二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

ノンフィクションの悦楽 / フィクションの悦楽

2015年07月20日 | エッセイ(国内)
(この日記は本をめぐる三毛ネコの近況なので、関心がもてない方は遠慮なくパスして下さいませ、ませ♪)

数日前から、小説を書こうとして、なかなかうまくはかどらず、苦心惨憺といった体たらく。
う~む、むずかしいなあ。
詩なら30~40分もあれば一応まとまったものにはなるが、小説は短編でもそう簡単には書けない。これまで何回も書いている。だけど、最後まで書けた・・・と思えるものは数編止まり。それも、出来がよくなくて、ほとんどが忘却の彼方(笑)。

小説はすらすらとは書けない。考え込む。
冒頭が、つまり書き出しがとても重要なのである。それは詩の場合でも同じだが・・・。

「蟻になった男」という、ちょっとカフカふうの短編を書こうとしている。
しかし書き出しが決まらない。
冒頭のたとえば10行がピタッと決まると、そこからさきがすらすら出てくる。
ことばがことばをつれてきてくれるのだ。
これまでワードで5種類書いて、そのままフォルダに保存してある。いちばん長い書き出しでおよそ2000字。カフカのパステーシュを狙っているわけではないが、結果としてそうなる可能性はある。


活字モードがONのまま。
今日はつぎのような本がクルマに積んである。
ノンフィクションとフィクション、全部合わせると、10冊くらいはあるだろう。むろん全部読もうというのではない。

そこからノンフィクション、フィクションに分けて、二編ずつ冒頭を引用してみよう。

■ノンフィクション

《溢れるんばかりの子どもたちを乗せた渡し船、堤防の上で顔を寄せる二人の老人、天秤棒を担いで通り過ぎる行商の女性、魚網の上で眠る子ども、うず高く積み上げられたビール箱、列車の窓から撮影した茅葺の民家・・・。宮本常一が撮影した写真には、撮る楽しみ、読む楽しみが満ちている》
(「宮本常一と写真」平凡社より、「写真を撮る民俗学者」石川直樹冒頭)





この本「宮本常一と写真」はじつは昨日会社帰りに買ったばかり。
一、二年まえに、「宮本常一が撮った昭和の情景」(毎日新聞社)という大部な本が書店の棚に置いてあるのを立ち読みしたが、そのときは手が出なかった。
でその代わりといってはなんだけれど、お手頃サイズ、価格の本書を買ってあたりをつけておくのである。

わたしのような読書人=印刷物マニアな人は「いつかは読みたい、読まねば」と頭の隅に蠢く本がかなりある。名著として名高い宮本常一「忘れられた日本人」は、その中の一冊。
佐野眞一さんの「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」ともども、この夏のリーディングリストにアップしてある。
それにしても日本全国を行脚し、10万カットも写真を撮ったとは、すごい遺産を残したものだ。

《日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅の経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向がつよく出ていたようであるが、明治に入ってははなはだしくなったのではなかろうか。村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。》
(宮本常一「忘れられた日本人」より「世間師(一)」冒頭)

この一冊の中に、忘れられた日本人と昭和が的確にとらえられている。新幹線もネットもない時代の貴重な、貴重な記録。


■つぎはフィクション編。
カフカから二編を引用しよう。



《わたしたちはオアシスで露営していた。同行のひとたちはみんなねむっている。背が高く白い着物のアラビア人がひとり、わたしのそばを通る、らくだの世話をすませ、寝る場所へ行くのである。
わたしはあおむけに草のうえにころがる、ねむろうとするだめだ、遠方でジャッカルが一頭、悲しげに吠えている、わたしはまた身体を起した。あれほど遠方であったのが、もうすぐそばまで来ている。わたしのまわりはジャッカルの群、にぶい黄金いろの輝きを放つ眼、消え失せていく眼、しなやかな四肢、それは、鞭であやつられるように、規則正しく、すばしこく動く。
一頭が背後から近づき、腕の下をすりぬけてわたしに迫る、それはわたしのぬくみをもとめているかのようだ、それからまえへまわると、眼と眼をぶっつけあわすようにして、話す、
「自分はこのへんでいちばん古いジッカルです。いまだにこんなところでお目にかかれるとは、思いもかけぬよろこびです。そんな望みはとっくの昔に捨ててしまいました、無限に長く、あなたを待っているのですからね、母も待ちました、その母の母もそれからさかのぼって、すべてのジャッカルの母に至るまで、全部の母が待ちました。信じて下さい」》
(カフカ「ジャッカルとアラビア人」冒頭より 本野亨一訳角川文庫)

《半分は猫、半分は羊という変なやつだ。父からゆずられた。変な具合になりだしたのはゆずり受けてからのことであって、以前は猫というよりむしろ羊だった。いまはちょうど半分半分といったところだ。頭と爪は猫、胴と大きさは羊である。両方の特徴を受けついで、目はたけだけしく光っている。毛なみはしなやかだし、やわらかい。忍び歩きも飛び跳ねるのもお手のものだ。陽当たりのいい場所で寝そべっているときは、背中を丸めてのどを鳴らしているが、野原に出るとしゃにむに駆け出して、つかまえるのに難儀する。強そうな猫と出くわすと逃げだすくせに、おとなしそうな羊には襲いかかる。月の夜に屋根の庇をのそのそ歩くのが大好きだ。》
(カフカ「雑種」冒頭より 池内紀訳岩波文庫)

カフカといっても、わたしはどういうわけか、長編が読めない。
これまでもっぱら、短編集と短編ばかり読んできた。ツボにはまったとき、こんなにおもしろい、興味津々たる寓話はほかにないといっていいだろう。二十世紀文学というと、プルースト、ジョイスとカフカということになるらしいが、わたしはカフカしか読んでこなかった。
ポーとカフカはその足許に近づくことはできないながら、遠くから仰ぎみてきた、高いたかい峰々という感じがする。

短編は切れ味がいのち(^皿^)
眼では見えない未知の世界がそこにある、つまり・・・うすべったい一冊の本の中に。
活字中毒者とは、傍目からはうかがい知れない、想像力の深いよろこびに憑かれた人のことである。
短編世界の最深部、・・・ポーやカフカの作品は、その一角を担う最重要なアイテムと称すべきだろう。


※トップの写真はわたしがよく立ち寄るブックマンズアカデミーという、地元資本の大型書店。夕陽が印象的な光芒を投げかけていた。


■「宮本常一が撮った昭和の情景」毎日新聞社刊
http://www.amazon.co.jp/%C3%A5%C2%AE%C2%AE%C3%A6%C2%9C%C2%AC%C3%A5%C2%B8%C2%B8%C3%A4%C2%B8%C2%80%C3%A3%C2%81%C2%8C%C3%A6%C2%92%C2%AE%C3%A3%C2%81%C2%A3%C3%A3%C2%81%C2%9F%C3%A6%C2%98%C2%AD%C3%A5%C2%92%C2%8C%C3%A3%C2%81%C2%AE%C3%A6%C2%83%C2%85%C3%A6%C2%99%C2%AF-%C3%A4%C2%B8%C2%8A%C3%A5%C2%B7%C2%BB-%C3%A5%C2%AE%C2%AE%C3%A6%C2%9C%C2%AC%C3%A5%C2%B8%C2%B8%C3%A4%C2%B8%C2%80/dp/4620606391/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1244448361&sr=1-1

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