
(夕景をバックに群れ飛ぶカラスども)
今年令和元年も、いよいよ暮れていく。
12月28日は仕事納め、大掃除の日であった、昨年までは。
社会的にも、プライベートでも、いろいろと変化があった1年。
今年はたぶん、10冊ほどの詩集がわたしの手許にやってきた。そういうものから、どうしても刺激を受ける。模倣するのではない、他人の詩を読むことで、わたしの心の一隅で、ことばたちがざわめき出す(^^♪
そして、ひょっこり詩が生まれてくる。
「へええ、こんなものができたぞ」と、少しあきれながら、書き終えたものを読み返す(笑)。
何度も書いているけれど、テーマはひとことでいえば「老境」。
四捨五入すれば、60歳というより、すでに70歳となる。10代の終わりころから20代の終わりころまでも詩を書いていたが、当然ながら、その時代の詩と、いまの詩には、大きなへだたりが存在する。
ところで三毛ネコというハンドルネームは、
1)写真
2)読書
3)音楽(ヨーロッパ・クラシック)
の3つのカテゴリーを指して、三毛と称している。
白、黒、茶が入り交じるまだらの猫なのだ。
現代詩を書く・・・というのは、4番目のチャンネル、4番目の色になるのかもしれない(^^;)
ふりかえってみると、今年1年で結局のところ18編の詩が生まれてきた。
そのうち、出来がよさそうなもの1編だけを再掲載させていただく。

(伊香保石段街にて出会ったお二人)
「記憶の構造」
―恋歌もどき
どこまで戻ったらきみに逢えるか
それがぼく自身の第一の質問。
過去には入口と出口があって 白いひげの老いた神様が
ぼくやきみを待ち伏せし 謎をかけているんだ。
透き通った・・・つまり
目に見えない螺旋階段がいたるところにあって
鉢合わせをしたり尻餅をついたり
記憶っていうのはおかしな構造をしている。
ちょっぴり憂鬱な深い思念の裏へぼくをつれさろうとする
カケスどもの空騒ぎ。
子どもたちのノートの奥に綴じられた星のかけら。
デューラーの繊細すぎる長い指さき。
人の半生はめくるめく高層ビルみたいだ。
そのどこかのフロアで ぼくはきみに出会い
きみと別れたんだ
ああー あ そうだった。
あそこさ ほら ほら。
あのこましゃくれた虹の曲がり角。
いや ダンスフロアみたいな非常階段のすみっこだったかな。
そこではじめてのキスをした きみと。
そのころぼくはいくらぐびぐび飲んでも
飲んでも 尽きることのないグラスをもらったのさ
セットするのに失敗した もじゃもじゃ髪の
まだ若かったきみからね。
螺旋階段はいまだって
大勢の人たちが昇ったりおりたりしている。そうさ
秋の夕べともなればにぎやかな曲りくねったストリートになる。
それが記憶の構造だと気がついたのだ さっき。
きみがいる「そこ」へ今夜
遅くなったら何か 手みやげさげて出かけてみよう。
肌寒い雨でなかったら
星のまたたきがきみを呼び寄せてくれるのだったら。
全体に暗い心情のものが多いけど、これは比較的明るい詩となった(^ー^)ノ
なぜ一人称が「わたし」ではなく「ぼく」なのか、ちょっと考えたがよくわからない。「わたし」では書きにくいが、「ぼく」だと書きやすいのだ。
<もくじ>2019年
3-24 つぎに会うまでのさよなら(11/26)
3-23 記憶の遠い路地(11/17)
3-22 悲観論(11/16)
3-21 それができる奇蹟(11/4)
3-20 ことばの苗木(11/1)
3-19 衰えていく方に(10/26)
3-18 そうじゃないのかなあ(10/25)
3-17 この世へようこそ!(10/23)
3-16 夢の澱を撮る(10/21)
3-15 まるで!のように(10/19)
3-14 どんぐりに思想はない(10/18)
3-13 記憶の構造(10/15)
3-12 スズメたちがにぎやかだった日(10/8)
3-11 老いさらばえたロバがいななく(7/24)
3-10 明後日ののあたり(7/19)
3-9 わが遺品目録および遺言(6/8)
3-8 確信に変わっていく(5/19)
3-7 何かがそこにいる(4/10)
3-6「瑪瑙の青」を書いたのが、2018年7月25日なので、9ヶ月間は詩から遠ざかっていた。10月11月に、ことばがまとめてやってきたのだ。
このほか、室生犀星と中桐雅夫について、エッセイ風の詩論を、荷風の「珊瑚集」リメイク版について紹介文を書いている。
写真では表現不可能な「わたし」が、これら詩編の中で息づいている・・・ということになるだろう。俳句と同じで、詩を読む人は、詩を書く人である。付和雷同する人たちばかりが多いこの国では、俳句も現代詩も、滅亡しかけている。
嘆いたってしょうがないのだが、スマホやiPhoneにばかり、大衆社会の関心が向かっているということだろう。
しかし、そこにはくわわらない、くわわりたくないというマイノリティも存在している( ´ー`)ノ
世界はわたしたちが考えているより、はるかに、はるかに広くそして深いのである。
