古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

滋賀県米原市・山津照神社古墳

2020-04-04 05:22:28 | Weblog
滋賀県米原市近江町能登瀬の式内社・山津照神社境内にあります。




               (左手が古墳です)

通称「岡山」と呼ばれている、横山丘陵から天野川(息長川)右岸に迫る丘陵尾根上です。
「岡山古墳」とか「能登瀬古墳」と呼ばれることもあります。



全長63m、 後円部径27m・高さ6.05m、 前方部先端幅35m・高さ5.8m  の前方後円墳です。



西方向を向く前方部はバチ形に開いています。
前方部端と後円部端が削平されています。
くびれ部には「若八幡宮」の小さな祠が祀られています。



(前方部)










(くびれ部)




(後円部)








墳丘に葺石は施されていません。
平成6年の調査で墳丘裾部に円筒埴輪や朝顔形埴輪・石見型埴輪などの埴輪列が見つかっています。



明治15年(1882年)、山津照神社の社殿の移転造営に伴う境内拡張工事が行われました。
その際、この古墳の後円部から横穴式石室が見つかりました。
家形石棺が収められていたようです。
石室内から多くの遺物が出土していて、そのほとんどが滋賀県の有形文化財に指定されています。
倭製銅鏡3面(旋回式獣象鏡・乳脚文鏡【五鈴鏡】・内向花文鏡)や金銅製冠、武器(水晶製三輪玉・直刀・刀子)、装身具(勾玉・管玉・切子玉)、馬具(雲珠破片・辻金具破片・杏葉・轡・鐙・鞍橋覆輪【くらぼねふくりん】破片)、須恵器(壺・器台・有蓋壺・台付壺・堤瓶・杯身・杯蓋)、土師器の高坏、赤色顔料 などがあります。
石室は全長7.5m、羨道の長さが3m・幅0.9m・高さ1.5m、 3枚の天井石で覆われていた玄室の長さは4.5m・幅2.7m・高さ2.1m あるそうです。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和44年9月12日、滋賀県の史跡に指定されています。
神功皇后の父、「息長宿禰王」の墓と伝えられています。


茨城県石岡市・府中愛宕山古墳

2020-03-28 05:27:09 | Weblog
茨城県石岡市北根本694番地外、標高約20mの台地上にあります。
前述の「舟塚山古墳」の北東約300mのところです。
「舟塚山古墳群6号墳」と呼ばれることもあります。



全長96.6m、 後円部径57m・高さ8.5m、 前方部先端幅57m・高さ7.5m  の前方後円墳です。
前方部を南側に向けています。
前方部は大きく削られていて、後円部もかなり変形しています。
墳形が大阪府羽曳野市にある「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)→全国2番目の大きさ」に類似しています。

(後円部)














(前方部)









                (前方部先端)


墳丘の周りには周濠(後円部側で幅16m、前方部側で24m)があります。
円筒埴輪や動物などの形象埴輪が出土しています。
1979年(昭和54年)7月25日から8月4日にかけて、周濠の確認調査が行われています。
明治30年、東京帝国大学の坪井正五郎先生による発掘調査が行われています。
無文素焼壺7個が出土したと伝えられていますが、その存在を含め詳細は不明です。
埋葬施設がどのようなものかはっきりしていません。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

舟山古墳群を構成する1基で、群中2番目の大きさです。

昭和46年12月2日、茨城県の史跡に指定されています。
昭和45年には墳丘すべてを平らにしたうえ、宅地化される計画が持ち上がったそうです。
そこで石岡市が墳丘部を買収して保存、県の史跡指定を受けたものだそうです。

この古墳が霞ヶ浦に舟を乗り出す形をしているので「出舟」、近くの舟塚山古墳は逆に「入船」と呼ばれています。


茨城県石岡市・舟塚山古墳

2020-03-21 05:25:13 | Weblog
茨城県石岡市北根本597番地外、恋瀬川河口付近の高台にあります。
石岡市の市街地の南端、南に霞ケ浦の高浜入江を、西に筑波山や龍神山などの山並みを仰ぐ景勝の地にあります。
「舟塚山古墳群16号墳」と呼ばれることもあります。

