学校から帰宅した長女が、「ママ! SとKが新聞の一面に出てるの!」と、大親友のKちゃんが送ってくれたという「アンカレッジ・デイリー・ニュース」を見せてくれる。ほらっ!と、スマートフォンの小さな画面をスクロールしながら。
記事は、今年度からアンカレッジ市周辺の高校と中学で実験的に始められている「BYOD(Bring Your Own Device:自分自身の機器を持ってきて)」について(こちら)。高校七校の内三校、中学十校近くの内一校が実験校となっていて、長男長女が通っている中学がそれに当たる。
「BYOD」とは、授業に、自分自身のスマートフォンやiPadやラップトップを活用するというもの。記事には、社会の授業に自分のラップトップでインターネットにアクセスしてリサーチするSちゃんの様子が一面に、ブラスバンドの練習にiPhoneでチューン合わせをするKちゃんのインタビューも載っている。
現在、高校では十人に九人、中学で十人に八人が持っているとされるスマートフォン。
EdModoというアプリでホームワークをチェックし、ネットに日々アップデートされる成績をzangleで見て、フラッシュカードのようなアプリQuizlet で勉強する。そんな高校生の勉強風景が紹介されている。「身体の一部」と喩える高校生も。
我が家でも、お友達とスカイプで問題を解き合い、先生も含めてテキスト交換で宿題や課題の確認をし合っている。教科書もネットにアクセスするので家に持ち帰る必要もなくバックパックが軽いと喜ぶ長女、そして課題があれば、必ずネットでリサーチ。毎日の生活で、インターネットにアクセスしない日はない。
「教科書は静態的だけれど、インターネットはダイナミック、果てしない広がりがある」と長女の社会科の先生のインタビュー。確かに、興味をもったことについて、どんどん深め広げていくことのできるツールだと思う。
それでも、勉強に活用できるどころか、勉強などにはますます身が入らなくなるといった声も。授業中にネットソーシャルしていたり、禁止されている時間でもWiFiから4Gに切り替え使い続けたりと、「違反者」も後を絶たないという高校のケースが取りあげられている。確かに、常に「誘惑の元」を手にしているようなものともいえるかもしれない。
中学では、今のところ高校よりも「使ってよい時間」がより厳しく監視されているようで(ランチ中に用いて取り上げられる子も)、メールチェックや関係ないサイトを見るなど「他ごと」をしていると、クラスでもすぐに分かると長男長女。
また「いじめ」を気にする親の声も載せられている。あっという間に全校中そして世界中に情報がいきわたってしまう、それが特定の人物に対するネガティブなコメントであっても。
友人とこういったテーマについて話していると、昔は「学校での誘惑」といえば、「早弁」くらいだったよねえ、私達の子供時代って、今思うと、なんて「牧歌的」だったんだろう・・・、そうついつい遠い目で頷き合っていたり。
「道具としてうまく使う」姿勢を教えていけたら、と思っている。「テクノロジー・リテラシー(tech literacy)」をもっと教えていく必要がある。生徒は自分が読んでいる情報の質を評価することができなければならない」という社会の先生の言葉に頷きながら。
我が家では、長男と長女がスマートフォンを持っているけれど(長女には電話回線をまだつけてない)、使う時間が決めてあり、電話やテキストの送信先・受信先や時間を管理できるシステムを用いている。
今年から 小学四年の次女の宿題に、「タイピング練習」が出されるようになった(中学では課題のほとんどはタイプして提出)。インターネットにアクセスし、タイピング学習のオンライン練習プログラムを活用するというもの。算数もネットにアクセスして練習できるようになっている。親として、「私はアナログ人間だから」とも言ってられない状況。
昨夜そんな話を長男としていると、「あと十年もしたら、どの学校でも当たり前の光景になっているよ。こういった方向に進むのはもう避けられないことだと思うよ」と。二台しかない教室のコンピューターの順番待ちをするよりも、自分のiPhone使ったほうがよほど効率的だし、サイエンスの実験やホワイトボードに書かれた宿題や予定を写真にとったりもできるし、と。
昔彼が十一歳のころ、「僕たちが大きくなるころにはさ、どんな知識だって注射一本で注入できるようになってて、もう学校なんていらなくなっているのかもね」と言っていたのを思い出した。(子供言葉)確かに、もし学校が「知識」のみを教える場ならば、その必要性も薄くなっていくのかもしれない。
知識面を「身体の一部」の機器が担ってくれるのならば、人の役割は、それらをいかに「用いられる形」に組み立てるかだろう。清濁入り交ざる中から「情報を選び取る力」、「考える力」、「クリティカル・シンキング」がこれからますます必要になる。
