(単行本でも持っているし、3巻本の文庫もすでにある。これは3冊目)
古代ローマ第16代皇帝、マルクス・アウレリウス(121~180年/在位161~180年)は、ヨーロッパではもっとも人気の高い皇帝だそうである。
カエサルは「ガリア戦記」「内乱記」を後世に残したが、マルクスは「自省録」(本人がつけた名称ではない)を残し、哲人皇帝といえば、59歳でドナウ戦線に陣没した、この皇帝を指す。
ご存知の方が多いと思われるが、世に五賢帝と呼ばれる時代が、古代ローマにあった。
1.ネルヴァ
2.トライアヌス
3.ハドリアヌス
4.アントニヌス・ピウス
5.マルクス・アウレリウス
ネルヴァの即位紀元96年から、マルクスの死んだ180年までのおよそ84年間である。
カエサルやマルクス・アウレリウスのほかにも自伝や戦記を書いた皇帝はいたということだが、長いながい中世を変遷するあいだに、戦禍等で消滅してしまったのである。
マルクス・アウレリウスを深く理解したければ、五賢帝のすべてについてある程度の基礎知識がなければなるまいと考えて、「賢帝の世紀」(文庫版では24、25、26巻)から読みはじめた。
二度目ではなく、三度目の読書となるはずだけれど、覚えていることより、忘れていることの方がはるかに多く、フレッシュな気分で、手に汗しながら読みすすめることができた(^^♪
塩野七生さんの「ローマ人の物語」は、だれが何といおうと、歴史文学の金字塔である。フィクションとして書かれたのではなく、歴史ドキュメントというべき内容だが、“物語”と銘打ってある。古代のこととて、文書としての資料がほとんど遺されていない場合は、記念柱や考古学の成果をおぎないつつ、想像力でカヴァーし、ミッシングリングをつないである。その想像力はファンタジックなものではなく、近代リアリズム文学をベースにしている。
「ローマ人の物語」の読者なら全員知っていることだが、登場人物たちの肖像が、過不足なく、きめ細やかに書かれてある。時代や社会をリードした英雄豪傑ばかりでなく、脇役、端役、他民族の指導者、ローマをいろどった女性たち(その多くは主役の母や妻)・・・塩野さんの評価基準に照らし、じつに興味深く描かれているのが、この物語のメインテーマである。
大作であるから、読みすすめるにしたがって、時代や社会背景を異にしたさまざまな人物像が、回り灯籠と化した舞台の上を縦横に歩きまわる。
その舞台がまた広域に及んでいるため、一冊二冊と読んでいくと、読者は圧倒的なスペクタクルに巻き込まれていく。
塩野さんによると、マルクス・アウレリウスは、その声と姿が現代に残ったただ一人の皇帝ということになる。声は「自省録」に、また姿はミケランジェロを驚かせたという銅製の騎馬像に。
「ローマ人の物語」では、マルクス帝は「終わりのはじまり」上巻、中巻において語られる。
古代ローマの皇帝は、アジア的な専制君主ではなく、現代のアメリカ大統領に近い存在である。かなり徹底した法治国家であり、主権者は元老院議員とローマ市民。
「自省録」の中から皇帝・・・つまり、政治家、軍人としてのマルクス・アウレリウスを推測することはできないと、塩野さんははっきり書いておられる。
公私の別ということでいえば、彼は自分の時間の中に、公務を持ち込みたくなったのであろう。
しかし、この皇帝を最後として、古代ローマは衰亡への道を、ゆっくりと下りはじめる。ギボンやモムゼンといった有名な学者の意見も、こういった見方でほぼ一致を見ているそうである。
ローマはトライアヌス、ハドリアヌスの時代に、帝国として最大規模の領土を持つにいたる。首都ローマの未曽有の繁栄と、地中海世界を広くおおった平和。「人類史上、人間が一番幸福であった時代」(ギボン)を、塩野さんの叙述を通して眺め、惜しみおしみ通過する。
そうして五賢帝最後の一人の足取りを、死にいたるまで見届ける。
マルクス帝は蛮族との闘争には大きな成果をあげたが、後継者の選定には失敗した。そのことは、塩野さんは弁護士役を買って出てはいるが、いかんともなしがたい冷厳な歴史的事実である。
塩野七生の歴史ドキュメンタリー・ノベルは、本来の歴史そのものではない。だから「物語」と名づけたのだ。たとえば、わが国の「平家物語」がそうであるように。
歴史書を読みながら、胸がふるえた・・・という経験はわたしの場合、なきに等しいが、塩野さんの物語を読みすすめながら、登場人物の運命の変転や、その末路の姿、あるいはカタストロフィーに、しばしばことばを失い、茫然とする感動をもらっている。
本書「終わりのはじまり」から少し引用してダメ押しのひとことをつけくわえてもいいのだが、やめておく。
関心がある人なら、わたしが背中を押さなくても、いつかはこの本に遭遇し、全十五巻を読まずにはいられないだろう。大学の先生方がデスクの上で書いた入門書の類とはまったく違うのだ。
これでいいのである。「平家物語」に手に汗をにぎった経験がある人なら、(あるいはそうでない人も)古代ローマと地中海世界、そしてメソポタミアからブリタニアにいたる壮大な世界を舞台にしたこの物語は、塩野七生の十五年間を賭けた比類ない超大作として、その評価は将来とも、ゆるぐことはないであろう。