全長186m、 後円部径90m・高さ11m、 前方部先端幅99m・高さ10m  三段構築の前方後円墳です。
前方部を西側に向けています。
後円部墳頂中央付近に37.7mを表示する三角点があります。


後円部西側には鹿島神社がたてられていて、墳丘が一部削られています。





東日本で2番目、全国でも45番目の大きさを誇る巨大古墳です。


               (右が前方部)


後円部に比べ前方部が長く、国内最大のあの「仁徳天皇陵」などと共通する特徴があります。

(後円部)








(前方部)









                 (前方部先端部)

墳丘の周りには盾形をした周濠(前方部西側で40m・後円部東側で約44m)があります。
南側の周濠は台地縁辺に接するため、廻っていたのかを含め不明です。



墳丘に葺石は施されていません。
円筒埴輪が出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1972年(昭和47年)、山内昭二氏を団長とする「舟塚山古墳周辺発掘調査団」による周濠の確認発掘調査が行われています。
但し墳丘本体の発掘調査は行われていません。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。

恋瀬川とその北東を平行に流れている山王川に挟まれた、霞ケ浦を見下ろす石岡台地南端部上に分布する舟塚山古墳群(前方後円墳6基・方墳1基・円墳20基・不明墳14基、そのうち19基は消滅)を構成している1基です。

大正10年3月3日、国の史跡に指定されています。
被葬者は「茨城国造筑紫刀禰」ではないかと言い伝えられているそうです。


茨城県石岡市・大日塚古墳

2020-03-14 05:38:13 | Weblog
茨城県石岡市中津川大六天640、台地西端の集落の中にあります。
「舟塚山古墳群21号墳」とか「大日如来古墳」・「手子后古墳」と呼ばれることもあります。

全長90m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
後円部はほぼすべてが宅地化されていて消滅、くびれ部には「手子后神社」、前方部には「大日如来」が祀られています。

(手子后神社)



          (左手に後円部がありました)


(大日如来)






資料が少なくそのほかの詳細は不明です。






                   (前方部)




茨城県石岡市・要害山1号墳

2020-03-07 05:44:18 | Weblog
茨城県石岡市小井戸字要害山の独立した丘頂にあります。
園部川に沿うように存在し、個人の住宅の裏です。

全長75m、 後円部径40m・高さ10.3m、 前方部先端幅32m・高さ6m  の前方後円墳です。
前方部を南東方向に向けています。
墳丘は後円部を中心にかなり削平を受けています。


               (手前が後円部)








               (前方部先端部)

















墳丘の周りには周濠があります。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・人物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
また石棺片も見つかっています。

前方後円墳1基、円墳2基からなる要害山古墳群を構成しています。

古墳時代後期・5世紀末から6世紀初頭頃の築造と推定されています。

所有者の了解を得て観察させていただきました。


茨城県石岡市・長堀6号墳

2020-02-29 05:54:02 | Weblog
茨城県石岡市柿岡字長堀の台地上にあります。
長堀公民館の西200m、長堀2号墳の南東約450mのところです。

全長37m、 後円部径27m・高さ3m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。









ただこの古墳は円墳とされていますが、前方後円墳の可能性があるといわれています。
現場を見ると確かに道路で分断はされていますが、道路わきに前方部とみれなくもない高まりがあります。


墳丘頂上は平らになっていて、小さな祠が祀られています。







長堀古墳群を構成する1基です。

茨城県石岡市・長堀2号墳

2020-02-29 05:28:10 | Weblog
茨城県石岡市柿岡字長堀4691の台地上にあります。

全長46m、 後方部一辺長30m・高さ3.5m、 前方部先端幅16m・高さ2m  の前方後方墳です。
同じ前方後方墳である丸山古墳同様、前方部を南東方向に向けていて、その前方部はやや低くなっています。


                (右が前方部)


               (手前が前方部)

                
(後方部)











     (後方部でくつろいでいたキジを追いやったようです)

(前方部)


1972年(昭和47年)2月、早稲田大学考古学研究所「市毛勲」先生による測量調査が実施され、前方後方墳と判明しました。
平成22年にも測量調査が行われています。
葺石や埴輪の出土はありません。
発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品については不明です。