そして「用いられる形」=「持続可能な形」とするための「根本的なバリュー」を身につけていくこと。
一歩一歩、家庭での取り組みを続けていきたい。
記事は、今年度からアンカレッジ市周辺の高校と中学で実験的に始められている「BYOD(Bring Your Own Device:自分自身の機器を持ってきて)」について(こちら)。高校七校の内三校、中学十校近くの内一校が実験校となっていて、長男長女が通っている中学がそれに当たる。
「BYOD」とは、授業に、自分自身のスマートフォンやiPadやラップトップを活用するというもの。記事には、社会の授業に自分のラップトップでインターネットにアクセスしてリサーチするSちゃんの様子が一面に、ブラスバンドの練習にiPhoneでチューン合わせをするKちゃんのインタビューも載っている。
現在、高校では十人に九人、中学で十人に八人が持っているとされるスマートフォン。
EdModoというアプリでホームワークをチェックし、ネットに日々アップデートされる成績をzangleで見て、フラッシュカードのようなアプリQuizlet で勉強する。そんな高校生の勉強風景が紹介されている。「身体の一部」と喩える高校生も。
我が家でも、お友達とスカイプで問題を解き合い、先生も含めてテキスト交換で宿題や課題の確認をし合っている。教科書もネットにアクセスするので家に持ち帰る必要もなくバックパックが軽いと喜ぶ長女、そして課題があれば、必ずネットでリサーチ。毎日の生活で、インターネットにアクセスしない日はない。
「教科書は静態的だけれど、インターネットはダイナミック、果てしない広がりがある」と長女の社会科の先生のインタビュー。確かに、興味をもったことについて、どんどん深め広げていくことのできるツールだと思う。
それでも、勉強に活用できるどころか、勉強などにはますます身が入らなくなるといった声も。授業中にネットソーシャルしていたり、禁止されている時間でもWiFiから4Gに切り替え使い続けたりと、「違反者」も後を絶たないという高校のケースが取りあげられている。確かに、常に「誘惑の元」を手にしているようなものともいえるかもしれない。
中学では、今のところ高校よりも「使ってよい時間」がより厳しく監視されているようで(ランチ中に用いて取り上げられる子も)、メールチェックや関係ないサイトを見るなど「他ごと」をしていると、クラスでもすぐに分かると長男長女。
また「いじめ」を気にする親の声も載せられている。あっという間に全校中そして世界中に情報がいきわたってしまう、それが特定の人物に対するネガティブなコメントであっても。
友人とこういったテーマについて話していると、昔は「学校での誘惑」といえば、「早弁」くらいだったよねえ、私達の子供時代って、今思うと、なんて「牧歌的」だったんだろう・・・、そうついつい遠い目で頷き合っていたり。
「道具としてうまく使う」姿勢を教えていけたら、と思っている。「テクノロジー・リテラシー(tech literacy)」をもっと教えていく必要がある。生徒は自分が読んでいる情報の質を評価することができなければならない」という社会の先生の言葉に頷きながら。
我が家では、長男と長女がスマートフォンを持っているけれど(長女には電話回線をまだつけてない)、使う時間が決めてあり、電話やテキストの送信先・受信先や時間を管理できるシステムを用いている。
今年から 小学四年の次女の宿題に、「タイピング練習」が出されるようになった(中学では課題のほとんどはタイプして提出)。インターネットにアクセスし、タイピング学習のオンライン練習プログラムを活用するというもの。算数もネットにアクセスして練習できるようになっている。親として、「私はアナログ人間だから」とも言ってられない状況。
昨夜そんな話を長男としていると、「あと十年もしたら、どの学校でも当たり前の光景になっているよ。こういった方向に進むのはもう避けられないことだと思うよ」と。二台しかない教室のコンピューターの順番待ちをするよりも、自分のiPhone使ったほうがよほど効率的だし、サイエンスの実験やホワイトボードに書かれた宿題や予定を写真にとったりもできるし、と。
昔彼が十一歳のころ、「僕たちが大きくなるころにはさ、どんな知識だって注射一本で注入できるようになってて、もう学校なんていらなくなっているのかもね」と言っていたのを思い出した。(子供言葉)確かに、もし学校が「知識」のみを教える場ならば、その必要性も薄くなっていくのかもしれない。
知識面を「身体の一部」の機器が担ってくれるのならば、人の役割は、それらをいかに「用いられる形」に組み立てるかだろう。清濁入り交ざる中から「情報を選び取る力」、「考える力」、「クリティカル・シンキング」がこれからますます必要になる。
そして「用いられる形」=「持続可能な形」とするための「根本的なバリュー」を身につけていくこと。
一歩一歩、家庭での取り組みを続けていきたい。