青蓋作竟四夷服 多賀国家人民息 胡子殄 滅天下復大吉乎」 との銘文が記されているそうです。「王は鏡を作って、四夷(東夷・西戒・南蛮・北狄)を服従させ、住み良い国とさせ人民は安息に暮らした。北方の胡族も討ち滅ぼしたので天下はまた大いに善くなった。」との意かと・・・
もう1面の鏡は、獣文縁獣帯鏡です。面の径18cm、縁の厚さ4mmの鉛白銅色の鏡です。
この2面の鏡は現在宮崎県総合博物館が所蔵しています。
持田古墳群を構成しています。
4世紀後半の築造と推定されています。
昭和36年2月25日、国の史跡に指定されています。
「持田古墳群」
宮崎県のほぼ中央を流れる、小丸川下流左岸台地上にあります。
前方後円墳10基を含む85基の古墳があります。
昭和4~5年ごろ、ほとんどすべての古墳が盗掘されています。
そのため出土品(特に鏡などは)ほとんど県外に散逸したと言われています。
昭和36年2月25日、この古墳群は一括して国の史跡に指定されています。
(余談)
持田古墳群のある高鍋町は、旧秋月藩2万7千石の城下町です。
米沢藩・上杉15万石の深刻な財政危機を、大胆な行政改革で乗り越えた「上杉鷹山」はこの秋月藩の生まれです。宝暦10年、上杉家の養子になりました。
別名 計塚(はかりづか)古墳とも呼ばれています。
全長120m、 後円部径65m・高さ10.5m、 前方部幅36m・高さ5.5m の柄鏡式前方後円墳です。古式古墳として知られ、宮崎県内で5番目の大きさです。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されていました。
埴輪の出土は確認されておらず、埴輪の配列はなかったものと思われます。
埋葬施設は竪穴式石室で、割竹形か組合せ式の木棺が収められていたそうです。
ただ竪穴式石室でも、畿内を中心に見られる天井石で囲む大型石室ではなく、前後両側を石積みして固めた簡単な構造です。
出土品として鏡2面・鉄鏃・硬玉製勾玉などが知られています。
2面の鏡の一つは、盤龍鏡です。面の径12.4cm、縁の厚さ8mmで周囲の銘帯には
「青蓋作竟四夷服 多賀国家人民息 胡子殄 滅天下復大吉乎」 との銘文が記されているそうです。「王は鏡を作って、四夷(東夷・西戒・南蛮・北狄)を服従させ、住み良い国とさせ人民は安息に暮らした。北方の胡族も討ち滅ぼしたので天下はまた大いに善くなった。」との意かと・・・
もう1面の鏡は、獣文縁獣帯鏡です。面の径18cm、縁の厚さ4mmの鉛白銅色の鏡です。
この2面の鏡は現在宮崎県総合博物館が所蔵しています。
持田古墳群を構成しています。
4世紀後半の築造と推定されています。
昭和36年2月25日、国の史跡に指定されています。
「持田古墳群」
宮崎県のほぼ中央を流れる、小丸川下流左岸台地上にあります。
前方後円墳10基を含む85基の古墳があります。
昭和4~5年ごろ、ほとんどすべての古墳が盗掘されています。
そのため出土品(特に鏡などは)ほとんど県外に散逸したと言われています。
昭和36年2月25日、この古墳群は一括して国の史跡に指定されています。
(余談)
持田古墳群のある高鍋町は、旧秋月藩2万7千石の城下町です。
米沢藩・上杉15万石の深刻な財政危機を、大胆な行政改革で乗り越えた「上杉鷹山」はこの秋月藩の生まれです。宝暦10年、上杉家の養子になりました。