二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

古書店界隈、そのほとり  ~司馬遼太郎「本所深川散歩・神田界隈」を読む

2022年10月10日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
■司馬遼太郎「本所深川散歩・神田界隈」朝日文庫(2009年 新装版第1刷)


《「とりあえずは江戸っ子の産地じゃないか」と思い、訪ねた本所深川。落語や鳶の頭、芸者たちの話などから“江戸っ子”の奥義を探る。「古本屋さんと出版社と、それに付随する印刷屋のまち」神田。森鴎外、夏目漱石ら、このまちに住み、かかわった人びとの足跡を辿り、江戸から東京へと続く歴史を歩く。》BOOKデータベースより

そう書かれている。しかし・・・神田は私立大学発祥の地でもある。
神田には、わりとよく足を運んだ。東京で下宿暮らしをするというのは、古書店の街、神田のほとりに住まうことを意味したのかもしれない。
18~19の小僧だったし、そのころはバイトはあまりせず親の仕送りにたよっていたので、1000円をどう使うべきか、日常的にかんがえなけれならないようなプアな学生だった。そのため、新刊本は滅多に買わず、多少のよごれ、黄ばみに目をつぶって古書を主に買う。
ワゴン車に山積みされた“ゾッキ本”は飽きずによく漁ったなあ。
近ごろの若い世代は““ゾッキ本”といういい方を知らない人もいるが(;^ω^)

「本所深川散歩・神田界隈」は、読み終えるまでずいぶん時間がかかった。ほかの本が、つぎつぎ“割込み”してきたからだ。
本書は二部構成になっている。
1.本所深川散歩 141ページ
2.神田界隈 273ページ

――というふうに。
「本所深川散歩」はやや低調で、読者たるわたしがダレてしまった。
50代の半ばころ、深川江戸資料館、富岡八幡は友人と東京散歩で訪れている。木場もいったけど、往時の雰囲気は絶無に近く、退屈な灰色の下町が延々と拡がっていただけ^ωヽ*

ただ、埋め立て地まで足をのばし、湾岸エリアをへだてて銀座方面を遠望できたことは印象鮮やかである。
タワーマンションも、現在ほど“乱立”してはいなかった。埋め立て地はそのまま荒地というべきで、空缶やペットボトル、チケットや新聞広告等の紙切れ、千切れたワイヤ、泥だらけの靴や得体のしれない何かの塊が散らかっていた。
ミステリーが描き出す昭和末期の場末感たっぷり、およそ司馬さんが足を踏み入れるところではなかった。

本書の元となったのは1990~91年にかけ、「週刊朝日」に連載されたものである。25年にわたる連載のあいだ、編集者も代替わりしているが、このとき同行した担当編集者は村井重俊さんであった。
司馬さんが散策したのは、その時代の東京であった。
「本所深川散歩」は木場の散策からはじまっている。
しかし、司馬さんは大阪人なのだ。ご先祖は播磨の国出身とどこかに書いておられた。だから腰を据えてじっくりと雰囲気を味わおうとしても、“よそ者”意識を拭い去ることができない。司馬遼太郎は旅人としては、とても正直な物書きだと思えた。観光マップのため記事をかくわけでもないしね(笑)。
「街道をゆく」全般にいえることではあるが、空間の移動は必要最小限にし、歴史的時間をさかのぼることに専念しておられる。
「白髭橋のめでたさ」あたりを頂点とした隅田川の橋について書かれたところはおもしろかった。

ところが、「神田界隈」へ移行すると、俄然本領発揮。江戸末期から明治へ、この地域がどのように変貌・発展を遂げていったかといろいろな文献を参照し、だんだんと熱っぽい語り口になってゆく。
半藤一利さん流にいえば、歴史探偵である。
本郷、神田は司馬さんの頭の中で、明らかに地続きなのだ、ということがわかる。
ストーリーとしては「護持院ヶ原」からはじまるが、鷗外の小説のことではなく、仇討ちのあった護持院ヶ原がいかなるものであったか、そこから説き起こしてゆく。

「於玉ヶ池」「医学校」「神田明神下」「本屋風情」「哲学書肆」「三人の茂雄」「明治の夜学」「如是閑のこと」。
これらの各章において、司馬遼太郎の面目が躍如となる。知らなかったことをずいぶん教えてもらった。わたし親しんだつもりの神田など、本当に狭いせまい一角だけだと、読みながら実感させられた。

《神田は、法律学校のまちでもあった。それらが、明治大学、法政大学、中央大学、専修大学になってゆくのだが、以上はそれ以前、明治三年までの段階である。法律、法律、法律で、灰かくらが立つようだった。やがて、“法科ばやり”の明治がやってくるのである。》402ページ

司馬さんには江藤新平を主人公にした「歳月」という長編がある。しかし、これは手許にあるものの、いまだ読むにいたっていない。
司馬さんは大物中の大物、しかしわたしは大きな物語の中の端役にすぎない。時代が途轍もなく巨大な灯籠としてゆっくり、そしてときに泥のしぶきをあげて回転してゆく。
「神田界隈」を読みながら感じたのは、自分が無名の通行人の一人にすぎなかった・・・という、苦い自己認識である、時代背景としては1970年代、全共闘運動華やかなりしころの。

blogやmixiをおやりになっている人たちは、わたしばかりでなくほとんど例外なく無名の通行人の一人。だから、やたら自分について、あるいは思い出について“語りたがる”のだし、そのことに虚しさも感じているだろう(;^ω^)
ほとんど読まれることのないこの感想も、これ以上長くになる前に、さっさと切り上げることにする。

さてつぎはどんな本にしようかなあ´・ω・?



評価:☆☆☆☆

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