■「ティファニーで朝食を」トルーマン・カポーティ(村上春樹訳 平成20年) 新潮文庫
高級娼婦と作家志望の青年のロマンチックコメディーというのが、一口にいって、この小説の内容である。
何しろ14歳で結婚し、本人がいうには、それから11人の男と性的関係を結んだ。お金をもらって体を高く売り、それによってかなり贅沢な生活をしている。
映画で主演した、清純派女優のオードリー・ヘプバーンに、皆さん騙されてしまったのさ。かくいうわたしも(^^; な~んだ、お金で買える女なのか。
ホリーは何も作り出さない、ただ消費するだけ。典型的な都市型の女である。
19歳というのが強みなのだ。そしておそらく、セクシーな美人。だから、ほとんどの男が、ホリーにころりといかれてしまう。ホモは別として、男はすべてすけべなのだ。娼婦性と、innocenceが表裏一体となっている女は、フランス文学「マノン・レスコー」や「椿姫」「ナナ」など昔からじつに多く描かれてきた。
こういう気まぐれでイノセンスな女、つまりココットというべきタイプに、男どもは騙されたがっている。
ちょっと深掘りするとするなら、ホリーは不感症なのかもね。
《第二次大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。
表題作ほか、端正な文体と魅力あふれる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。》BOOKデータベースより
新人女優とは嘘である。カポーティはそんな事実があったことを、一言も書いてはいない。何億もの資産を持ったセレブが、お遊びでつきあうにはいいかもしれない。でも彼女は金も名声もない男など相手にはしないだろう。女優といえば、きれいごとにすぎる。
はっきりいえば、途中から読むのが少々バカバカしくなった。
「あんたも騙されたい一人なのかね?」
わたしは、現実の世界でそういうタイプの小金持ちを数人知っていた(´Д`)
「いいさ、女に貢ために稼いでいるんだから」
そんなふうに悟りきっている知り合いもいた。あわれだったなあ。「ティファニーで朝食を」とは違って、現実はもっとちまちましたものだしね。
何だよ、ティファニーのショーウインドウを外からのぞきながら、スティック状のパンを齧るだけかい・・・と、わたしはあきれた。ティファニーは高級レストランでもファミレスでもない。
多くの人たちが、とくにこの村上春樹訳の「ティファニー」を褒めるものだから、よしよし読んでやるかと、そう思った。
あえて評価するとすれば、ぴちぴちした鮮度の高いその文体だけといっていいだろう。
本書には、「ティファニー」以外に、3篇の短編が収録されている。
わたし的に一番おもしろかったのは、二人の囚人のことを書いた「ダイアモンドのギター」。
ほかには大したものはない。「花盛りの家」が最悪。時間がもったいない・・・というレベルである。
饒舌なのでことばに、悪しき“浮力”がついている。技巧的なレトリックに溺れてしまったといってもいい。
カポーティはたわいのないことを、さも内容があるように見せかけるのがうまい。
アメリカ人としてはとんでもない“おちびさん”だったのだし、そのコンプレックスから、自分を解放しきれなかったのだ。そしてアメリカ社会もまた、ヨーロッパとは異質な階級社会。
アメリカの場合は、大金持ち、中金持ち、小金持ち、そして貧困層、極貧層。女は美人か不美人かに二分される。
「ダイアモンドのギター」から引用してみよう。
《一月も終わりに近いころ、二人は煙草を手に宿舎の階段に座っていた。レモンの皮を思わせる、黄色くて薄っぺらな三日月が頭上に浮かんでいた。その光に照らされて、霜の筋がいくつも、かたつむりの這ったあとみたいに銀色に輝いていた。》(「ダイアモンドのギター」220ページ)
この種の比喩が、いたるところに出てくる。
カポーティは、自分の才能に、その重荷に、圧し潰されたのかもしれない。
「わたしはアル中である。
わたしはヤク中である。
わたしはホモセクシャルである。
わたしは天才である。」↓(※を参照)
新潮文庫でカポーティを5~6冊そろえて「さてこれから!」と思っていたが、いきなりはずれ籤をひいてしまったような気分。
「草の竪琴」
「冷血」
あたりには、期待するところ大なのだが、残念。
評価:☆☆☆
※トルーマン・カポーティ真実のテープ
https://www.youtube.com/watch?v=TdOpQfR6YJ8
いずれにせよ、アメリカ的あまりにアメリカ的な、スキャンダラスな小説家ではあった・・・と思う。
