虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

自分に自信がない、自己肯定感が低い子 4

2016-05-19 15:28:22 | 自己肯定感を育む

 

前回の記事にこんなコメントをいただきました。(もとのコメントは非公開にしているものですが、子どもの名前の部分以外は公開することを許していただいているので紹介します)

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以前保育園の保護者の方の様子を見て、子供の要求と保護者の希望を混同している

保護者が多かったこと、さらには大人の希望のみで子供の要求に

気付いていない保護者が増えてきたと感じているとコメントでも書いたことがありましたが、

どうしてそんなことを感じたかと言うと、自分の軌跡だと気付いたからだと思うのです。
同様に、この一連の“自分に自信がない、自己肯定感が低い子”の記事を見て、

このAくんもお母さんも両方とも私であると感じました。

最近も、自分と他人との境界について考えることがありますが、

私は子供の頃、他人の気持ちに敏感であるために、自分の

考えがわからなくなっていたのかなと考えています。そのまま成長し

、合理的な考えでしか判断できない大人になっていたのだと考えています。

大人になるにつれて他者の気持ちを優先しなくても良いようになったから

楽になったようでいて、自分のこともわからないままだったため、

なにか軸のようなものを見失ったまま、生きている実感がないような感じでした。
自分の子供がうまれたとき、久しぶりに他者の気持ちと通じる必要が出てきたけど、

すっかりその他者と通じる感覚を忘れていました。

もちろん自分というものも見失ったままだったので、子供がもっと小さい頃は、

合理的な考えや浅い部分で感じる自分の欲求と子供との関係をバランス

ゲームのように築こうとしていたのかなと考えています。子供がそれで問題なく育てば良いけど、

うちの子供たちは、敏感さをもつ、他者との境界があまりはっきりしない子供たちだったから、

押し付けがましい周囲の考えはどんどん子供たちの内面に流れていくけれど、

子供自身は自分の欲求と折り合いをつけないといけなかったから

だったからしんどかったでしょうね。それで色々問題が起きたのかなと

考えています。そこではじめて、子供がなにを考えているか、問題がどうしておこるのか、子

供のことを知りたいなと考えるようになりました。

ひたすら育児書などをみたけど私の知りたい答えは見つかりませんでした。
結局子供を知る、感じることができるようになってきたきっかけは、

自分をみつめたことでした。自分の感情に相反するものが存在すること(両義性)と、

子供の頃の自分にあったもの(先生の娘さんたちが起こした会社の面接など)

を見つけたことでした。子供との関係で、自分のなかに絶対的な善悪や基準など

の境界がなくても良くて、色々な状況に応じてフレキシブルに動きうる、ファジーさ

を残した境界があれば良いのだと実感したことと、子供のころの自分と

目の前の自分の子供が同じであり、子供という存在の普遍性を感じたことによって、

子供と自分にバランスのよい境界をつくっていこうと考えることができたのだと思います。
子供たちのお陰で、これからも子供の頃に失ったままだった自分を

見つけられるのではないかと思っています。もしかしたら、

子供の頃に見失ったからこそ、見つけられるものがあるのではないかなと予感しています。

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何度か紹介させていただいている『マイコー雑記』というブログで

一次体験を堪能しておくと二次・三次情報に触れても 好奇心の勢いや理解の深さが違う

 という記事を読みました。

この数年、密かに抱えていた悩みを解決する糸口を見いださせて

いただいく内容でした。

悩みというのは、こうしたことです。

わたし自身は教室で子どもたちと驚いたり感動したり

わくわくする気持ちを探究したり真剣に考えをめぐらせたりして、この記事にある一次体験というものを

どっぷり堪能した後で、そこから生まれた気づきや知恵やアイデアを言葉にして伝えています。

でも、そうして一次体験の先にあるものを目にすることで、受け取る親御さんのなかには、

マイコーさんの記事にあるように、体験を子どもが味わう間もなく、「これを機会に学ぼうモード」に

なってしまう方がいらっしゃるのです。

それはまだいい方で、ちまたでは、一次体験をすっとばして、二次・三次情報だけで

子どもの環境を作ってしまおうとする動きもあります。

ブログを読みやすくする意味で、「○○する方法」というタイトルで記事を書くことも

あるのですが、本当は、子どもが生きていることを実感できるような一次体験が土台にあって、

その体験をより豊かな実りあるものにするための工夫を言葉にするつもりが、

読み手に伝わる時には、本末転倒して、「○○を習得させるという目的のために、子どもに

こういう体験をさせる」という形に変形してしまうことも多々あるのです。

 

前回までの記事で、大人の目線で子どもの体験を眺めることについて書いてきましたが、

それは言い換えると、「子どもが一次体験を堪能する」ことの軽視とも言えます。

また、コメント主さんのおっしゃる

「子供の要求と保護者の希望が混同されること」や「大人の希望のみで子供の要求に

気付いていないこと」とも言えるのかもしれません。

 

親のみならず子どもに関わる専門職の方や、

子ども思いの気持ちの優しい親であっても、自分がしらずしらずそのようにふるまっていることに

気づかないほど、そうした関わり方が多数派になりつつあるのを感じています。


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