二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

高貴なサラへのラヴソング(ポエムNO.23)

2011年07月03日 | 俳句・短歌・詩集
サラが歌うラリルレ ラヴソング。
ぼくはベッドの上や カフェや 犬小屋のまえで
サラの歌に耳をすます。
少女であり 老女である。
聖女にも見えるが ほんとうはダウンタウンの娼婦?
そうかもしれない。
過去にずいぶん 大金をせしめられた。
ああ だけど彼女が歌うラヴソングが聞こえてくる。
ぼくはそれにさからえない。

更地のサラであり サラリーマンのサラであり お皿のサラであるサラよ。
それらであり それらではない。
フランス産の香水のように強烈ににおっている。
空腹のときの子猫のように身をくねらせている。
ライヴハウスのドラムのようにたたかれている。
大都市のマンホールのような昏い眼をして未来と過去を見据えている。
ミューズもヒロインも美の化身なんかではなく
とても悪魔的でこんなにも汚れていてしかも高貴なのだ。

彼女があらわれるとぼくの意識のゆれが大きくなる。
「どうかいましばらくぼくの傍らにとどまっておくれ」
・・・というと彼女は無慈悲に遠ざかる。
「あっちへいけ もう二度と姿をあらわすな」
・・・というと彼女はやってくる。喜々として。
たとえばシューベルトやチャイコフスキーの楽譜のなかで踊っている。
ネムノキに縁取られた七月の空にプカプカ浮かんでいる。
図書館の本の最初の一ページにはさまっている。
手をのばし引き寄せようとすればそれがかなう距離のところに。

乳房のようなものがある。
太腿のようなものがある。
ひとむらの黒い茂みと割れ目も。
それらはぜーんぶぼくのものだし
あらゆる男のものである。
彼女の心や体に出入りできる男の数を数える空しさと向き合いながら
ぼくはうめき声を発し
それからこらえにこらえてアルコールの海をただよう。
ぼくひとりのものであったことがかつてはあったのだし
ぼくはその思い出の重みをいまも感じる。

「あー」であるだろう。
「あああ」であるだろう。
彼女のくちびるをついて出る悩ましい快楽の音楽は
演奏家の手によって その音色やリズムを変える。
その肉のほむらのようなものをしゃぶったり
つかんでこねくりまわしたり
上体にのしかかったりして
ぼくは入っていく。
全存在を彼女に重ね
やさしく激しく鍵盤のように連打する。
サラよ! サラよ! サラよ!

窓の下をブルーメタリックのプジョーが通りすぎたね。
だけどここは ミラノでもアムステルダムでもなく
大和撫子たちの国のちっぽけなシティーホテルなのだ。
火傷しそうに熱い肌のおんなと寝れば火傷するに決まっているさ。
だからサラが去ったあと ぼくは打ち身と火傷の手当をしくちゃならない。
・・・というオブセッション。
「愛しておくれ
さあ 残り時間はあとわずかなんだよ」
眼をさますと いつだってサラは「そこ」にはいない。
サラはあらゆるところにいるのだから。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

自注1:詩とはとても不思議なものである。
その第一の不思議は・・・詩は書き終わってみないと、自分がどんなものを書くのか、よくわからないことだろう。
最初の数行を書く。すると、その数行がつぎの数行をつれてわたしの指のさきに、
しずくのように宿る。きっかけはお友達(マイミク)のdenimroadさんに「たまには恋の詩などを」とリクエストをうけたこと。
したがって、詩の最初の読者はわたし自身なのだ。
これがはたしてほんとうのラヴソングといえるかどうか。断るまでもないだろうが、サラは現実には存在しないし、モデルにした女性もいない。あくまでわたしのひとときのオブセッションである。
自注2:詩と写真のあいだに直接のかかわりはありません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« RICOHとPENTAXと「Mr. OLDMAN... | トップ | ランチ484円はお安い!? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

俳句・短歌・詩集」カテゴリの最新記事