靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

夫達の「良き部分」を伝えたい

2013-11-16 00:24:01 | 夫婦ノート
 私はね、新しいことにも挑戦して、常によりよくなるよう道を切り開いていくというタイプなのだけれど、夫はすぐに手に入る目の前のもので満足してしまうタイプでね。それは生活の質も、子供の教育の質も、全般に渡って。私ばっかり頑張って走り続けてきてきつい。でもね、最近夫の姿勢の良さも分かるようになってきた。夫はストレス・フリーだなって。求めない分、葛藤もないし、ゆったりとしてられるの。

 そう友人。

 夫は全く反対のタイプでね。常に「より良く」を考えている。子供の数が多くてするべきことが立て込んでいるということもあるけれど、家ではソファに座ってテレビを前にほっと一息といった光景が見られたこともない。今もフラッシュカードを常にいくつも携帯して、次へのステップだと四六時中勉強している。何をしても、常にここがもっと良くなるはずという視点から眺めていて、それは時にきつくてぶつかることもあるのよ。あなたは私が苦労してここまで形作ったものを、ここが足りないという見方でばかりとらえてるとね。でも、確かに夫のこのとてつもない頑張りがあるからこそ、私達は今こうして暮らしていられて。私自身は入れ込むことと気に留めないことが極端なのだけれど、彼はいつも私の視野を広げてくれる。

 と私。


足して二で割ると調度いいのかもしれないけれどね、そう笑い合い。




「育ち方」というのは大きいのだろうね。そんな話になる。

友人の夫さんは、専業主婦で常に傍にいる母親の下、上げ膳据え膳至れり尽くせりの環境で育った。

一方夫は、六歳の時に母親が去り、働きづめで家にいない父親、極貧。毎晩米とスクランブルエッグを自分で作って二歳下の妹と食べていたそう。



今子ども達を前に思う。夫達に培われた、「良き部分」を、伝えていけたら。

両手で抱えるのでもなく 両手で突き放すのでもなく

「利き手で抱き、もう片方の手で押す」

(利き手には少し強く力が入るもの、常に「抱く」方に少し重きをおくということ)

そのバランスを 大切にしていきたい

「ギフテッド」と呼ばれる人々整理

2013-11-16 00:22:31 | 「ギフテッド」教育について
「ギフテッドチャイルド育児」カテゴリーの皆さんの記事を読ませていただき、私の中で少しこんがらがっていたことを整理してみました。



Ⅰ.「ギフト」について

「ギフトは全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられたギフトを伸ばしていこう」

という言い回しで浮かぶのは、こんな図です。


ところが、特に教育現場では「際立ったギフトAを持つ者(緑色部分)」のみが「ギフトテッド」として言及されることが多いため、

上の言い回しは、
「『際立ったギフトA』は全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられた『際立ったギフトA』を伸ばしていこう」とも捉えられてしまう。

ここから、「いやいや『際立ったギフトAを持つ集団』とは万人を含むものでなく特殊なんです」と、「食い違い」が出てくるように思います。

この「ギフテッド」という言葉が難しいですね。なにかいい名称はないものかと思いますが、何十年もの研究の積み重ねのある「ギフテッド」という名称を今更どうこうというわけにもいかないでしょう。

ただ用いる場合はその言葉の「意味の層」を意識する必要があるのだと、心に留めていきます。




Ⅱ:種類そして程度の様々な「ギフト」

図1を眺めている者としては、「なぜ『際立ったギフトAを持っている者』だけが、教育現場では『ギフテッド』と呼ばれるのだろう? 語義的にはBCDを際立って持っている人だって『ギフテッド』ではないか」という疑問が湧いてきます。そしてここに、私自身、学校で子ども達が「ギフテッド」という名称でくくられることへの「違和感」があります。

その問いへの答えは、「ギフトA」とは、現代の学問や知性の中心とされる「言語知能」や「論理数学的知能」を指しており、現代の学校は主にギフトAを磨くための場だからということになるのでしょう。

