二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

萩原朔太郎complex (その2)

2020年07月30日 | 俳句・短歌・詩集
   (「月に吠える」初版本)



詩集「月に吠える」は大正6年、彼が32歳のとき自費出版された。
竹とその哀傷 10編
雲雀料理 9編
悲しい月夜 7編
くさった蛤 13編
さびしい情慾 6編
見しらぬ犬 8編
長詩 2編(散文詩)

 計55編

これにくわえ、巻頭に白秋の序言、朔太郎の序言、詩集例言があり、巻末には「故田中恭吉氏の芸術に就いて」というエッセイと室生犀星の跋文がある。(55編すべてを収録した本はいたって少ないので注意を要する)。ほかに挿画がある。
初版500部。
ところが当局(内務省)の検閲にかかって、2編の削除を命じられた。
「愛憐」
「恋に恋する人」

がその2編である。

《きっと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草の“いんき”で、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
お前の情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそばう、》
   ~「愛憐」冒頭 “”を付したところは原文では傍点

《わたしはくちびるに“べに”をぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸には“ごむまり“のやうな乳房がない、
わたしの皮膚からは“きめ”のこまかい粉おしろいのにほいがしない、》
   ~「恋を恋する人」冒頭 “”を付したところは原文では傍点


こういう表現が、内務省によって削除を命じられたわけである。
「月に吠える」の初版無削除版が数冊存在するらしいが、稀覯本として途方もないプレミアがついている。
なお、大正11年(1922)アルス社から再版されたとき、この2編は復活した。

戦前において、権力による検閲は広く一般に行われていたことを忘れるべきではない。初版1000部ならともかく、500部というのも、ちょっと泣かせる部数だと思うがいかがなものであろうか?

《比喩でも説明でもないイメエジの直接性の確立こそ「月に吠える」スタイルの最大の特質である》と那珂太郎さんは鋭く指摘している。
「竹とその哀傷」「雲雀料理」の諸編に明かなものだが、その時期の作品ばかりでなく、のちになっても、「比喩でも説明でもないイメエジの直接性」はときおり出現し、彼の詩的世界に暗喩や直喩を超えたインパクトをもたらしているのは「萩原朔太郎のオノマトペ ~喩としての擬音」の中ですでにふれた。


  (愛用した机、椅子。移築された書斎にて撮影)


「月に吠える」にはわたしの好きな詩がいくつも収録されている。雲雀料理9編のうちから傑作「殺人事件」を引用しよう。

 殺人事件 (全編)

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつけ上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。


いかがなものであろうか?
《床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。》

友人室生犀星と見た映画からの影響が指摘されているが、アメリカン・ハードボイルドの映画でも見ているような情景が鮮やかに決まっている。

《しもつけ上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。》

ピストルを撃ったのはだれか?
女の正体は?
曲者とは私のことではないか?

合理的なこの作品の解釈をもとめようとすると、とたんに謎が深まり、迷路にさそいこまれる。しかし、その不可解さが、この詩のディープな、またダークな魅力となっている。
「月に吠える」を読んでいると、自己憐憫やら変態性欲やらがずいぶん出てきていささか辟易させられることがあるが、この詩にはそういったものはない。
アグレッシヴで劇的なシチュエーションが巧みな効果をあげている。

《みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。》

この「すべつてゆく」も、朔太郎でなければ使用できなかった見事な語彙、イメージである。検閲で削除された「愛憐詩篇」の系列とはまったく違う系統に属する。

朔太郎の詩的世界は、生涯を通じてひどくゆれている。口語詩もあれば、文語詩もある。
言語の境界線を、じつにしばしが跨ぎ越え、詩人は無意識の世界をたぐり寄せては書きとめていく。連と連、イメージとイメージのあいだに、大きな飛躍があるといってもいい。それらはとてもスリリングな光景である。
「月に吠える」という詩集の最大の魅力が、こういうところに存在する・・・とわたしはかんがえている。同時代の白秋、犀星の作品群と比較してみるとき、彼の詩的世界はいっそう鮮烈に姿をあらわす。
だからこそ、わたしは「月に吠える」を、まぎれもない“現代詩”として読んでいるのだ。

「月に吠える」は現代詩のスタートラインに置かれて、現在でも屈指の詩集として聳えたっている。
この時代からはやや遅れるが、朔太郎を師と仰いだ三好達治の「測量船」(昭和5年刊行、39編を収録)も評価の高い詩集だが、いま読み返すと、伝統的な短歌的俳句的情緒にどっぷりとつかった古くささが鼻につく。
それにひきかえ、「月に吠える」はアクティヴかつ、スリリングな、比類のない詩的言語の達成だと思える。


  (恭吉の挿画の一枚)



※ 田中恭吉の版画について、朔太郎はつぎのように述べている。

《雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知ったのは、いまから二年ほど以前のことである。当時、私があの素ばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更に言ふまでもないことであらう。
実に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである。
その頃、私は自分の詩集の装幀や挿画を依頼する人物を物色して居た際なので、この新しい知己を得た悦びは一層深甚なものであった。》(「故田中恭吉氏の芸術に就いて」より 「萩原朔太郎」日本詩人全集14 新潮社)

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