春休み中で読書とプログラミングに明け暮れている息子。
昨日の夕食後、こんな会話をしました。
(娘とはあいかわらず人間関係についての会話ばかりで、プライバシー上、
記事にできず残念……。)
息子 「量子力学って、シュレーディンガーの猫とか二重スリット実験の話を聞くと、
これまでの考えがくつがえされるような発見を扱っているように見えるけど、
いろいろ本を読んでみると、新しいものさし、解釈を手に入れたという感じなんだな。
発見したのはあくまでも道具だから、何でも測ろうとしたらいけないっていうかさ。」
わたし「お母さんも量子力学について書かれた本……数式の部分は抜かしながら
読んだことがあるけど、理解するには能力的にしんどいものがあるみたい。
摩訶不思議な印象だけが残ってよくわからなかったわ」
息子 「わからないって状態でいいんじゃないかな、これについては。
大学で勉強するまで、どうして高校以降の勉強はもっと比喩を用いて噛み砕いて
説明しないのか、わざと小難しい用語を使ってわかりにくくしているんじゃないかと
思っていたんだけど、いざ学んでみると、そうするのが妥当って理由が見えてくるんだ。
大学で扱うような最先端の学習内容になるほど、学んだあるひとつの物事が、
何にでも通用するわけじゃなくなるから。
大学数学は、『真』と確信できる正しさがあって、それを理解しようとするんじゃなくて、
これこれこういう仮説を当てはめてみたらうまくいくから、
このことについてはこの計算式を使って考えていけばいいんじゃないかっていう
逆説的な考え方で成り立っている部分がずいぶんあるんだ」
わたし 「それじゃ、比喩を使って異質なもの同士を結び付けるのはまずいわよね。
それにしても、二重スリットの実験の話を考えると、わからないながらに、どうして
そんな結果が生じるのかとキツネにつままれたような気持ちになるのわ」
息子 「光は粒子なのか波なのかって考えていくと、
確かに摩訶不思議な気分を味わうわけだけど、そもそも粒子や波の概念に勘違いが
あったとしたら、話は別だよね。
量子力学の世界に伴う不思議さは、もともと自然に潜在していたプリミティブなものの
側にある。
この何年かの量子力学の話題で、スゴイ、新しい、って話題を目にすると、
どれも学者にとってスゴイのであって、一般人が感動するような新しい事実の発見とは
別もので、新しいものさしを作ったという種類のものだよ」
わたし 「知った結果が、手品の種を明かされたようなものでも、
誰にも想像がつかないとされていた未知のものが明かされていくのは
わくわくするわ。ここのところ、今の仕事に関連する本しか読んでなかったけど、
量子力学の本、わからないながらに、わかるところまで本を読んでおきたいわ」
息子 「それもいいけど……。
前まで、学んでるものの先端に向かうほど価値があるように思っていたんだけど、
いろいろ学ぶほど、難しそうに思える量子力学にしても、
プリミティブなもともとのものの組み合わせであることがわかってきて、
単純なもの……すごくプリミティブなもののすごさを再確認することになるんだ。
そうした『もとのもの』を軽んじていると、よくわからない方向に
考えていっちゃうんだろうなと思うようになったよ」