それでもなあ、と思うのです、そういった能力だけでない「知のあり方」にも価値が置かれることで、世界はもっと豊かになるのではないか。例えば多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士の言う、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」など、または、相手の心を読む能力、共感する能力、無私の能力、心遣い能力など(「音楽的」や「身体的運動的」能力は、通常の学校外で「ギフテッド」や「タレンティッド」として捉えられますが)。

また、普通学級で「ギフテッド」のカリキュラムを用いることにより、より多くの生徒が「『ギフテッド』とみなされる結果を出すようになった」といった実験結果もあるように(Duke大学にて)、「ギフテッド」と線引きするだけでなく、「ギフテッド」と認識されている子ども達以外の「ギフトA」の可能性を、引き出し伸ばす教育も重要です。


こういった意味から、教育とは、子供達『それぞれの(種類も程度も含め)』ギフトを伸ばすものであってほしいと願っています。





Ⅲ .「ギフテッド」と呼ばれる人々

現在「ギフテッド」と呼ばれる人々というのは、以下の二つあるように思います。

1.IQ優秀者もしくは学力優秀者 (図1「ギフトA」の緑色部分)

2.より深く、もしくは特殊な角度から世界を認知する人々
対象に極端にのめり込む傾向などが見られる。専門家によって定義も様々。




・2は1の部分を含み、1より大きな集団。

一昔前までは(60年代以前)、もっぱら1のみが「ギフテッド」とされてきた。現在ギフテッド専門家の研究は2まで進んでいるが、最もギフテッドについての研究が進んでいるとされる米国でも、実際の教育現場では、今でも結局ほとんどの場合1しか掬い取られていない。
 それは2をはかるのが難しいという理由によるところが大きい。2をはかる今のところの唯一の手段は、専門家による観察や主観

・2の多くの人々は、学校現場で見出されることなく支援を受けられず、成人しても社会の中で苦しんでいることがある。不登校、引きこもり層にも見られるかもしれない。

・また日本では「ギフテッド」という概念が行き渡っていないため、「発達障害」と誤診されたり、2E(発達障害とギフテッドの両方を持ち合わせた人々)層の凸面への支援がなおざりにされているという問題も見られる。

・日本の場合は、「学力優秀者」ならば、よりチャレンジングな学校へ進むことで、知的面の欲求は満たされる。それでもそれは「ギフテッド」人口のほんの一部ともいえる。

・2の研究が進み、「はかる手段」が発達することで、図3のように、より「多重な知能」が組み込まれていくことにもなるのではないか。





Ⅳ.境界の意味

こうしたカテゴリー分けにどんな意味があるのか? 

一つには必要な支援を受けるため

そしてもう一つには、自分や他者をより理解するため
 これまで悩み苦しんできた理由が納得でき、今後の対処に繋がるということもあるでしょう。「ギフテッド」であるという自覚が、辛い時に自分を支えるものになる、また「より多くを持っている者」としての責任のようなものが、自分を励まし明日へと進ませることにもなるかもしれません。そして他者に「ギフテッド」な部分を見出すことで、他者の言動への理解が進む、といったこともあるかもしれません。

またカテゴリー内に入っていたとしても、カテゴリー分けには何の意味を見出さない人々もいるでしょう。私自身そんな「ギフテッド」だろうと思われる人々を周りに多く見てきました。


最後に、私自身は、2と「マジョリティー」の境界は曖昧なものだろうと思っています。人は変わる可能性がある、体験や出会いなどを通し2に流れ込む可能性もある、そしてその可能性は一生続くと。そもそも後天的なものは「ギフテッド」とは呼ばないと言うことならば、元々持っていたつぼみが後に開花する可能性は一生続くと言ってもいいでしょう。「境界は流動的」、そう感じています。





支援が必要な方々により多くの手が差し伸べられること、そしてより多様な「ギフト」が掬い取られ、生かされていくこと、願っています。

今の時点での整理はここまでですが、これからも学んでいきますね。

皆様のそれぞれ異なる「ギフト」に、エールを送りつつ!