二草庵摘録

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靖国問題   高橋哲哉(ちくま新書)

2010年02月24日 | 歴史・民俗・人類学
下らない本を読んでしまった。
あと、20ページほど残ってはいるけれど、
最後まで読んでも、虚しさがつきまとうだけだろう。
右顧左眄し、論理的な整合性にばかり気をつかい、
得票数アップを狙っている。
このようにして、肩書きも手に入れたのではないのか?

(1)「感情の問題」(一章)
靖国神社は「感情の錬金術」によって戦死の悲哀を幸福に転化していく装置にほかならない。戦死者の「追悼」ではなく「顕彰」こそがその本質的役割である。
(2)「歴史認識の問題」(二章)
「A級戦犯」分祀論はたとえそれが実現したとしても、中国や韓国との間の一種の政治決着にしかならない。靖国神社に対する歴史認識は戦争責任を超えて植民地主義の問題として捉えられるべきである。
(3)「宗教の問題」(三章)
憲法上の政教分離問題の展開を踏まえた上で、靖国信仰と国家神道の確立に「神社非宗教」のカラクリがどのような役割を果たしたのかを検証すれば、靖国神社の非宗教化は不可能であり、特殊法人化は「神社非宗教」の復活にもつながるきわめて危険な道であることが分かる。
(4)「文化の問題」(四章)
江藤淳の文化論的靖国論を批判的に検証することで、文化論的靖国論一般の問題点を明らかにする。
リベラル左派の言動のようにも見えるが、「わたしは日本人ではなく、地球人なのです」といいたいのだろうか?
こういう人間が、東京大学の教授をしているのである。
その肩書きを剥ぎ取ったら、もうなにも残らないだろうし、
他国に攻め込まれたら、まっさきに海外逃亡をくわだてるに違いない。

憲法9条は立派な理念ではある。しかし、そんな理念が、パワーポリティクスの支配する国際関係のなかでは、あくまで理念でしかないことを、そういった弱肉強食の暴力がまかり通る世界をあることを、軽く見過ぎた議論であるとわたしは思っている。卑近なたとえでいえば、日本にも、「兵隊さん」が必要なのである。彼らに危険きわまりない「火中のクリ」を拾わせておいて、それを命じた国家が、生き残った国民が口をぬぐっているわけにはいかないし、国家の命によって戦死または戦没した死者の追悼というとき、宗教問題は避けては通れないとは自明である。

愛国心なき日本と日本人。
国際的で論理明晰な平等の使徒とふるまいながら、結局は売国の徒となりさがっていくのは、おそらくこういう男なのであろう。ここには、高橋哲哉という人間の、生々しい現実はどこにも見られはしない。あんたの父は、祖父は、曾祖父は、なにものであったのか?
そのことを問わずして、靖国問題を語ることは、ただの「きれい事」でしかない・・・となぜ問わずにいられるのだろう。

政治家でいえば、調整役であり、世俗的には八方美人である。
小林よしのりが、マンガ家生命を賭けて発言しているのと比較し、
この男は「賭けるもの」すらもっていない。
東大教授という、知のステータスを賭けての「靖国論」とは、とても思えないのである。

「あなたは何者であるのか?」
そこをないがしろにした「昭和史論」のなんと空疎にひびくことだろう。
日本という国が、解体に瀕しているいま、
それに手をかすような論には、到底荷担することはできない。
アメリカの軍事力、核の傘の下で、のうのうと暮らして、
しかも「東大教授」の肩書きにささえられながら、あれに気を遣い、これに気を遣いして、
帳尻あわせに余念のない男にとって、現実とはなにか? 

傍観者の言。・・・論点を整理し、洗い出したという意味では認めたいけれど、毒にもクスリにもならない「識者の意見」とは、昔もいまも、こんなものなのであろう。



評価:★★

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