古代ローマ第16代皇帝、マルクス・アウレリウス(121~180年/在位161~180年)は、ヨーロッパではもっとも人気の高い皇帝だそうである。
カエサルは「ガリア戦記」「内乱記」を後世に残したが、マルクスは「自省録」(本人がつけた名称ではない)を残し、哲人皇帝といえば、59歳でドナウ戦線に陣没した、この皇帝を指す。
ご存知の方が多いと思われるが、世に五賢帝と呼ばれる時代が、古代ローマにあった。
1.ネルヴァ
2.トライアヌス
3.ハドリアヌス
4.アントニヌス・ピウス
5.マルクス・アウレリウス
ネルヴァの即位紀元96年から、マルクスの死んだ180年までのおよそ84年間である。
カエサルやマルクス・アウレリウスのほかにも自伝や戦記を書いた皇帝はいたということだが、長いながい中世を変遷するあいだに、戦禍等で消滅してしまったのである。
マルクス・アウレリウスを深く理解したければ、五賢帝のすべてについてある程度の基礎知識がなければなるまいと考えて、「賢帝の世紀」(文庫版では24、25、26巻)から読みはじめた。
二度目ではなく、三度目の読書となるはずだけれど、覚えていることより、忘れていることの方がはるかに多く、フレッシュな気分で、手に汗しながら読みすすめることができた(^^♪
塩野七生さんの「ローマ人の物語」は、だれが何といおうと、歴史文学の金字塔である。フィクションとして書かれたのではなく、歴史ドキュメントというべき内容だが、“物語”と銘打ってある。古代のこととて、文書としての資料がほとんど遺されていない場合は、記念柱や考古学の成果をおぎないつつ、想像力でカヴァーし、ミッシングリングをつないである。その想像力はファンタジックなものではなく、近代リアリズム文学をベースにしている。
「ローマ人の物語」の読者なら全員知っていることだが、登場人物たちの肖像が、過不足なく、きめ細やかに書かれてある。時代や社会をリードした英雄豪傑ばかりでなく、脇役、端役、他民族の指導者、ローマをいろどった女性たち(その多くは主役の母や妻)・・・塩野さんの評価基準に照らし、じつに興味深く描かれているのが、この物語のメインテーマである。
大作であるから、読みすすめるにしたがって、時代や社会背景を異にしたさまざまな人物像が、回り灯籠と化した舞台の上を縦横に歩きまわる。
その舞台がまた広域に及んでいるため、一冊二冊と読んでいくと、読者は圧倒的なスペクタクルに巻き込まれていく。
塩野さんによると、マルクス・アウレリウスは、その声と姿が現代に残ったただ一人の皇帝ということになる。声は「自省録」に、また姿はミケランジェロを驚かせたという銅製の騎馬像に。
「ローマ人の物語」では、マルクス帝は「終わりのはじまり」上巻、中巻において語られる。
古代ローマの皇帝は、アジア的な専制君主ではなく、現代のアメリカ大統領に近い存在である。かなり徹底した法治国家であり、主権者は元老院議員とローマ市民。
「自省録」の中から皇帝・・・つまり、政治家、軍人としてのマルクス・アウレリウスを推測することはできないと、塩野さんははっきり書いておられる。
公私の別ということでいえば、彼は自分の時間の中に、公務を持ち込みたくなったのであろう。
しかし、この皇帝を最後として、古代ローマは衰亡への道を、ゆっくりと下りはじめる。ギボンやモムゼンといった有名な学者の意見も、こういった見方でほぼ一致を見ているそうである。
ローマはトライアヌス、ハドリアヌスの時代に、帝国として最大規模の領土を持つにいたる。首都ローマの未曽有の繁栄と、地中海世界を広くおおった平和。「人類史上、人間が一番幸福であった時代」(ギボン)を、塩野さんの叙述を通して眺め、惜しみおしみ通過する。
そうして五賢帝最後の一人の足取りを、死にいたるまで見届ける。
マルクス帝は蛮族との闘争には大きな成果をあげたが、後継者の選定には失敗した。そのことは、塩野さんは弁護士役を買って出てはいるが、いかんともなしがたい冷厳な歴史的事実である。
塩野七生の歴史ドキュメンタリー・ノベルは、本来の歴史そのものではない。だから「物語」と名づけたのだ。たとえば、わが国の「平家物語」がそうであるように。
歴史書を読みながら、胸がふるえた・・・という経験はわたしの場合、なきに等しいが、塩野さんの物語を読みすすめながら、登場人物の運命の変転や、その末路の姿、あるいはカタストロフィーに、しばしばことばを失い、茫然とする感動をもらっている。
本書「終わりのはじまり」から少し引用してダメ押しのひとことをつけくわえてもいいのだが、やめておく。
関心がある人なら、わたしが背中を押さなくても、いつかはこの本に遭遇し、全十五巻を読まずにはいられないだろう。大学の先生方がデスクの上で書いた入門書の類とはまったく違うのだ。
これでいいのである。「平家物語」に手に汗をにぎった経験がある人なら、(あるいはそうでない人も)古代ローマと地中海世界、そしてメソポタミアからブリタニアにいたる壮大な世界を舞台にしたこの物語は、塩野七生の十五年間を賭けた比類ない超大作として、その評価は将来とも、ゆるぐことはないであろう。