二草庵摘録

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吉村昭の歴史再現力を考察する ~「生麦事件」を堪能

2021年11月13日 | 吉村昭
■吉村昭「生麦事件」新潮文庫(平成14年刊2002 単行本は1998年刊)
上巻:312ページ
下巻:307ページ(あとがきをふくむ)

どうでもいいことだが、吉村昭さんの“歴史小説”を読むのは、わたし的にはじつははじめて。遅れてきた一読者なのだ。
そのわたしがこういう作品を何と呼ぶべきか、少し迷っている。
小説というにはあまりに歴史に忠実、歴史というには、小説的な場面にあふれている。
タイトルは生麦事件だが、生麦事件そのものは導入部に過ぎない。
世にいう薩英戦争、馬関戦争の内実を、鋭い怜悧なメスで切り裂いていく。どこにも“たるみ”のような部分はなく、情念・情緒のたぐいをそぎ落とし、叙述は淡々と積み重ねられている。
この作品を書くにあたって調べたら、生麦事件を専門とした研究者は、当時皆無であったそうである。そのことが、吉村さんの探求心に火をつけた。

無機質といってもいいような文体。しかし、素っ気ないと感じはするが、ぶっきら棒ではない。その日のお天気が書き込まれているのは、大抵吉村さんが当時の資料を参照している結果である可能性が高い。
この小説家は、恣意的な想像力が介入することにじつに慎重なのだ。
そこに、他の作家からは味わうことができない、硬質なリアリティがある。
しかも、主役は存在しない。リアルな群像劇であり、歴史的登場人物のねちゃついた私的な事情はほとんど入り込む余地がない。

《いかにして薩摩はイギリスを斬ったか?
文久2(1862)年9月14日、横浜郊外の生麦村でその事件は起こった。薩摩藩主島津久光の大名行列に騎馬のイギリス人四人が遭遇し、このうち一名を薩摩藩士が斬殺したのである。
イギリス、幕府、薩摩藩三者の思惑が複雑に絡む賠償交渉は難航を窮めた──。幕末に起きた前代未聞の事件を軸に、明治維新に至る激動の六年を、追随を許さぬ圧倒的なダイナミズムで描いた歴史小説の最高峰。》BOOKデータベースより

本書を読みながら、わたしは歴史の“そのとき”に立ち会っている臨場感をたっぷりと味わった。いやはや、歴史の教本では1-2ページで済まされてしまう生麦事件とは、こういうものであったのか(´・ω・)?
そしてそれにつづいて、幕府は、薩摩は、長州は、他藩はどのような動きをしめしたのか?
明治維新へいたる、歴史の大きな曲がり角が、詳細極まりない筆致で丹念にたどられていく。日本の近代化と簡単にいうが、古井戸の底ではこのような紆余曲折があったのである。

吉村さんは、一小説書きなのに、“歴史の証言者”でもあろうとしている。
巻末に掲げられた参考資料は25種に及ぶ。そのほか、あとがきで30人余の人たちの協力を仰いでいるという。作者の執念、熱意恐るべし!!
わたしはただ、ただ敬服せざるをえない。

吉村昭さんの“歴史小説”はまだ一作読んだばかりだが、こういうドキュメンタリータッチの作品を読んでいると、司馬遼太郎さんの小説が、講談に感じられてくる。司馬さんのものにはエンターテインメントの要素がたっぷりある。
しかし、吉村さんの作品には、エンターテインメントを意識した様子がまったく見られない。
事実・史実はどうであったのか、その舞台を再現することに力をそそいでおられる。
現実に“ロマン”など入り込む余地などないのだ・・・といわんばかり。

歴史にはヒロインはもちろん、ヒーローもいない。
そういう“お話”を期待する向きには、本書「生麦事件」はおもしろくないであろう。ヒロイン、ヒーローどころか、そもそも主役が存在しないのだから。
あえていえば、歴史そのものが、押しとどめようのない世界史と日本史の大潮流が主役となっている。

鳥羽・伏見の戦いあたりからごくあっさりとした記述になるが、結末をどこへ導いていくのかと思っていたら、慶喜のあとを襲った徳川家達の行列が生麦村を過ぎる場面へと場面を転換していった。生麦村のことは、読者は忘れていないし、作者も、むろん忘れていない。

読み終えたいま考えているのは、この大作は歴史そのものではなく、やっぱり吉村昭さんの小説以外ではないだろう・・・ということである。歴史書ではほとんどふれられることのない真実(ノω・、)
そのディテールまで再現し、史的ドラマとして再構築してみせた秀逸な長編。

付け加えておくと、城山三郎さんとの対談で、冗談まじりに吉村さんはこういっている。
《夢って見るでしょう? 高野長英を書いている時には、目明しに追われる夢をずいぶん見たんです。うなされるわけ。女房が起こしてくれてね。「あなたまた目明しの夢を見たの」なんて。》「同い歳の戦友と語る」(「よみがえる力は、どこに」214ページ 新潮文庫所収)
吉村さんが、いかにその時代、その人物に没入しているのか、よくわかるエピソードであろう。
本書は小説家吉村昭の人間味がにじみ出た極上の逸品と称すべき。
う~む、圧倒されました。
さて、つぎはどの作品をチョイスしようか!?






評価:☆☆☆☆☆

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