もし盲学校がそこに集う生徒や保護者にとっての「終の棲家」であれば、とオニクタラムは考えるーー「盲学校」という「空間」から「正義(論)」を再考察するとき①
いよいよ私の本当の意味での「研究」が始まる。自分でもワクワクしている。と同時に不安でもある。私の依拠する文献資料はソクラテスやプラトンやアリストテレスでもなければ、J・ロールズ等の著作ではない。それは盲学校の中で私がこれまで垣間見た人間関係とそこから醸成された私の考えである。
とは言え、少しここでロールズの『正義論』で提示されていた有名な二つの原理を紹介しておく。それは以下の通りである。
第一原理 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様に広範な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。[2]
第二原理 社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない ーー(a) そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ(b) 全員に開かれている地位や職務に付帯すること[2]
(以上、引用抜粋は〈正義論(ロールズ)『ウィキぺディア』から〉
私はこれまでこのブログ記事において、システムとその関係の歩み云々に関して論及してきたが、そこで特に私が拘泥していたのは、私たちがシステムの歩みとしての「歴史」のどの「段階」に生きているのかという「歴史的制約性」に関してであった。そうした観点から先のロールズの二つの原理は、差別と排除の関係からつくり出された私たちの空間(すなわち私のモデルで描く{[A]→(×)[B]→×[C]} 〈1970年代まで〉と{[B]→(×)[C]→×[A]}〈1970年代以降から現在に続く、いずれも省略形、共時態形モデルで示される〉を前提としたままに、その空間と全く切り結ぶことなく提示されたものだ、と私は理解している。
換言すれば、ロールズによる二つの原理の実現によって、差別と排除の関係を前提とした覇権システムとそれを介在させながらつくり出された、世界資本主義システム、世界民主主義システムという三つの下位システムから構成される一つのシステムとその関係の歩みが別の新たな差別と排除の関係を許さないような空間へと変容できるのかを問うとき、私にはそれは難しいとしか言えないのである。というのも、ロールズは私が提示してきたシステムとその関係の歩みを視野の内に含まないままで、別言すれば、システムとその関係の歩みを前提としたままで、二つの原理を提唱しているからに他ならないからである。
さて、ここで議論の舞台をがらりと変えることにしよう。以下の話はあくまでも仮の話(フィクション)であるということを最初に断っておきたい。
ある地方都市の盲学校に一人の中年の中途視覚障碍者と、その娘が通うこととなる。父親は勤めていたIT関連の会社を退職したばかり。娘は小学校の3年生の時に網膜色素変性症と診断されて、これまで通っていた地域の小学校からやむなく父親と一緒に盲学校に通うこととなったのだ。