古墳時代前期・4世紀後半頃の築造と推定されていて、丸山古墳ともども茨城県内最古級の古墳の可能性が高いといわれています。

長堀古墳群を構成する1基です。

茨城県石岡市・佐自塚古墳

2020-02-22 05:34:07 | Weblog
茨城県石岡市佐久字佐自塚170ほか、細長い丘陵の南端近くにあります。
「佐久2号墳」とも呼ばれています。

全長58m、 後円部径35m・高さ6m、 前方部先端幅27m・高さ4.3m  の前方後円墳です。
前方部を南西方向に向けています。



後円部墳頂には、小さな祠が祀られています。




(後円部)








(前方部)








墳丘の周りには周濠があります。


1963年(昭和38年)2月、発掘調査が行われています。
墳丘には、三日月形や水滴形などの透かしがある円筒埴輪の配列がなされていました。
後円部中央下約1.5mの地点で、全長約6mの粘土槨の埋葬施設が見つかっています。
粘土棺内から硬玉製勾玉や碧玉製管玉・ガラス製小玉・堅櫛・刀子・壺形土師器などが出土しています。
粘土槨の上部やその周辺からも、高坏2点・坩・壺などの土師器が出土しています。

古墳時代前期後半・4世紀後半から5世紀初頭頃の築造と推定されています。

昭和43年3月15日、石岡市の史跡に指定されています。

茨城県石岡市・丸山4号墳

2020-02-15 05:46:06 | Weblog
茨城県石岡市柿岡字丸山4118-2、恋瀬川を望む標高50~60mほどの丘陵部にあります。
丸山古墳の東30mのところです。
「二子塚古墳」とも呼ばれてます。

全長36.5m、 後円部径20.5m・高さ3m、 前方部先端幅18m・高さ2.66m  の前方後円墳です。
前方部を北西方向に向けています。





円筒埴輪や人物埴輪・馬形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1952年と1954年に発掘調査が行われています。
1954年(昭和29年)には明治大学考古学研究室と地元の方々の奉仕作業で、明治時代に乱掘された横穴式石室の修復作業が行われています。
南方向に開口している石室は片袖型横穴式石室で、全長6m、羨道の長さ3m・幅1m、玄室の長さ2.8m・幅1.4m・奥壁高さ1.9mの単室構造です。
滑石製模造品・大刀・鉄鏃・須恵器などが出土しています。
開口部は落ち葉などで半ば埋もれた状態で、残念ながら中に入ることはできませんでした。







2007年には測量調査が行われています。

(後円部)






(前方部)






古墳時代後期の築造と推定されています。

丸山古墳群を構成しています。

茨城県石岡市・丸山古墳

2020-02-08 05:26:52 | Weblog
茨城県石岡市柿岡高友4123の恋瀬川を望む標高50~60mほどの丘陵中央にあります。
「円山1号墳」とも呼ばれています。
古くから「崇神天皇」の第一皇子「豊城入彦命」の奥津城として伝承されています。
周囲には中世の城館「高友古塁(高友城址)」の空堀が巡っています。




全長55m、 後方部一辺長34×30m・高さ7m、 前方部先端幅22m・高さ4m  の前方後方墳です。
前方部を南東方向に向けています。




                 (右が前方部)

(後方部)











     (広い後方部墳頂には五輪塔がたっています)

(前方部)






墳丘に葺石は施されていなかったようです。
また埴輪の出土もありません。
1952年(昭和27年)12月、明治大学「後藤守一」教授のもとで発掘調査が行われています。
その結果、後方部の墳頂下約2mのところで粘土床(木棺)が発見されました。
倭製内行花文鏡や勾玉(瑪瑙・硬玉・碧玉・琥珀・蛇紋岩製)・碧玉製管玉・ガラス製小玉・ガラス製丸玉・銅鏃・鉄剣・鉄刀・刀子などが出土しています。
また遺骸の頭部分と推定される場所には水銀朱が撒かれていたそうです。

古墳時代前期後半・4世紀後半から5世紀初頭頃の築造と推定されています。

約30基からなる丸山古墳群を構成する1基として、昭和27年12月18日茨城県の史跡に指定されています。