今年令和元年も、いよいよ暮れていく。
12月28日は仕事納め、大掃除の日であった、昨年までは。
社会的にも、プライベートでも、いろいろと変化があった1年。
今年はたぶん、10冊ほどの詩集がわたしの手許にやってきた。そういうものから、どうしても刺激を受ける。模倣するのではない、他人の詩を読むことで、わたしの心の一隅で、ことばたちがざわめき出す(^^♪
そして、ひょっこり詩が生まれてくる。
「へええ、こんなものができたぞ」と、少しあきれながら、書き終えたものを読み返す(笑)。
何度も書いているけれど、テーマはひとことでいえば「老境」。
四捨五入すれば、60歳というより、すでに70歳となる。10代の終わりころから20代の終わりころまでも詩を書いていたが、当然ながら、その時代の詩と、いまの詩には、大きなへだたりが存在する。
ところで三毛ネコというハンドルネームは、
1)写真
2)読書
3)音楽(ヨーロッパ・クラシック)
の3つのカテゴリーを指して、三毛と称している。
白、黒、茶が入り交じるまだらの猫なのだ。
現代詩を書く・・・というのは、4番目のチャンネル、4番目の色になるのかもしれない(^^;)
ふりかえってみると、今年1年で結局のところ18編の詩が生まれてきた。
そのうち、出来がよさそうなもの1編だけを再掲載させていただく。

(伊香保石段街にて出会ったお二人)
「記憶の構造」
―恋歌もどき
どこまで戻ったらきみに逢えるか
それがぼく自身の第一の質問。
過去には入口と出口があって 白いひげの老いた神様が
ぼくやきみを待ち伏せし 謎をかけているんだ。
透き通った・・・つまり
目に見えない螺旋階段がいたるところにあって
鉢合わせをしたり尻餅をついたり
記憶っていうのはおかしな構造をしている。
ちょっぴり憂鬱な深い思念の裏へぼくをつれさろうとする
カケスどもの空騒ぎ。
子どもたちのノートの奥に綴じられた星のかけら。
デューラーの繊細すぎる長い指さき。
人の半生はめくるめく高層ビルみたいだ。
そのどこかのフロアで ぼくはきみに出会い
きみと別れたんだ
ああー あ そうだった。
あそこさ ほら ほら。
あのこましゃくれた虹の曲がり角。
いや ダンスフロアみたいな非常階段のすみっこだったかな。
そこではじめてのキスをした きみと。
そのころぼくはいくらぐびぐび飲んでも
飲んでも 尽きることのないグラスをもらったのさ
セットするのに失敗した もじゃもじゃ髪の
まだ若かったきみからね。
螺旋階段はいまだって
大勢の人たちが昇ったりおりたりしている。そうさ
秋の夕べともなればにぎやかな曲りくねったストリートになる。
それが記憶の構造だと気がついたのだ さっき。
きみがいる「そこ」へ今夜
遅くなったら何か 手みやげさげて出かけてみよう。
肌寒い雨でなかったら
星のまたたきがきみを呼び寄せてくれるのだったら。
全体に暗い心情のものが多いけど、これは比較的明るい詩となった(^ー^)ノ
なぜ一人称が「わたし」ではなく「ぼく」なのか、ちょっと考えたがよくわからない。「わたし」では書きにくいが、「ぼく」だと書きやすいのだ。
<もくじ>2019年
3-24 つぎに会うまでのさよなら(11/26)
3-23 記憶の遠い路地(11/17)
3-22 悲観論(11/16)
3-21 それができる奇蹟(11/4)
3-20 ことばの苗木(11/1)
3-19 衰えていく方に(10/26)
3-18 そうじゃないのかなあ(10/25)
3-17 この世へようこそ!(10/23)
3-16 夢の澱を撮る(10/21)
3-15 まるで!のように(10/19)
3-14 どんぐりに思想はない(10/18)
3-13 記憶の構造(10/15)
3-12 スズメたちがにぎやかだった日(10/8)
3-11 老いさらばえたロバがいななく(7/24)
3-10 明後日ののあたり(7/19)
3-9 わが遺品目録および遺言(6/8)
3-8 確信に変わっていく(5/19)
3-7 何かがそこにいる(4/10)
3-6「瑪瑙の青」を書いたのが、2018年7月25日なので、9ヶ月間は詩から遠ざかっていた。10月11月に、ことばがまとめてやってきたのだ。
このほか、室生犀星と中桐雅夫について、エッセイ風の詩論を、荷風の「珊瑚集」リメイク版について紹介文を書いている。
写真では表現不可能な「わたし」が、これら詩編の中で息づいている・・・ということになるだろう。俳句と同じで、詩を読む人は、詩を書く人である。付和雷同する人たちばかりが多いこの国では、俳句も現代詩も、滅亡しかけている。
嘆いたってしょうがないのだが、スマホやiPhoneにばかり、大衆社会の関心が向かっているということだろう。
しかし、そこにはくわわらない、くわわりたくないというマイノリティも存在している( ´ー`)ノ
世界はわたしたちが考えているより、はるかに、はるかに広くそして深いのである。