高級娼婦と作家志望の青年のロマンチックコメディーというのが、一口にいって、この小説の内容である。
何しろ14歳で結婚し、本人がいうには、それから11人の男と性的関係を結んだ。お金をもらって体を高く売り、それによってかなり贅沢な生活をしている。
映画で主演した、清純派女優のオードリー・ヘプバーンに、皆さん騙されてしまったのさ。かくいうわたしも(^^; な~んだ、お金で買える女なのか。
ホリーは何も作り出さない、ただ消費するだけ。典型的な都市型の女である。
19歳というのが強みなのだ。そしておそらく、セクシーな美人。だから、ほとんどの男が、ホリーにころりといかれてしまう。ホモは別として、男はすべてすけべなのだ。娼婦性と、innocenceが表裏一体となっている女は、フランス文学「マノン・レスコー」や「椿姫」「ナナ」など昔からじつに多く描かれてきた。
こういう気まぐれでイノセンスな女、つまりココットというべきタイプに、男どもは騙されたがっている。
ちょっと深掘りするとするなら、ホリーは不感症なのかもね。
《第二次大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。
表題作ほか、端正な文体と魅力あふれる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。》BOOKデータベースより
新人女優とは嘘である。カポーティはそんな事実があったことを、一言も書いてはいない。何億もの資産を持ったセレブが、お遊びでつきあうにはいいかもしれない。でも彼女は金も名声もない男など相手にはしないだろう。女優といえば、きれいごとにすぎる。
はっきりいえば、途中から読むのが少々バカバカしくなった。
「あんたも騙されたい一人なのかね?」
わたしは、現実の世界でそういうタイプの小金持ちを数人知っていた(´Д`)
「いいさ、女に貢ために稼いでいるんだから」
そんなふうに悟りきっている知り合いもいた。あわれだったなあ。「ティファニーで朝食を」とは違って、現実はもっとちまちましたものだしね。
何だよ、ティファニーのショーウインドウを外からのぞきながら、スティック状のパンを齧るだけかい・・・と、わたしはあきれた。ティファニーは高級レストランでもファミレスでもない。
多くの人たちが、とくにこの村上春樹訳の「ティファニー」を褒めるものだから、よしよし読んでやるかと、そう思った。
あえて評価するとすれば、ぴちぴちした鮮度の高いその文体だけといっていいだろう。
本書には、「ティファニー」以外に、3篇の短編が収録されている。
わたし的に一番おもしろかったのは、二人の囚人のことを書いた「ダイアモンドのギター」。
ほかには大したものはない。「花盛りの家」が最悪。時間がもったいない・・・というレベルである。
饒舌なのでことばに、悪しき“浮力”がついている。技巧的なレトリックに溺れてしまったといってもいい。
カポーティはたわいのないことを、さも内容があるように見せかけるのがうまい。
アメリカ人としてはとんでもない“おちびさん”だったのだし、そのコンプレックスから、自分を解放しきれなかったのだ。そしてアメリカ社会もまた、ヨーロッパとは異質な階級社会。
アメリカの場合は、大金持ち、中金持ち、小金持ち、そして貧困層、極貧層。女は美人か不美人かに二分される。
「ダイアモンドのギター」から引用してみよう。
《一月も終わりに近いころ、二人は煙草を手に宿舎の階段に座っていた。レモンの皮を思わせる、黄色くて薄っぺらな三日月が頭上に浮かんでいた。その光に照らされて、霜の筋がいくつも、かたつむりの這ったあとみたいに銀色に輝いていた。》(「ダイアモンドのギター」220ページ)
この種の比喩が、いたるところに出てくる。
カポーティは、自分の才能に、その重荷に、圧し潰されたのかもしれない。
「わたしはアル中である。
わたしはヤク中である。
わたしはホモセクシャルである。
わたしは天才である。」↓(※を参照)
新潮文庫でカポーティを5~6冊そろえて「さてこれから!」と思っていたが、いきなりはずれ籤をひいてしまったような気分。
「草の竪琴」
「冷血」
あたりには、期待するところ大なのだが、残念。
評価:☆☆☆
※トルーマン・カポーティ真実のテープ
https://www.youtube.com/watch?v=TdOpQfR6YJ8
いずれにせよ、アメリカ的あまりにアメリカ的な、スキャンダラスな小説家ではあった・・・と思う。